Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    inmfog

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💎 💛 💙 🌟
    POIPOI 43

    inmfog

    ☆quiet follow

    背骨のつづき

    8.「ホットケーキ食べたい」
    頭の後ろから声がした。明け方の新聞配達のバイクや隣の家のチャイムのような、鼓膜を震わせるだけで、こちらに入ってこないような声だった。
    見るわけでもなくつけているテレビは、ゴールデンタイムも終わりに差し掛かっている。画面の中では、世情に精通していない私には名前も分からないタレントが、こちらに笑顔を向けたままフォークを口に運んでいた。一口食べて、咀嚼もそこそこに感嘆しつつ、コメント。カメラが引いていくことで彼女の手元が映された。そこでようやく、彼がなんと言ったのかが分かる。
    「あれはパンケーキですよ」
    「聞いてたんだ」
    身体ごとリンクのほうに向き直ると、一人寝を想定しているベッドが軋んだ。摩擦で巻き込まれて纏わりつく毛布を、私の上に乗せられていた手が黙って直す。
    「ああいうのじゃなくて――クリームとか果物とか乗ってなくて、しゅわしゅわしてないやつが食べたい」
    「カフェじゃなくて、喫茶店で出てくるみたいなやつですか」
    「喫茶店っていうか、家で焼いたやつ」
    背後のテレビはCMに変わって、その音は聞こえるけれど聞こえない。目の前にあるリンクの胸は裸だ。同じ格好で寝ていると、彼だけが汗をかくから。
    にじり寄って額を寄せると、腰を引き寄せられる。添えられた手のひらは自然な動きでそのまま下に滑っていった。一度許してしまうと、こうも遠慮がなくなるのだと感心する。触られたくないようなところを触られると、皮膚の内側がざわざわとした。それは嫌な感覚ではない。説明がつかないような気持ちだった。
    「……ホットケーキ、食べたいんじゃないんですか」
    少し前まで彼が入っていたところに指先が届きそうになる。それもまた自然な、当たり前のような動きだった。間際で咎められて、手のひらは引き返していく。
    「そうだった」
    「そうだったって……」
    「目の前の欲求に従って生きてるから」
    自分のことなのに、残念そうに彼は言った。
    その言葉が本当だとしたら、食べたいとか、触りたいとか――狩猟や採集による生活を営んでいたような頃と、頭の中は変わらないということになってしまう。信じがたくて、リンクの顔を盗み見る。そこに漂わせている雰囲気から『このまま眠りたい』を追加しようと思う。
    けれど、やっぱりそれだけではないように見える。何かを静かに考えていそうで、今は目の前にないものを見ようとしていそう。それこそ本当かどうか分からないような想像を抱かせるのは、顔立ちによるものなのだろうか。はじめて会った時の印象が、私の中に残っているからなのだろうか。もしくは、この人が複雑で、めんどうだということが分かってきているからかもしれない。
    「どっちにしろ」
    狩猟も採集も似つかわしくない彼は、言いながら大きく伸びをする。反らされた胸や引き締まった両腕のしなりは非文化的で、私の視線は吸い寄せられた。
    「お腹が空いてる」
    その言葉になら、なんの疑いもなく同意できた。
    ベッドから抜け出てキッチンに向かうと、彼もついてくる。しゃがんで冷蔵庫をあけると、彼もしゃがんで中を覗き込んだ。分かっていたことだけれど、めぼしいものは入っていない。ホットケーキを作るには何がいるだろう。卵はあるけど牛乳はない。粉もない。けれど夜に、ホットケーキを食べるということ自体への、違和感がある。
    「どっちにしろ、買い物に行く必要があるみたいです」
    私の言葉に、リンクは「正しい使い方だね」と頷いた。

