空の青さを海はうっそりとして音もない。
波間を縫って輝く陽が目を射るのに、ヤム・クーはゆっくりと額に手をかざした。
青くさわやかな空、雲ひとつないそこに点々とちいさく黒い染みが落ちているのは鳥でも飛んでいるのだろうか。
舟は波を蹴立てて進む。もはやすぐそこに、クスクスの町は迫っていた。
広大なデュナン湖のまわりを囲み点在する都市や町、そのなかでもわりあいに栄えた街である。その証をたてるように港には大小の船がぎっしりと停泊していて、どれもひと待ち顔にゆらりゆらりとゆらめく波に揺られていた。
白陽が照りつけ、黒ぐろとした舟影が水のうえに踊る。
一週間の航海は漁師にとってさほど長いものでもないが、それでも陸地が見えるとなにがなしほっとするのが我ながらおもしろい。
並ぶ船のあいだをじぐざぐに縫い、船着き場に到着したところでかたわらに立つタイ・ホーがうんとのびをした。
もともと煮染めたようだった浴衣は航海のあいだにさらに垢じみて、豪放といえば聞こえはいいがどうにも小汚い。風に乗ってくる匂いに顔をしかめつつ、船底から錨を降ろした。
ちいさな漁船だから荷揚げを待つ者もない。ちょうど昼どきとあって港には人影も見あたらずに、ただ船の揺れる水音ばかりが耳について聞こえた。
船着き場は乾いていた。そのうえに、生け簀のなかの魚がはねあがっては染みをつくる。
タイ・ホーが網をとり、じたばたと暴れるのを器用にさらいだしていく。とれた魚はおおよそのところ市場で売るのだったが、あげられた木箱のなか見るそれは貧弱で、そうして数もすくなかった。
「ああ今回は不作だな。魚屋どもに持ってったってえ二束三文がいいとこだ」
そのまま網をほうりだすのが三十路の男とはとうてい思えずなんとも子どもらしい。仕方なくそれを拾って船に投げこんだところで、タイ・ホーがまた口を開いた。
「おい、どうするヤムの字よ。こいつぁまた船出かな。畜生めんどくせェな、息つく暇もありゃしねえ」
背後でうなる彼の声をぼんやりと聞きながら、ヤム・クーはただ湖面を見つめていた。光を乱反射させまた呑みこんでいく、ねっとりとした深い緑が美しい。しかしタイ・ホーはそんな情緒などいささかも解さぬようで、いらだった胴間声があたりに響いた。
「聞いてんのかヤム・クー!ぼさっとしてんじゃねえぞ、今夜の飯ィ食いっぱぐれるかどうかって瀬戸際のときにてめえって奴ァつくづくのんきで、ったくやってられねえぜ」
「ああ」
ふりむかず、言葉のみを返してヤム・クーはその場に座りこんだ。日ざらしの木板が布地越しにでも分かるほどしんねりとして熱い。
そのまま手を伸ばし、舟から釣り竿をとる。背後でタイ・ホーの訝しむような声が聞こえたが、気にしないことにして針にみみずをつけた。
「俺はいいですから兄貴どうぞ。すくないってったってこれだけありゃちょっとの金にはなりますよ。家族を養っていかなきゃならないんだから、あんまり短気になっちゃいけませんや」
水面に糸が吸いこまれていく。繋留所のあたりではかかる獲物もたかが知れていようが、だからといってそれで文句を云う者もいない。とりあえず当座の食料さえ確保できればいいのだからと、そう思ったところでふとタイ・ホーが口開いた。
「おまえ、俺がキンバリーと結婚したことまだ怒ってんのか」
云う声音はいつもの彼にそぐわず沈んでいる。それがあまりにおかしく、ヤム・クーはちいさく口の端をあげた。
釣り糸がひきもないのにぴくりと揺れる。それでこちらが笑っていると知れたらしい、男はいつもの憮然とした口調に戻りつつも続けた。
「おいこら聞いてんのか」
「聞いてますよ。…別に怒っちゃいませんや。ただ男ってのは情けないだと思っただけで」
背後をふりかえらずとも、タイ・ホーが顔を赤くしているのが分かる。獣じみたうなり声は威嚇ではなく彼特有の照れ隠しだと、はたしてキンバリーは知っているだろうか。
そんなことを考えながら釣り糸をちいさく動かしてみる。かすかな波紋がたち、湖面をとろりと濁していくのがおもしろい。
陽ざしが強い。なにもせずともじりじりと肌が焦げていくようで、そうしてその暑さのなかけれどもなにも云わないタイ・ホーが不思議だった。
ふだんならば港に着くなりひとの迷惑も気にせずに暑いと云って茶店にでも涼みに行ってしまうものを。
怪訝に思う心は、しかしやがて落とされた言葉によってかき消された。
「おまえには悪いと思ってる。どうあれ女の色香に負けておまえを追ん出しちまったことには変わりねえからな。キンバリーの奴もあれですまながっててな、おまえに謝りたいが会わす顔がねえってそう云ってる。…いまさらだが、すまなかった」
最後のあたりで声がくぐもったのはタイ・ホーが頭をさげたからだと、見ずとも知れた。義理堅い彼のこと、おそらくはそのことが頭のなかにこびりついてでもいたのだろう。謝る言葉に他意はなかった。
手のなかで竿をもてあそぶ。ひきはなく、それが手持ち無沙汰でならない。せめて長靴でもひっかかってくれたならその合間だけは相手をごまかすこともできるのにと思うといささか恨めしくなった。
言葉を真正面に受けとめなければならないのが苦痛だった。けれどもタイ・ホーはこちらのことなど気づかぬようにいて、それがむしろ憎らしくさえなる。
竿を持つ手がすこし震えた。
「よしてくださいよ兄貴。すんじまったことはしょうがないでしょう」
「だけどなおまえ」
ふとタイ・ホーの動く気配がした。近寄ってこようとしているのか、それに先んじ、できるだけ軽く聞こえるようにヤム・クーは云う。
「兄貴には帰る家ができて、俺にはないってそれだけのことですよ。どうせもともとその日暮らしの身のうえで、たいしたこともありゃしません」
言葉がかすれなかったことにほっとする。いつのまにか手にびっしりとかいていた汗を、髪をかきあげざまぬぐった。
そうしてそのまま釣りに集中しようとしたところで、けれどもそのとき不意に頭上を黒いものがよぎる。
なんだと思う隙もなかった。
唐突に脳天を襲った激痛に耐えかね身を折る、その背後でタイ・ホーの怒声が響く。
「てめえ今度そんなことぬかしやがったらスマキにして海にたたっこんでやるからそう思え!」
言葉に驚いてふりかえるのに、タイ・ホーはすでに桟橋を過ぎて町のほうへとあがっていくところだった。
のしのしと足をふりあげ歩いていくその様子にはいかにも怒りの色が濃く、昼を過ぎてちらほらと戻ってきはじめた漁師たちが唖然としてそれを眺めている。
全身醤油で煮染めたような体が人混みのなか呑まれていき、そうしてそれが視界からすっかり消えてしまったところでヤム・クーはふたたび釣り糸へと目を戻した。
殴られたところがまだずきずきと痛むのに顔をしかめながら、それをおしてちいさく笑う。
湖は穏やかで変わることなく、ひとの心など知るかたもない。
木箱のなかでひとつ、魚がぴちりと音をたててはねた。