これも全部、必要なことパチン、パチン、パチン――――。
静かな部屋の中で爪を切る音だけが響く。ベッドの端に座った荼毘の向かいに座ったコンプレスはつぎはぎの手を取って、丁寧に爪を切っていく。
少し伸びた爪を爪切りで切って、やすりで整える。
そんなに丁寧にしなくても邪魔にならなければ何でもいいのにと思いながらも、荼毘は大人しくしている。
ガタつく爪をやすりで削って、引っかからないように指に沿ったカーブを作る。片方の指を仕上げて満足そうにしたコンプレスは「はい、反対の手出して」とまるでお手をしてもらうかのように荼毘の手を待った。
荼毘はベッドの上に置いていた手をコンプレスの前に出す。
「……楽しいか?」
反対側も同じように伸びた爪が切られていく。機嫌が良さそうな顔をしてるコンプレスに荼毘は眉をしかめながら聞いた。
「ん?うん、楽しいよ」
他人の爪など切って何が楽しいというのか。荼毘にはよくわからなかった。
「他人の爪を切るのが趣味なのか?変わってるな」
「え、違う違う!別に趣味じゃないし、他のやつの爪なんて切らねぇよ」
コンプレスは鋭い目を細めて小さく笑った。いつもの無機質な仮面は部屋に入った時にはもう圧縮されていた。部屋の外では素顔を見ることがないが、部屋の中では常に素顔だ。思ったよりも若そうな壮年の姿にももう慣れた。
「じゃあなんで」
荼毘は自分で聞いておきながら、なんとなくどんな答えが返って来るのかわかっていた。
「ん~……好きな子の身なりを整えるのって楽しいんだよなぁ。髪の毛セットしたり、服選んだりするもの好きだし、俺」
「……あっそ」
コンプレスは荼毘のことを〝好きな子〟と言う。
だたそう言われるだけで、何かってわけじゃない。この関係にこれ以上先があるようにも見えないから。
二人は世間から疎まれる存在のヴィランで、ヒーローとの戦いの後はどうなるかなんてわからないし、知る由もない。大義も名分も全てがチグハグで、互いの本音だって知らない。
荼毘は自分のことを喋らないし、コンプレスだって言っていることがどこまでが本当かなんてわからない。何も知らないまま残された時間を共有しているだけ。
ただ身を寄せ合って、空いた隙間を無理やり埋める。
「はい、出来た」
「……ん」
綺麗に整えられた爪はツギハギの手には不格好に見えた。こんなことをして何の意味があるのかわからない。それでも静かに過ぎていくこの時間が嫌いではないから、荼毘は大人しくコンプレスに手を委ねている。
「靴脱いで。足の爪も切ってあげる」
「は?何でだよ。別にいい」
ブーツを脱がそうとするコンプレスに荼毘は手を払い除けた。手の爪ならまだしも足の爪まで切られることになんだか気恥ずかしさを感じてしまう。
「ついでだし。それにさぁ……ちゃんと切っとかないとたまに刺さるんだよね」
「何が」
「足、絡ませてきた時に引っ掻かれるから」
な?と言って、はにかんだコンプレスに荼毘はなんとも言えない顔をした。
「……もうしねぇ」
「いやいや!全然いいんだぜ?背中にもいくらだって爪立ててもらってもいいし!でも荼毘の爪が折れちゃう可能性だってあるんだし、一応な」
ブーツと靴下を脱がされて、足を膝の上に乗せられる。持たれたふくらはぎが少しくすぐったく感じるのは気のせいだ。
「足の爪も整えたら、昨日の続きしような」
パチン、パチン、パチン――――。
再び爪を切る音が静かな部屋の中に響く。
「……ミスター」
「ん?」
「早く、しろ」
「はいはい。良い子で待てて偉いな」
「……うぜぇ」
子どもを宥めるような言い方に荼毘はベッと舌を出した。
丁寧に丁寧に爪が整えられていく。いつまで続くのかわからない時間がもどかしかった。それでもやはり、この時間が嫌いではない。
二十本の指の爪が綺麗に整えられた時、コンプレスはやっと荼毘の隣に座った。
ベッドが軋んで、シーツが新しい皺を作る。綺麗に整えられた爪が再びコンプレスの背中に痕を付けた。