    一度脱いだ服を、特にスーツを着るのは、最悪らしい。
    彼が金曜の夜にうちに来ることが定番化しかけたとき、着替えを置く場所をつくった。着替えと言っても着慣れたTシャツとやわらかい素材のズボンという、かしこまらない上下だ。
    「俺、この格好で外出てもいいかな」
    勝手知ったるといった感じで着替えを取り出して身に着けながら、問いかけられる。それ以外にリンクの着れるものはないから、この会話の着地点は始まる前から決まっていた。
    「どこに行くかによると思います」
    「そう?どこまでなら良い?」
    「コンビニとか。スーパーも。でも電車に乗るのは微妙だと思います」
    そう返しながら、今から電車には乗らないだろうと思う。リンクは特に気にする様子もなく、納得しているようだった。着替えを終えると私を待つ体制に入り、まるで自宅にいるときのように寛ぐ。ベッドに腰かけている姿は、そのまま横になって眠れそうな出で立ちだ。けれどこうして部屋に居るから部屋着に見えるのであって、たとえば今日のような怠惰な夜更けに近所まで出かける格好としては、しっくりくる気がする。

    車道と歩道の区別のない住宅街の小径を歩く。間隔をあけて立てられた街灯と生活の明かりで、そこまで暗くはない。道沿いの古そうな一軒家は、敷地の境界線上に所狭しとプランターを並べていた。路上に浸食している蔓の先に、萎んだ青い花がついている。きっと西洋朝顔だ。
    「さっきの話なんですけど、自分ではどこまでなら行けると思ってたんですか?」
    「この格好で?」
    そうです、の意を込めて斜め上を見上げて小さく首肯する。
    「実際はしないと思うけど、行こうと思えば、どこでも。飛行機にも乗るのも、べつに平気」
    なんの気負いもなく飛行機に乗れるというのに、こんな日常的な、夜の散歩での格好が気にかかるらしい。一枚羽織ったほうがいいよと言った本人は半袖で、尖った肘から下は露わだ。額と頬にあたる夜風はひんやりとしていて、私は一年前のことを思い出す。
    「飛行機、よく乗るんですか」
    「……前はね。よく乗ってた」
    博士課程への進学が叶った春からは、文献のレビューや先行研究の調査を行ってきた。そうして始まった生活がそのまま、彼と付き合い始めてからの期間とイコールになる。金曜にうちに来て、抱き合って、何か食べるという半径三メートルの範囲で完結する時間は、定番を越えてもはや固定化していた。私に合わせた結果の過ごし方なのだから、不満を持つとすればリンクのほうだ。
    ただ、彼は飛行機に乗って、どこへ何をしに行っていたのだろうと思う。それは私には、想像するのも難しいことだった。

