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霧が、湖の向こうから上がってくる頃だった。
古城の屋上にひとり、カスミは立っていた。忍びのくせに姿を曝け出すなんてと思いつつ、風に吹かれている。
日は既に沈み、薄暮の残光が石造りの手すりを鈍く照らしていた。
胸に宿るのは、言葉にならない思い。名を呼ぶには遠く、ただそこにあって、形にはならない情熱。
──ティア様。
彼の名を、心のうちで静かに呼ぶ。口に出すことすら憚られるほどに、それは脆く、切実な想いだった。
彼が父をその手にかけたあの日から、どれほどの夜が過ぎただろう。その事実だけで、誰もが打ちひしがれてしまってもおかしくはない。
だが、ティアは違った。
仲間たちに、軍に、不安を与えまいと、微笑み、指揮をとり、黙って歩き続けている。まるで、自らを切り捨てるように。その姿が、痛ましくて仕方なかった。
──いや、違う。
誰に問われたわけではないのに、カスミは首を振る。
あの日、私は見てしまった。
カスミの目に、あの夜の光景が蘇る。
テオ・マクドールとの一騎打ちの果てに勝利をもぎ取ったのも束の間、テオからの切創をその身に受けていたティアはその場に倒れた。
運び込まれたのは、本拠地の奥にある処置室。ティアの衣は血に濡れ、白いシーツさえ紅に染めていた。
リュウカンら医術に長けた者たちが呼ばれ、傷を縫い、薬を飲ませ、痛みを抑えるための最大限の処置が施された。
カスミは、廊下の陰にひっそりと身を潜めていた。忍びとしてではなく、ただ見届けずにはいられなかったからだった。
ティアは苦悶に顔を歪め、浅い息を繰り返していた。頬には脂汗が滲み、手はしきりに空を掴もうとするかのように震えていた。
声を出してはいなかった。それが余計に苦しかった。
胸に張り付いた痛みに堪えながら、目を閉じ、眉を寄せ、耐え抜こうとするその瞼の隙間から、一筋の涙が流れた。
それを、カスミは見た──見てしまった。
父を討った痛み。肉体の傷よりも深く、魂の奥に刻まれた、たったひとつの涙。
呼びかけたいと思った。その名を、今すぐにでも呼びたかった。
けれど、あのときの自分は、ただ柱の影に身を寄せて、震える指を自らの胸に寄せ握り締めていただけだった。
声は出なかった。足も、動かなかった。私は……何も、できなかった。
その悔しさと後悔が、今も胸の底に沈んでいる。
忍びとして、仲間として、そして──その胸にはもう一つ、別の痛みもあった。
テオ・マクドール。カスミにとっては、ロッカクの里を焼き、仲間を殺した仇の名だった。炎に包まれた木々、血を流す同志たち、最後まで戦い抜いた者の顔。その全てが、テオの名に結び付いている。
だがその男は、ティアにとっては、たった一人の肉親であり、敬愛していた存在だった。
「立派な方でした」と語る者がいた。「気高く、それでいて優しく、尊敬に足る武人だった」と。
そしてティア自身も、何度かその目で語っていた。父を尊敬し、慕っていたことを察していた。
カスミの中にあった感情は、言葉では整理しきれなかった。
憎しみと、理解。
喪失と、共感。
忍びとしては、きっと抱くべきではない感情。
私は……忍び失格、なのかもしれない。
そう思った瞬間、胸に蹲るような小さな痛みが走った。
忍びは、感情を持たぬ者。任務を優先し、己の感情を律し、生きる。
だから──
「私には……何もできない」
今、その言葉がまた唇を離れる。
風が黒髪を揺らし、過去の亡霊のように、里の炎を思い出させた。
ロッカクの里が焼かれ、仲間たちが倒れていく中で、長であるハンゾウが最後に命じた。
〝お前だけでも逃げ延びて、解放軍に助力を乞え。ロッカクの無念を晴らすために〟
それが使命だった。だから、今も尚ここにいる。そのはずなのに。
「……本当に、それだけなのでしょうか」
誰にも聞かれない言葉。だが、その問いに答えるように、足音が近づいた。
「あんた……恋してるわね」
カスミは勢い良く振り返った。
ゆるやかに階段を上がってくる影。情報屋と言うには大それている、噂好きで知られる女・オニールが、にこやかに立っていた。
その顔に浮かぶ笑みは、柔らかく、しかしどこか見透かすような眼差しだった。
「……オニール様……な、何を……」
「顔に出てるんだよ。目がね、恋してる人の目になってるの。私はね、そういうのがすぐに分かっちゃうのよ」
カスミは視線を逸らした。心拍がひとつ、跳ね上がる。
羞恥、困惑、そして──否定しきれない実感が胸の内に広がっていく。
「そんなこと……私は……ただ……ティア様が、心配で……」
「ふふ、そうやって否定するのも、恋煩いってやつなのさ」
カスミは息を呑んだ。
「……それでも……私は、忍びですから。恋など、口にすべきではありません」
「でも、してるんでしょう?」
オニールの声は静かだった。揶揄いではない。慰めでもない。ただ、真実をそのまま告げるような声音だった。否定しても、恥じても、それは揺るがない。
その言葉の温度に、カスミは、ふと目を閉じた。
「…………ええ。これは、恋心……なのかもしれません」
小さく、けれどはっきりと。カスミの唇からその言葉が溢れたとき、胸の奥にあった何かが、すっと解けていった。
それはまるで、忍びとしての仮面を一枚、そっと外したような感覚だった。
「いい子だね。ちゃんと認めることが、恋路の第一歩なんだよ」
オニールはカスミの隣に立ち、石の手すりに手を置く。
沈黙が少しの間、二人の間に流れた。
風が、古城の上を何度も撫でていく。
「ねえ、カスミ。知ってるかい? 人ってものは、時々……誰かに見守られてるだけで、強くなれるんだよ」
カスミは、はっとして彼女を見た。
「見守っているだけで?」
「そう。何も言わずに、何も求めずに。遠くからでも、近くからでも、その人の背を見ていられること。たったそれだけでも、誰かの支えになることがある。……ティアは、あんたが思ってるよりずっと、人の心に敏い子さ。言葉にしなくても、態度に出なくても、あんたの気持ちはティアの力になる」
風の音が、ふと弱まった。
カスミは再び、ティアの背を思い出した。
黙して進むその姿。その肩を、言葉ではなく想いで支えること──それなら、忍びである己でも、きっとできる。
「……オニール様。ありがとうございます」
「いいってことさ。私はね、恋する女の背中は押してあげたくなっちゃうのよ」
オニールはにっこりと笑い、カスミの肩をぽんと軽く叩いた。
その温もりは、まるで夜を照らす小さな灯のようだった。
そして二人は、しばらくそのまま風に吹かれながら、静かに並んで空を見上げていた。
星が、ひとつ、またひとつと夜空に灯っていく。
カスミはそっと目を閉じた。心の中にあった澱が、少しずつ掬われていくのを感じていた。
──仇の息子に、恋をしている。
──忍びである己が、心を乱している。
その事実に向き合うたび、何かが胸を締めつけた。
けれど、オニールの言葉を受け取った今、ほんの少し、呼吸がしやすくなったような気がしていた。
恋は、足枷ではないのかもしれない。想いがすぐに何かを変えるわけではなくても、ただ心の奥に静かに灯るだけで、人はこんなにも生きやすくなるのだと、そう、思えた。
──ティア様。もう少しだけ……この気持ちを抱いていても、いいですか。
その問いかけに、返事は必要ない。
風は変わらず優しく吹き、星は黙ってまたひとつ、瞬いていた。