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マクドール邸は赤月帝国の中でも類を見ない裕福なお屋敷である。板の張られた床は木造ではなく、実際は煉瓦造りの床にわざわざ板を張っているのだと聞き、想像よりも遙かに質のいい生活をしていると思ったものだった。
強固に作られた家の廊下を歩いているときに床が軋むなんてことは到底起きようがなく、窓を閉めさえしてしまえば帝都の喧噪を感じることがない。首都のど真ん中に建てられているとは到底思えない静寂に包まれた屋敷は武人としてのプライドを有しているマクドールという名にふさわしい家であるとテッドは思っていた。
靴が床を蹴る僅かな接触、服が擦れる音、息を潜める呼吸音。ただでさえ静寂な屋敷の中で生活を共にする従者や父の部下達が眠りに落ちると、その異様さは特に際立つ。しかしそれが、己の身を脅かす者ではないことをテッドは知っている。
三秒おきにノックを五回。事前に決めていたサインだった。
「お待たせ、テッド」
ゆっくりと扉を開けると、悪戯っ子の表情を浮かべたティアが声を潜めて言った。
「おお、来たか。てっきり寝ちゃったかと思ったよ」
「寝ないよ!」
茶化したテッドに食ってかかるティアだが、扉をしっかりと閉めてから行動に移す辺り、今からやろうとしていることがバレると拙いのだと理解しているようだった。
「僕、楽しみにしてたんだから。ねえ、早く……」
「バレないうちに行くか。ちょっと待ってろ」
テッドは窓を開け放つと、家の周囲に人影がないか見回す。グレッグミンスターは周囲を城壁に囲まれた要塞のような形をしている。街に入るのが困難である代わりに街の治安がどの街よりも良かった。夜中に見回る人影などあるはずもなく、あれほど活気に溢れている街をも眠りに落ちているかのように静まり返っていた。
テッドは窓枠に足をかけると、慣れた手つきで外へと身を乗り出した。ティアもそれに倣い、軽やかに窓から外へと飛び出した。そっと軽く窓を閉じてから、テッドは手を差し出した。重ねようと伸ばされたティアの手が、直前で止まる。
「……いいのかな?」
「誰もいないんだ、いいだろ。堂々と手ぇ繋いだって」
ティアの視線が揺れる。誰にも、特に大切な家族には言えない関係。
テッドは目の前にあるティアの手を力強く掴んでから、堂々と大通りへと歩みを進めた。つんのめりそうになったティアも、同様に手に力を込めてくる。ただそれだけのことで、テッドの心はあたたかくなった。
子供の戯れだと周囲の人々は思うだろう。繋いだ手から伝わる熱は、テッドとティアにしか分からぬ感情が滲んでいた。
ティアはテッドが旅をしているときの話を興味深そうに聞くことが多かった。
あまりいい思い出ばかりではないはずなのに、ティアに乞われると何故か嫌な気持ちになることがなく言葉を紡ぐことができた。
群島諸国、海、雪が降りしきる山奥──さまざまな時代の様々な人々の話をしたが、とりわけティアが興味を示したのは星読みだった。
季節によって現れる星が変わる。それを頼りに地図を読み、進むべき方角を見定める。方位磁針を持てばいいと言われたらそれまでだが、当てのない根無し草の旅に荷物を増やす必要は無い。どんな時代でも、どんな季節でも、目印になる星の位置はそう変わらない。知識さえ入れてしまえばどんなときでも利用することができるのが強みだった。
大人に聞かれれば、その知識は過酷とも呼べる生活を経て得たものだと瞬時に理解されてしまう。同情を引かれたくないからと黙っていたというのに、ティアはそれを聞いたとき、一等星に負けないくらいに瞳を輝かせていた。
「テッドは物知りだな! ねえ、今度僕にも教えてくれないか?」
無知であることを恥じるのではなく己よりも多くを経験していることを純粋に褒め、その知識を知りたいと口にされて、テッドは不思議と嫌な気持ちにならなかった。
孤児であると勘違いされ赤月帝国の将軍に身柄を保護された際には面倒なことになったと思っていたというのに、今時珍しいティアの素直な感情に触れて擦れていた己の精神すら癒やされていった。
子供の世話だと思っていた将軍の嫡男の相手が、いつしか友人同士の会話になり、親友と呼べる仲になり、更に深い──誰にも伝えることはない関係に発展した。このままではいけないと理解しているのに、ティアのことを想うならこの地を去らねばならないというのに、離れがたい。人間のような感情が己に残っていることに驚いた。
こうして今も、テッドはティアの隣に立っている。
心地良く水が流れ続ける噴水に腰掛けて、テッドは夜空を見上げた。人気の無いところで見るものとは数が違うものの、灯火が落ちた街中では掻き消えてしまうはずの星も十分よく見える。
「──そんで、あそこに大きく光ってるのがアルタイル。アルタイルは鷲座の心臓だ」
「鷲の心臓?」
「ああ。心臓を中心に十字に結ぶと、鷲が大きく羽ばたいてる星座になるんだよ」
「へえ……説明されると、本当に動物の形に見えてくるのが面白いな」
「だろ? 星をただの光る点だなんて思ってたら損だぞ」
テッドが指で描く線を辿りながら、ティアは時折質問を投げかけては感嘆の声を上げた。こうしているときのティアは、年相応に子供らしい顔をしている。
あの家に従事している人々がそれを強要してくることはないが、ティアは己がマクドール家の嫡男であることを誰よりも自覚している。ただの愛くるしい子供では駄目なのだと幼い内から察していて、周囲が望まれる通りに知識も技術も身につけてきた。その生い立ちから周囲の同年代の子供からは一線を引かれており、テッドがこの家に来るまでは友人の一人すら存在していなかった。
だからこそ、テッドはティアの親友でもあろうと努めている。
「鷲座が見えている方角が、おおよそ南西に位置して……って、ティア?」
煌めかせていた瞳を瞼の裏に隠し、ティアは俯いていた。
「……テッド」
「ん?」
「あの……」
言い淀むティアの言葉を待つ。
「これ、デートかなって思ってたんだけど……」
顔を上げたティアは、月の淡い光だけでも頬を染めていることが分かった。
「マクドールのお坊ちゃんは思春期ですわね」
「茶化すなってば」
「悪い。お前の反応が可愛くて」
親友でありたいと思う気持ちに偽りはない。
しかし、こういったティアの反応を愛おしく思ってしまう気持ちもまた抱いている。
口を尖らせるティアの唇に軽く触れてから、ティアの頭を己に引き寄せる。
「ねえ、またこうやって二人で星、見れるかな」
「……行けたらいいな」
「テッド、一生のお願いだよ」
「ええ? それ、俺の言葉じゃないか」
「いいじゃない。たまには僕が言ったって」
テッドはティアに嘘は言わないが、時折本当のことも言えないことがある。本音を隠している時の言い回しに感付くのも早い。ティアはそんなテッドを責めないが、逃がすことも決してない。
「じゃあ、こうしよう。お前もそろそろ国に従事するようになるから来年かどうかは定かじゃないけど……いつかまた二人で星を見よう。今度は街じゃなく、光のない森の中で。必ずだ」
「……約束だぞ」
「ああ、約束だ」
言いながら、今度はしっかりと唇を合わせた。
そんなささやかな願いすら、この紋章は叶えてはくれないのだろうと、ティアを抱き締めながらテッドは苦笑を浮かべるしかなかった。
──無理だろうと思いながら放った言葉が、望まぬ形で叶えられることになるなど、テッドには予測できるはずもない。