転夢 彼はいつも人に囲まれていた。いつも笑っていて、すごく可愛らしい笑い方をする人なんだなって。そして私はいつからか、その笑顔から目が離せなくなっていた。
今年から転入したから転入生、新入生。そういう風にみんな呼ぶけど、彼の名前を呼ぶのは一部の人に限られていた。だって、彼のことを呼ぶには転入生っていう肩書だけで足りてしまうんだもの。彼の名前を呼ぶのは彼の同級生とフィグ先生くらいだろうか。
別に彼自身が呼ぶなと言っている訳じゃないけれど、なんとなく呼べずにいた。しかも、私はその、彼のことをちょっといいなと思っているので。余計に呼ぶことなんてできそうもなかった。
そんな彼と思いがけず会話をすることになったのは図書室だった。
課題で使う本をいくつも見つくろって、使いたかった最後の一冊をやっと見つけたときだった。その本が少し高いところにあったのだ。片手は本でふさがっているし、手を伸ばせば届きそうだしと思って杖を出すのを渋った私は背伸びをしてその本を取ることにした。それがいけなかったらしい。
思い切り背伸びをして、その本をやっと取り出したのはいいけれどその勢いのせいでぐらりと後ろにふらつく。おまけに体勢を整えようとした足を自分の足に引っかけてしまい、これは確実に転んだと思った。思ったんだけ、ど。
「君、大丈夫!? 転ぶと思ってつい支えちゃった、ごめんね」
はっとしたときには背中にしっかりとした腕が回っていて、体が支えられていた。ふわりと香ったのは何だろう。爽やかな香りだった。ゆっくりと顔を上げると、そこには例の転入生がいて、心配そうにこちらを窺っていた。
彼と目が合った。ダークブルーの瞳が細められるのを見て、頭の中が真っ白になる。反射的に叫びそうになったのを必死にこらえて顔を伏せた。ほっとしたように笑った彼がゆっくり離れるのを感じて、心臓の音が聞こえてしまう心配がなくなったことに安心した。いや、ほっとしている場合じゃない。だって、いま、そこに、彼がいるんだから。
真っ赤になっているであろう顔をあげて、そろりと彼の様子を窺う。目が合って、にこりと笑みを浮かべた彼は今日も素敵な笑顔だった。
「足とか捻らなかった?」
「うん……あ、ありがとう」
「うん、転ばなくてよかった。気を付けてね」
「……うん」
じゃあね、と背を向けた彼を呼び止める。こちらを向いた彼に何を言おうとしたのかもわからずあわあわしていると、転入生はちょっとだけ眉をさげて。
「慌てなくていいよ、ちゃんと聞くから」
その優しい声にますます照れてしまって、全身が熱くなる。
「あの」
「うん」
「……あなたも、課題とか大変だと思うけど、頑張ってね」
私の言葉にきょとんとした顔をする彼。その表情が珍しい気がして思わずじっと見てしまう。それからすぐに嬉しそうに笑った彼は、頬をかいて言う。
「ありがとう、それじゃあ。君も転ばないように、魔法はちゃんと使った方がいいよ」
手を振って背を向けた彼を今度は呼び止めなかった。いつから見てたんだろうと違う意味で顔が熱をもつ。今は課題のこととか全く考えられなかった。
今は転入生って呼ぶこともなかなかままならないけど、いつか彼の名前が呼べたらいいな。