    物件情報で徒歩五分とされていたコンビニまで、実際にはもう少しかかる。交差点の角にある店舗で、駐車場が広い。終夜営業の建物の大きく張られたガラスからは、強い光が漏れ出ていた。その明るさがぎりぎり届くくらいの場所で、車止めに群がるみたいに、数人の男性がたむろしている。リンクは特に気にならないようで、真っすぐ入口に向かっていった。途中、理由やきっかけの分からない笑い声があがって、夜の住宅街にやけに響く。
    「高校生かな」
    プラスチックのカゴを手に取るなり、彼が言った。
    「こんな遅くにいますか?高校生」
    「いるでしょ。みんながみんな、俺らみたいに真面目な高校生じゃないんだから」
    分かったような口を利かれても、事実として私は真面目な高校生だったと思うので否定はできない。けれど彼と『俺ら』と括られることについては、釈然としない感じがあった。
    「高校生のころ、どういう学生だったんですか?」
    チルドコーナーで、卵は買わなくて良いと伝える。了解した彼から牛乳にこだわりはあるかと聞かれて、一体何のこだわりかと聞き返す。濃さも脂肪分もカルシウムも、なんでもいい。まさか彼にはあるのかと身構えるけれど、「俺も」とのことでほっとする。
    「学生のとき、だけど。真面目っていうか……暗かった。友達もいなかったし」
    「うそ。本当ですか?……いつデビューしたんですか?」
    「本当。で、まだデビューはしてない。今のところ予定もない」
    「……想像ができません」
    200mlのパックをカゴに入れながら、リンクは小さく唸った。他に客のいないコンビニでは店内放送が楽しげに流れている。店員はレジの前に立つ中年の男性一人で、ぼんやりとしていて怠そうだ。
    「……友達がいない、は嘘かな。でも誰と仲が良かったってわけでもなくて、浅く広くというか……たとえば、肝試し行くかーって盛り上がっても、俺は行かない。そういう感じ」
    妙に具体的なエピソードを聞かされて、それはきっと実際にあったことなのだろうと思った。
    気怠そうな店員は無言のまま、商品を手早くレジ袋に詰めていく。完全にマニュアル化された手際は初対面同士の店員と客を無言のまま通じ合わせ、恙なく会計を終えさせた。形骸化した後、さらにその形すら失ったような挨拶を受けながら店を出る。
    「……ノリが悪い?」
    背後で閉まった自動ドアと共に会話を再開させると、彼はふっと息を漏らすように笑った。
    「相手による」
    レジ袋を持ち替えた彼は、空いたほうの手で私の手を握った。それから、繋いだ手を大きく揺らして歩き始める。
    歩きながら、これからどこか行こうか、と問いかけてくる声は歌うようだった。彼が次々にあげる土地の名前が、くっきりと耳に届く。電車と、飛行機と、バスと、舟と、自分の足でひたすら歩かなければ行き着けないような場所ばかり。徒歩五分と少しの帰り道に、見たことのない土地の名前が転々と落とされていく。

    扉が閉まる。後ろ手に鍵をかけてくれたのが、音で分かった。狭い三和土に無理に二人で立ったせいで、押し出されるように倒れこみかける。掴まる場所のない両手が空中を掻いた。前傾した身体を引き止めるように、後ろから抱き竦められる。
    身体の前に回された手は服の上をしばらく彷徨って、首のところから肌に降りた。喉を通ってきた手のひらに顎を掬われ?。乾いた指に唇のふちをなぞられると、呼吸の仕方が分からなくなった。
    「あの……リンク、」
    できるだけ口を動かさないように呼びかける。返事のつもりなのか、首元で低い呻きが漏らされた。太もものあたりには買ってきたものが当たっていて、身じろぎするたびにがさがさ音がする。
    「恥ずかしいこと、言いたい」
    教科書にマーカーを引くときのような、一語ずつ確かめるような話し方だった。
    「……なんですか?」
    言葉の隙間から漏れた息がかかる。耳の後ろを掠める形のない熱さが、もどかしさを搔き立てた。何を言われるのかと、想像して待つ時間は長すぎて、じれったい。
    「……言わないよ」
    恥ずかしいから、と言いつつ唇が押し当てられた。些細な刺激で、おかしいくらい身体が揺れる。孕まされた期待の大きさが、彼には手に取るように分かっただろう。裸にされて引き出されたような緊張が、手足にまで広がっていった。
    「脱がせようか?」
    固くなった首すじに触れたままの唇が、啄むように動く。私は静かな植物になってしまったかのように、身動ぎ一つできないでいる。
    腰の下でがさがさ音がした。していた。自由にならない身体で、視線だけでそれを見下ろす。また揺れているレジ袋が、中のもので形を変えていた。それをぶら下げた彼の手が、さらに下を、足元を示していることに気付く。
    「……いい、です。自分で脱ぎます」
    やっとそう告げると、私を抱え込んでいた腕が解かれる。二の腕を最後に手のひらが離れていき、身体の後ろに触れていた部分がなくなった。
    膝を曲げてしゃがみ込む。くるぶしの所から人差し指を差し入れて、踵から引き抜く。その間、つむじを、首を、背中を、じっと見下ろされているような感じがする。

