おせりか女体化シリーズCUTE is JUSTICE
赤の他人が共同生活を送る以上、どうしても暗黙のルールというものが生まれる。それは住人の一人から「ハチャメチャ動物園」と称されるカリスマハウスにおいても同様だった。
いくつか存在するルールの中には、飲酒はリビングではなくダイニングで行う、というものがある。理由は追々わかるとして、そのルールはつい先ほど秩序のカリスマによって破られたところだった。
*
「おーせくん! いつもソファーの陰に隠れて。理解おねーさんの隣に座りなさい!」
バンバン! 力加減を忘れた手が座面を叩く。普段ならぽんぽん、とか、とんとん、とか、そういう音しか立てたことがないのに。同席を要求された大瀬は理解のいつにない態度に「ひゃい……」と怯えつつも何とか従った。
震える大瀬が隣に座れば理解は先程の怒りが嘘だったかのようににこにこと機嫌よく笑う。そして数分前に自分が入れた白湯を飲むよう求めるのだった。
「あれは一体どういうプレイでしょう」
「私の白湯が飲めないのか」という声を耳に入れながら、つい先ほど入室してきた天彦がダイニングテーブルにつく面々に尋ねる。
「あー、あれね……」
依央利は目を泳がせながら新しいワイングラスに白ワインを注ぎ、天彦の前に置いた。「こんなこと奴隷としてあり得ない」「無能って思われちゃうかも」等々穏やかでないことをぶつぶつと呟く依央利を天彦はただ待った。実はずっとダイニングテーブルに掛けていたテラはそんな二人を眺めながらグラスを傾けるのみだ。
言い淀んでいた依央利が経緯の説明を始めたのは、大瀬が4杯目の白湯を飲み終えた頃だった。
*
入浴を終えた理解がダイニングを訪れたとき、依央利とテラは晩酌の真っ最中だった。今夜のお酒は白ワイン。テラには白ワイン用のグラスが提供されていたが依央利はマグカップを使用していた。奴隷にワイン用のグラスなんて勿体ないから、ではなくて、今日はなんだか面倒だったのだ。
ご機嫌な二人を視界に入れた理解が「飲みすぎは健康を害しますよ」と眉をしかめるので、ごまかすように依央利は「理解くん、白湯飲むでしょ? 用意するからちょっと待ってて」と席を立ち、ぱたぱたとキッチンに向かった。
理解はダイニングテーブルに着こうとしたが、いつかの夜を思い出し警戒した様子でリビングのソファーに浅く腰掛けた。テラはそんな彼女をにやにやと見ている。
「あっ、ごめんね理解くん。いつもの湯呑、漬け置き洗いしちゃってて……マグカップでいい?」
「勿論ですよ。ありがとうございます」
「今お持ちしまぁす」
マグカップを持った依央利が歩がダイニングテーブルのあたりまで進んだのと、ドアが静かに開けられたのはほぼ同時だった。
「あっ……」
隙間から依央利と目があい、大瀬はつい声を漏らしドアを閉めようとした。今晩の夕食をあらかじめ断り午後をずっと引きこもっていた大瀬がそのまま退室できるはずもなく。
「大瀬さんお腹空いたでしょ? すぐ軽食作るから待ってて」
「い、いえ、クソなんかにお構いなく……」
「オバケくんお昼から何も食べてないんでしょ」
「大瀬くん、変な時間に食べるくらいなら今にしよう」
このシェアハウスは大瀬の居場所だが、時に味方が誰一人としていなくなる。
「テラさんと理解さんまで……みなさんご心配してくださっているのにごめんなさい。お詫びに――」
「じゃあ今から僕の作るもの食べてってば! 理解くん、白湯はここに置いておくねっ」
テーブルの上にマグカップが二つ。白く断熱性が高い、依央利が毎度綺麗に洗っているため新品と見間違うほどの、珍しく共用の食器。大瀬に食事を摂らせることができる安心感からか、理解は一切何も考えずにそのうちの片方を持ち再びソファーに座った。そしてこちらも一切何も考えず、マグカップの中身――白ワインを、ごくりごくりと飲み干した。
「んっ!? これ、白湯じゃ……」
はっと口を押さえ、依央利の様子を窺う。何を作っているのかはわからないがキッチンで忙しくしているようで、理解の声には気づいていないようだった。
――私としたことが……
今になってアルコールが喉と腹を熱くする。
――後で歯を磨き直さなければ。それよりもまずは水分を……そうだ、白湯。
アルコールは全く受け付けないというわけではないが、決して得意ではない。立ち上がった時に一瞬ふらりとしたが気合と根性で歩みを進めた。
キッチンまで行き、大きなやかんで湯を沸かす。
「あれぇ理解くん、白湯おかわり? 僕がやるから座っててよ。……てかそんなにいる?」
「え? あー……まあまあまあ」
「ふみやさんみたいなこと言わないで」
依央利には大瀬の食事の支度がある。白湯の番ができないことを歯噛みしながら手を動かした。
思考が鈍っている中ではあるが理解はそっと安堵の息をついた。理解がカップの中身を確かめなかったのが一番の原因であることは一旦置いておいて。理解が白湯と間違えて白ワインを飲んでしまうような状況を作り出したという事実はきっと自称奴隷のプライドを傷つけるだろう。
依央利が具材たっぷりのBLTEサンドを完成させたのと理解がIHヒーターの電源をオフにしたのはほとんど同じタイミングだった。
……大分酔いが回ってきた。ふらふらと運んでいたやかんは依央利にさらわれ、リビングのテーブルの上に置かれた。隣には出来立てのサンドウィッチとコンソメスープ。ソファーには依央利の手を煩わせたことについてこの世の終わりのような顔をしている大瀬が座っていて、ふらつかないよう注意しながら理解も隣に座った。
「……おーせくん、食べられるかな」
返事の代わりに腹が鳴った。赤面する大瀬の横顔に微笑み、理解はマグカップに白湯を注ぎゆっくりと飲む。これでアルコールが薄まってくれればいいが。ゆっくり、ゆっくり、もう一杯。
――体が熱い。
「え? これワインじゃない白湯だ。ってことは理解くんがワイン飲んじゃったの!? しかも今お湯飲んでるの!? うわー駄目駄目酔い回っちゃう!! 水、水!」
依央利が騒ぐ声は理解には届いていなかった。
*
「……なるほど。そして大瀬さんが食器を下げて戻ってくるまでのごく短時間で理解お姉さんは本格的に酔っぱらってしまい、あんなに過激に大瀬さんに絡んでいる。そういうことですね」
「そうなんです……お水を用意しても、白湯じゃないと駄目って全然飲んでくれないし……」
「珍しく我が儘な理解さんもセクシーですが、これは困りましたね」
白湯ハラスメントはやんだようだが、大瀬は一体どれだけ飲んだのか。
「ごめんね大瀬さん……スープつけなきゃよかった……」
「野暮ですが、一旦二人を離しましょう。世界セクシー大使にお任せください」
天彦は空いているソファに腰かけ、二人の様子を見た。テーブルの上にはやかんとマグカップの他に水の入ったグラス。こちらの中身は減っていない。
「おーせくん」
理解は機嫌よく大瀬の頭を撫でる。酔いのせいで体幹はぐにゃぐにゃのようで、肘掛けと己の体で大瀬を挟むかのように体重をかけている。早い話が大瀬にもたれかかっていた。
――おや、これはなかなか羨ま……ではなく、セクシーですね。
何がおかしいのか、理解は笑い声を上げながら大瀬の柔らかな髪を掻きまわし続ける。それだけでなく空いている方の腕を彼の体に回し、ぎゅむと力を込めた。湯上りの温もりと清潔な香りが残る体に抱きしめられ白い頬がみるみる赤く染まっていく。しかし澄んだ色の瞳は酔っ払いに絡まれている件についての困惑を決して忘れておらず、そのせいで大瀬はとても変な表情をしていた。
「セクシーですねぇ」
「……すみませんが、しみじみとしていないで理解さんを止めてください……もしくはそこのお水を理解さんに……」
天彦は「ふふ」と笑ってごまかそうとしたが、それは理解が許さなかった。
「天彦せんせー、確かにおーせくんはセクシーですが、それだけではありませんよ」
どこか得意げに、そんなとんでもないことを言うのだ。
「り、理解さん!?」
「ふむ。どうぞ続けてください」
当初の目的をすっかり忘れ、天彦は優雅に脚を組んだ。
「おーせくんは、とーっても――かわいいのです!」
知ってる、と、その場にいる大瀬以外の全員が同じことを思った。長毛の猫を思わせる癖っ毛に、白くまろみのある頬。普段は伏せがちな目は大きくてそのせいか童顔だ。極め付きは中性的な声。同性同士だからあえて口にしなかっただけで皆大瀬を可愛いと思っていた。残念ながら天彦の中での可愛いタイプ第一位は猿川だが、代わりにテラの中での第二位に君臨していた。
理解は構わずに続ける。
