「放浪者が、出かけたー⁉」
「あら、随分驚くのね。パイモン。この世界ではもう、彼の罪は『存在していない』のよ。知っているのは私たちだけ。なら、彼が自由に出歩くのも不思議じゃないでしょう?」
当然のことのようにナヒーダは返す。
そこに対しパイモンはまだ不安が残っているようで、納得がいかない表情をしていた。
「記憶を取り戻して早速自由にしたら、何しでかすか分からないだろ?」
などと言葉をこぼすパイモンに対し、ナヒーダはくすりと笑った.
「ふふ、心配性なのね。でも、今日は嘘と本当が交わる日。このことを伝えたから、彼は出かけたのだと思うの」
『嘘』と『本当』つまり、エイプリルフールだ。
そんな日だから出かけた、と言うのはパイモンにはしっくりこなかったようだ。
「つまり、『存在しないもの』も、入り混じるのよ。そんな日に彼の向かう先は、貴方たちなら分かるのではないかしら?」
「行き先……。なぁ、旅人。お前はどう思う?」
話を振られた旅人はポツリと呟いた。
「心当たりならある」
「なら——」
「だから、そっとしておこう」
「良い判断ね。ねぇ、パイモン。彼が自らの心の整理がつくまで、私たちでお茶でもどうかしら?」
「ナヒーダがそう言うなら……」
渋々、といった様子のパイモンにナヒーダは「美味しいお茶菓子を見つけたのよ」と付け加え、三人は近況を話しながら待つことにした。
「——全くくだらない。こんなことで、出かける僕もまた、くだらない
ふと独り言をこぼす放浪者が立っていたのは、たたら砂のなんの変哲もない、ただの平地だった。
そう、なんの変哲もない平地。
ここは以前、傾奇者のしての彼と——丹羽が暮らした地だった。
今はもう、何一つ残ってなどいないのだが。
「当然だ。四百年も前のことなんだから」
丹羽が殺される現実は変わらなかった。
ほんの少しの揺らぎを起こしただけの自己犠牲、と自らの行為を嗤った放浪者は、ナヒーダから聞いた、エイプリルフールに起こる『とある現象』に興味を持った。
仮に、本当に『存在しないもの』も入り混じるなら、丹羽が残した何かも、嘘と本当の狭間で揺れる今日なら、出会うことが出来るかもしれない、と。
しかし、実際は何もなかった。
それもそのはず、仮に自身の行為が成功し、丹羽が天寿を全うしたとて、四百年も前の人間なら、何も残るわけがない。
そんなことも全て分かった上で、博士の記憶で見た丹羽の殺害現場へと向かう。
ここで、丹羽は——。
本能的なものか、感情的なものか、自分でも分からないながら、放浪者はその場で手を合わせた。
そして、しっかりと眺める。
今となっては何もないその場所を。
「ねぇ、丹羽。僕がここに来る権利はないかもしれないけれど……」
放浪者はポツリ、ポツリと言葉をこぼす。
「全部、今更なのは分かっているけれど。それでもさ、僕は——ん?」
ふと、足元に何かが埋まっていることに気がつく。
それは、何かの紙、それももう風化し、雨風や土埃で読める箇所はとても少ないが——それは、丹羽の日記だった。
丁寧に土埃を払い、読める箇所を増やそうと目を凝らす。
なんの変哲もない、傾奇者との生活を記した日記。
胸が、喉が、苦しくなるのを放浪者は感じた。
捨てたはずの感情は、その一文字一文字に揺さぶられる。
「いつか、彼も名前を得る日があるのだろうか」
その言葉には優しさがこもっていた。
「その日が早く訪れることを、願わずにはいられない。彼も、人間なのだから」
「丹羽、僕は——」
自らの声が震えていたのを感じた。
心なしか、手も震えている。
そこには愛が詰まっていたから。
「拙者も、その名で呼ぶことは許されるだろうか。少しばかり、贅沢すぎるかもしれぬが——」
所々掠れた文字からでも、丹羽の想いは十分過ぎるほどに、放浪者に届いていた。
「もしも、許されるのであれば、拙者が名前を与えて良いのなら、拙者は——」
「……なんで、っ!」
一番大事なところは、どう足掻いて読めなかった。
「なんて名前を、僕につけたかったんだよ……。丹羽ぁ……」
紙には雫が溢れ、染みがつく。
ガラス玉のような瞳が揺らいで、その言葉の先を探し続け、やがてしゃがみ込む。
暫く膝を抱えていた放浪者の神の目が、途端に強い光を発し、思わず強く目を瞑る。
ゆっくりと瞼を開いたその先は、視界いっぱいの白と、微笑んだ見慣れた姿。
「良い名をもらったな、傾奇者」
そう彼を呼ぶのは、もう世界には彼しかいない。
「丹羽——」
「拙者も、今のお主の名前を気に入っているでござる」
「ねぇ、丹羽。丹羽はなんでつけたかったの? 僕の、名前……」
「さぁて。四百年も昔のことでござるからなぁ。しかし、今は傾奇者と呼べるのは、拙者だけだと思うと——傾奇者、と呼んでいたくなる」
丹羽は冗談めかしく言うが、それが本心だと言うことは、放浪者にはすぐに伝わった。
何故なら、彼は傾奇者。
かつて、丹羽が愛したその名を、彼は忘れられなどしなかった。
「少し——意地悪でござったか?」
「ううん。丹羽は……丹羽なら、僕のこと『傾奇者』って呼ぶことも許してあげなくもないよ」
「——そうか。では、傾奇者」
「何?」
「拙者は、いつだって傍に居るでござる。いつでも、いつまでも、お主を見守ろう」
「うん」
「だから、こうして話すのは——また来年、であるな」
「僕げ覚えてれば、だけどね?」
「ふふ、お主は忘れぬよ。拙者が一番よく分かっているでござる」
丹羽は嬉しそうに胸を張る。
その姿に、放浪者も笑みが溢れた。
「どうだかね」
ああ、僕はこのことを、この日のことを永遠に忘れない。
あの日記の言葉も、この会話も、ずっと。
だって、僕は傾奇者。
君がつけた名前と、丹羽が呼ぶ名前は違うけれど、どちらも僕の——
「たからもの、だから」
平地で一人、微笑む少年が、そこには居たのだった。