    卵がボウルに割り入れられる。底面のカーブに沿って、濃いオレンジ色が二つ滑った。黄身の色は、鶏が食べていた飼料に含まれる色素の影響を受けると言われている。そのため、味に直接的な関連はないらしいが、気分的には鮮やかなほうが嬉しい。
    ボウルは、うちにあるなかで一番大きいものを出した。買ってきたホットケーキミックスは、二袋に分けてパッケージされている。おそらくこれは二回分だと思う。けれど、とてもお腹が空いているというリンクが一度で食べると言ったから使い切ることにした。一緒に食事をとるようになるまで分からなかったが、彼は見た目から想像する以上によく食べる。
    裏面の説明によれば一袋あたり100mlの牛乳が必要とのことで、計量の必要なく、こだわりのない牛乳をそのまま注ぎ入れることができた。卵と牛乳を指示の通りによく混ぜる。混ぜていくうちに液体の流動性が高まり、色合いが均一な薄黄色になっていった。袋の端を弾いて粉を寄せてから、二袋を一度に追加する。
    「子どものとき、焼く前の生地を食べてみたかった」
    入れてすぐは粉のままのところと、緩い粘土のような塊の部分がある。粉を入れる前とは変わって、重たげに手を動かしながらリンクが言った。その欲求には覚えがあったから、私は嬉しくなった。
    「私もです。お腹を壊すからだめって言われましたけど」
    「俺だって、ゼルダにはそう言う」
    この行程では『かるく混ぜる』とのことだった。もう少し混ぜ合わせたいと思うくらいのところで、リンクは手を止める。白っぽくどろどろした液体の中に、細かいだまがいくつも残っていた。
    「……食べてみたいです」
    「焼いて食べたほうがおいしいよ」
    温めたフライパンの上に手のひらをかざしながら、私の要望は棄却されて、少し面白くない。けれど、駄々を捏ねるようなことではなく、そもそも捏ね方も分からない。
    フライパンの上に落とされた液体は、歪な形を徐々に丸く落ち着かせていく。だんだんとふちの部分が乾いてきて、表面にぷつぷつと気泡ができた。リンクは静かにその様子を観察しながら、フライパンの位置を少しずらして、火力を弱める。家主でも使い勝手の悪いと思うコンロとの付き合い方を、慎重に探っているようだった。頃合いでターナーの持ち手が私に差し出されたが、首を横に振る。彼は無言のまま了承して、危なげなくホットケーキを裏返した。
    少し濃い色になった一枚目よりも、二枚目は良い焼き色になった。三枚目と四枚目も同じく。彼は黙々と作業を続けて焼き上げていき、最後になる生地を垂らした。
    「ゼルダ」
    リンクは私に向き直った。
    それからボウルに残った種を人差し指で掬い、私の口元に差し出した。指先から第二関節の中ほどまでをなめらかな液体が覆う。わずかに傾いた指を伝って、蝋が溶けるときのように滴っていくのが見えた。
    「……手、洗いましたか?」
    「洗ってるところ、見てたでしょ」
    弱火で熱されたフライパンの上で、ホットケーキがじんわりと膨らんでいく。狭いキッチンには、生地が焼けるときの甘くて香ばしい匂いが充満していた。
    リンクは私に、食べたくない?と聞いた。目の前に欲求を突きつけられて、私は唇を開く。
    彼の指は、わずかな隙間から生き物のように滑り込んだ。私が十分に口を開いていなかったために、唇の端に生々しい冷たさを感じた。舌の上にどろどろした種を乗せられると、淡い甘さが溶けて広がる。バニラの香料の奥には微弱な痺れが隠れていた。口を窄ませて、指の背を舌で包む。口蓋を指先でくすぐられると、ぬるいお湯のような唾液がこんこんと湧き出てきた。これが本当にほしかったものなのだろうかと、もうなんの味もしない指を含みながら思った。



    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💞💞💞💞💞💞💞💞💖💖💖🌠☺☺🍰🍰🍰🍰🍰🍰🍰🍰☺☺☺☺☺💖💖💖💖💖❤💗💗💗💞💞💞💞💞❤👏👏👏👏👏💗💗💗👏👏👏😍😍😍👏👏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator