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驕りが生まれるのが人間であるのだと、数十年前に読んだ本に書いてあった。
ならばこれは、己が人である証とも呼べるのではないか。
──などと、悠長なことは言っていられない。
血に濡れたティアが身動ぎすらせずに地に伏せている。握られていた長棍は無残にも中心から折れ、視界の端に弾き飛ばされていた。
油断していた、なんて言葉では片付けられない不測の事態だった。
悠久の時の中で出会った少年は、他人を拒絶していたテッドの中にいとも簡単に居場所を作り上げた。
ずっと一緒にいることなど出来ないと知りながら、居心地の良さに、信頼してくれるティアの眼差しに、その意欲が削ぎ落とされた。
成人の儀を終えたティアは近い将来、父親と同じく帝国に従事することになっている。皇帝・バルバロッサから命を与えられるまで、数ヶ月の猶予があった。
あと少し、もう少しだけと、先延ばしにしていた期限を決め、テッドはティアに一つの提案をした。
『俺たち二人で、少し遠出をしてみないか?』
遠出と言っても、この世界の各地を巡ってきたテッドにとっては、遠方とは言い難いものだった。グレッグミンスターには人の足で一日歩けば付いてしまうくらいの、目と鼻の先。
それでも、ほとんどグレッグミンスターから出たことのないティアにとっては十分魅力的だったらしい。二つ返事で了承されて、酷く安堵したのを覚えている。
反対されるかと思ったマクドール家の従者達は、意外にもあっさりと許可を出してくれた。もしかすると、ティアが軍隊に属するタイミングでテッドがここを離れようとしているのを察していたのかもしれないが、今となってはその真意を問う機会もない。
狩りの仕方を教えながら、二人で野営をし、様々なことを語り合った。思い出作りにと始めた旅路は、日を重ねれば重ねるほど口惜しさへと変貌した。
ティアと、ずっと一緒にいたい。適うはずもない願いを募らせていたそんなときに、事は起きた。
日の高い時間だからと魔獣除けを疎かにしていた。いや、問題はそんなことではない。
三百年という長い時を生きてきたテッドは、生半可な大人よりも野生生物との戦闘に長けている。そしてそれを自負してもいた。
それがたとえ、モンスターとの戦闘に慣れていない親友を連れていたとしても。彼をサポートしつつ切り抜けられるとさえ思っていた。
実際、ティアはただのか弱い市民ではなく、一人前の武人だ。野生生物なら尻尾を巻いて逃げ出すほどの実力を持っている。
ならば何故、こんな事態になってしまったのか。
二人で対処するには手こずる、大規模な徒党を組んだ敵であったこと。
敵が近接武器を操るティアではなく、遠距離から弓を穿っていたテッドにターゲットを絞っていたこと。
そういった判断が出来る、統率された群れであったこと。
そして何より。
『テッド!』
躱しきれないと高を括り、急所を腕で庇うテッドの前に、ティアが割って入るとは予想できなかった。
襲いかかってきた狼の牙は長棍を銜えさせることで防いだものの、生じた隙を敵が見逃すはずもなく、体勢を崩したティアへと一斉に攻撃を仕掛けた。
手足と肩に噛み付かれ身動きが取れなくなっているティアの首筋に獣の鋭利な牙が突き立てられ、宙に鮮血が弧を描き、ゆるりと肢体が倒れていくのをテッドは目の前で見ることとなった。
「────冥府!」
テッドは掲げていた右手で拳を作ると、籠めた魔力を惜しげも無く解放した。
地面を這うように一帯を覆う闇は次々と狼を容赦なく飲み込んでいく。その鳴き声すら届かなくなった頃に霧散した闇は、いとも簡単に蔓延っていた脅威を無に帰していた。
「テッ、ド……」
てっきり意識がないと思っていた。ティアの掠れた声に、大事な弓をあっさりと手放してテッドは駆け寄った。親友を抱き締めるように上半身を起こす。
「なに、あれ……紋章?」
「俺のとっておきなんだ」
「見たこと、ない…………」
「誰にも言えない秘密だったんだ。ごめんな」
「……いい、よ」
微笑むティアの声は辿々しい。未だに止まることなく流れる血液がテッドの手と衣服を汚した。その色よりも、その温かさに手が、腕が、震え上がっていく。
血だまりがじわりじわりと領地を広げていく。
「何とか踏ん張ってくれ、近くの街まで連れて行くから!」
「いい……血の臭いに誘われて、敵が……来る。君だけで、逃げて」
「そんなことできるわけないだろ!」
叫んだテッドの言葉を遮るように、ティアが咳き込んだ。その勢いで少量の血を吐いたが、それすら気に留められないほど、ティアの呼吸は乱れていく。胸が上下に揺れる度に、首筋から紅が垂れていく。
ティアの言葉は、苦し紛れに口から出たものではない。己の状態を鑑みて、共倒れになるくらいなら切り捨てろとテッドに言っている。冷静に判断した結果、それが最善だとティアは訴える。なんて武人らしい考え方だろう。