「おわびをしたいからとお出かけに誘ってくれたときのおーせくん、つい私の手を取って、気づいて動揺して……思い返せばなんてかわいいのでしょう。ああそうだ、翌日の博物館ではハンドメイドのお話を聞かせてくれて、そのときのおーせくん、いきいきとしていて……」
それから約一時間。理解は延々と大瀬の可愛いエピソードを天彦に語ってみせた。それはもう色々と。途中から猿川とふみやもダイニングに入室していたので、いくら子細が抜けているとはいえ住人全員が理解の惚気を聞くこととなった。目を輝かせる者、うんざりしたようにする者、所在なく視線を彷徨わせる者、様々。
「若旦那、理解さん、どうかご勘弁くだせえ…」
哀れなほどに赤面し震える大瀬の目からは今にも涙がこぼれ落ちそうだ。そのことにはたと気づいた天彦はふにゃふにゃになっている一番弟子の声を遮った。
「理解お姉さん、お話を聞かせてくださってありがとうございます。大瀬さんがセクシーでキュートだということは十分にわかりましたので……」
「……そうですか?」
「ええ、もうお腹一杯です」
「……ふふ、そうですか」
満足げに目を閉じた理解は再度大瀬に体を預け、そして動かなくなった。天彦に名を呼ばれてもただ胸が上下するのみ。袖口で涙をぬぐった大瀬は恋人の整った顔をよく観察し、囁くような声で答えた。
「眠ってしまわれたようです」
「そうですか……結局お水を飲んでいただけませんでしたね。明日に響かないといいのですが」
「今からでも……」
「大瀬さんは、その、いいんですか?」
酔っ払いによる面倒な惚気が再開するかもしれないと暗に心配されたが、大瀬は眉をㇵの字にするに留める。
「自分なんかの我が儘のせいで明日の理解さんの健康が損なわれるなんて、あってはならないことですから……」
「……あなたは本当にセクシーな方ですね」
身動きが取れない大瀬の代わりに、天彦が理解の肩を叩いた。
*
目覚めた理解はグラス二杯の水を大人しく飲み、天彦と大瀬の協力により無事inおふとぅんを果たした。戻ってきた二人――否、主に大瀬に一同は「お疲れ様」だとか「酔っ払いの言ったことなんて信じてないよ」だとか、とにかく労りの言葉をかけた。首を縦にも横にも振れないせいであてがわれたナイフは猿川に没収された。
一悶着の後、「それにしてもさあ」とテラが切り出した。
「ソファでお酒飲むくらいいいんじゃない? って思ってたんだけど、やっぱりよくないみたいだね。今回は事故だけど」
天彦が頷いた。
「そうですねえ。絡み酒になってしまいそうです。まあ天彦にはどれだけ絡んでいただいても……」
「ということで、みんな飲むときはこっちか自分の部屋にしてよね。いくらテラくんが綺麗でもあんまり熱烈にされると困っちゃうんだから」
大瀬も含め、皆いい返事を返した。
「わかった。俺も酒を飲むときはダイニングで飲むようにするよ」
「おいこら未成年」
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翌朝。理解は酷い頭痛の中で目が覚めた。心当たりも、なんだったら昨夜の記憶もない。首を傾げながら時計を確認すると七時を回っていて、慌てて着替えを済ませ部屋のドアを開けた。今日は仕事は休みだが、だからと言ってこんな寝坊は許されない。
ドアを開けてすぐ前に大瀬がいて、二人分の叫び声が響いた。
「理解さん、お加減はいかがでしょうか」
回復した大瀬に気遣わしげな目をされ、理解は「大丈夫だよ」と答えた。事実として先ほどの驚きのせいで頭痛はどこかに行ってしまった。
「よかった……」
心の底から安堵しているような笑みを見せてくれる大瀬がとても愛しい。可愛い。やはり大瀬は可愛い。そう思いながら理解は「ありがとう」といつものように目の前の男の頭を撫でた。
「ところで、昨夜の記憶が曖昧なのだけど……大瀬くんはなにか知っているかな」
「えっ? いえ、自分はなにも……」
「そうかな……大瀬くんと一緒にいたような気がしたが、記憶違いか……?」
「この私が寝坊するくらいだから、何かがあったに違いないのに」と理解が独り言つものだから大瀬は気が気でなかった。昨日のことは思い出さない方がいい。壊れ物を扱うようにそっと手を取った。
「今日の朝食は野菜入りのオムレツです。いおくん張り切ってたので、行きましょう」
昨夜について誰も言及しないでくれ。そう願う大瀬の心臓は、手をきゅっと握られたせいで跳ね上がった。