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月が湖に沈む夜だった。
風は止み、水面は息をひそめるように静かだった。騒がしかった城も、深夜には蝋燭の灯が遠のき、わずかに波音だけが残る。
本拠地の入口に面した、波止場に併設されている掘っ立て小屋。湖に向けて開かれた縁側で、タイ・ホーはひとり、酒を呷っていた。茅色の着流しは肩をはだけ、脇に置かれた徳利には、まだぬる燗の香りが漂っている。
「なあ、ヤム・クー。おまえ、この城が沈む夢って、見たことあるか」
不意に、低く嗄れた声が背を向けたまま問うた。
呼ばれるまでもなく、そこにヤム・クーがいることは分かっていたのだろう。背後の気配に目も向けず、タイ・ホーは杯を口に運ぶ。
義兄弟の契りを交わして以来、ずっと共にあった。ときに無茶ばかり押しつけられても、それを笑っていられるのは、男が持つ背中が、どこか己を救うもののように思えたからだ。
「いいえ。あっしはまだ、沈むほど深く夢を見ちゃいないみたいで」
「ふふ、そりゃまた殊勝なこった。……俺はときどき見るんだよな。沈んでく船にひとりで乗っててさ。俺以外は誰もいねぇ。なのに妙に静かで、怖くもない」
「アニキらしいですね。船が沈むときも、ひとりなんて」
「はは、言ってくれるじゃねぇか」
乾いた笑いが、風とともに流れる。
解放軍に加わる決断も、結局のところは賭けだった。主義も正義も持たないタイ・ホーにとって、命を賭ける理由はそれで十分だった。だが、後悔こそないものの――ふとした沈黙に、埋まらない何かが揺れているように見える夜が、ある。
「……ヤム・クー、おまえを巻き込んじまったのは、ちと悪かったな」
珍しく真面目な声音に、ヤム・クーは一瞬、胸を突かれた。
けれど、すぐにいつもの調子で笑い返す。
「またですか。アニキは気まぐれな風なんですから。ついていくほうが、心得てなきゃやってられませんよ」
「そうかい」
ぽつりと返したタイ・ホーが、肩越しにようやく振り向く。
月光に照らされたその横顔は、いつもより少し、年を重ねた男の色をしていた。
「おまえ、変わったな。前はもっと、若造くせぇ顔してたのに」
「そりゃ、誰のせいだと」
「俺か?」
「そうですよ。全部、アニキのせいです」
心からそう思っているわけではない。けれど、本当のことはもっと言えるはずがなかった。
好きだとか、ずっと見ていたとか、そういうものをこの男にぶつけたところで、きっと、まともに受け止められないだろう。
義兄弟という言葉が鎖にも救いにもなるこの距離で、ヤム・クーはいつも揺れていた。
気まずさに耐え切れず立ち上がろうとしたその瞬間、不意に手首をつかまれた。
「……アニキ?」
「逃げんなって」
「別に、逃げてませんよ」
「じゃあ、なんでそんな顔してんだ。まるで、死に別れるみたいな目ぇしてるぞ」
その言葉に、喉の奥が針で突かれるように痛んだ。
気付いていないのは、きっと本当に気付いていないだけなのだ。タイ・ホーとはそういう男だ。鋭いくせに、肝心なところでは平気で鈍感になる。
ヤム・クーは、少し目を伏せて言った。
「アニキは、ほんとに……無遠慮ですね」
「……それ、褒めてんのか?」
「さあ。あっしにも、もうよく分かんないです」
タイ・ホーは軽く笑うと手を引き、己のほうへとヤム・クーを引き寄せた。
その仕草に特別な意図があったわけではない。けれど――酔いの熱を分け合うように、距離は自然と近付いていく。
「なあ、ヤム・クー。船ってのは、岸に縛ってばかりいちゃ、朽ちるもんなんだ。だからさ、今夜は……風が吹いたと思って、乗ってみねぇか?」
瞳の奥に酔いとも熱ともつかない光を宿して、タイ・ホーは笑った。まるで今夜のことも、命がけの賭けの一つだと言わんばかりに。
ヤム・クーは、黙ってその胸に額をあずけた。
この人にとって、恋ですら、きっと賭け事の延長線にあるのだ。育てるものではなく、勝つか負けるか、手に入るか失うか。そんなふうにしか測れない人なのかもしれない。
けれど、こうして触れてくる腕の温もりが、すべてを拒むわけでもないことも、もう知っている。
縁側の影が揺れた。静かな風に誘われるように、ふたりの距離がまた、ひと息ぶんだけ縮まった。
タイ・ホーの手が、頬に添えられる。まるで相手の熱を確かめるように、掌はゆっくりと動いた。
そして、呼吸が重なる瞬間――迷いなく口づけた。
触れるだけの軽い接吻ではなかった。酒と夜の熱を帯びたその口づけは、湿り気を帯びながら、深く、確かに舌を絡める。
躊躇のないその仕草は、まるで勝負ごとのように一途で、欲深い。
いつの間にか、波止場には湖のさざめきが絶え間なく響いていた。
やがて、その静けさの中に、衣擦れと、ふたり分の息遣いが、微かに混じり始める。
風が、吹いていた。