それに同意してしまいそうになる己の太腿を殴った。
このあたたかさが失われる瞬間も、きっと遠くはない。
「ああ、海──」
「海?」
「テッドと一緒に、見てみたかった、なあ……」
その顔があまりにも、穏やかだったから。
数百年前に持たされていた、テッドですら忘れていた所持品の一つが、唐突に脳裏を過った。
テッドは弾かれたように放り投げていた革袋に駆け寄ると、躊躇せず袋の中を引っ繰り返した。麻紐に吊されたそれが誘われたかのように膝の上へと転がり落ちてくる。
それを掴むと、親友の元へと駆け戻る。
「ティア……ティア!」
テッドの声に、閉じていたティアの瞼が開かれる。僅かに動いた唇から、声が出ることはなかった。
先程よりも随分と細くなってしまった呼吸に、テッドは思わずティアの胸へと手のひらを当てた。胸が上下に動いていることに安堵する。ティアがいなくなっては、意味がない。
「ティア、ごめんな……俺のこと、恨んでくれていい。憎んだっていい。でも、でも俺、お前に生きていてほしいんだよ……」
声が震える。感極まって視界がぼやけていく。
濡れた頬はそのままに唇を噛み、緊張で手が震える己を制する。
「これを食ってくれ。今すぐに」
付着した血を拭うことなく手にしたせいで、点々と紅がこびり付いている。麻の紐で縛られているそれは、魚の切り身を干した物だった。
口許に近付けるが、既に齧り付く気力すらないのかティアの唇が開くことはなかった。それでも、ティアの視線はずっとテッドに向けられている。
いいよ、と。
同意されている、自己満足でしかない選択が許されている気にさせられる。
──人魚の肉を食った奴は、死なない身体を手に入れるそうだ。
一時的に群島諸国を巡る船に滞在していたときに、俺には必要ないからと、船員から譲り受けたものだった。度胸試しにとどこかの島で押し付けられたという。
テッドは切り身を口に銜え、歯を立てた。予想通りの歯ごたえに、首を振り、それを勢いよく引き千切った。何度も何度も、咀嚼する。
ほんのりと塩味のあるそれは、美味くも不味くもない。海に住む生き物特有の、淡泊な味だった。
しかしそれが、軽く見積もっても数百年も経過しているのに、腐敗することも木切れのように硬質化することもなく食料としての状態を保持している時点で、単なる魚の加工品ではないのだと認識させられた。あの船員の戯言とは思えない。
ティアの顎を引き口を開けさせると、テッドは躊躇いなくそれを口内へと流し込んだ。
ティアの口内は熱く、鉄の味に満ちていた。飲み込んでくれと願いながら、テッドは何度も咀嚼と口移しを繰り返す。
「あ……」
手にしていた干物が半分ほど無くなった頃、物音すら立てていなかったティアが、唐突に声を上げた。
「ティア!?」
「身体が……身体が、熱い!」
テッドの体を振り払うようにのたうち回ったティアは、服にはっきりとした皺を刻むくらいに強く胸を押さえて唸り声を上げた。
明らかに苦痛を訴えるティアに、それでもテッドが足が竦んでしまうのは、声以上に起きている異変のせいだった。
テッドですら視界に映さないようにしていたくらい酷かった、首筋の致命傷。そこがまるで何かが纏わり付くように、紅い糸で縫われていくように、組織を掻き集め目視で捉えられるほどに急速に修復していたからだ。
乾ききっていなかった血が体内へと戻り、塗り固められていく皮膚。傷口すら消していく様に、テッドは思わず笑みを漏らしてしまっていた。
藁にも縋る思いで食べさせたそれが、まさか本当に人魚の肉で、そして御伽噺のようだと思っていた人魚の伝説が、真実だったなんて。
ティアと、ずっと一緒にいられる。その事実をまざまざと見せつけられれば、胸が躍るのを抑えきれなかった。
親友と永遠を過ごすなんて、夢物語だと思っていた。
「ティア」
名を呼ぶ声が、跳ねる。
先程まで苦しみ喘いでいたティアはすっかり弛緩し、穏やかに寝息を立てている。
血で汚れた衣服に目を瞑れば、まるで襲撃など始めから無かったかのように、ティアは傷一つ無い綺麗な姿に戻っていた。
「……とりあえず、川まで行って服を洗うとするか」
ティアに何から説明すればいいだろう。不死の体になったと伝えて、信じてもらえるだろうか。それよりもまず、ソウルイーターについて話しておくべきだろうか。
ティアを背負い、ゆっくりと草原を下っていく。力の抜けた親友の身体はずっしりと重みを感じたが、それ以上に踊っている心は抑えきれず、テッドは呑気に歌を口ずさみながら歩を進めた。
ティアから向けられる恨み辛みは全て受け入れよう。あれを食べさせることを決めた時点で、テッドはその覚悟を持っていた。
それでも、目が覚めたらいの一番に伝えたい言葉がある。
俺たちはずっと、一緒だ。