誰かが夜闇を駆け抜ける音がする。
朽ちた木の香り、震える吐息、深まる黒い霧。
──これは、俺か?自覚した途端、バチンと意識と身体が繋がった。鼓動が高鳴り、全力疾走の気だるさが一気に襲ってくる。
こんなに汗を垂らして、俺は一体何を探している?
目まぐるしく回る視界。けれど屋敷の中は代わり映えしない景色ばかりで、そこに俺の求めるものは存在しない。あぁ、そうだ、俺は──あいつを。
ただひたすら、追い求めて。扉を開いて、開いて、開いて。繰り返し汗を拭って駆け抜ける。
丘の上の、古い屋敷のその最奥。
黒い霧の発生源は、小さな少女だった。どうやら、この少女が屋敷の主らしい。けれど少女は迷子の子供のように泣きじゃくるばかりだった。
その傍に、あいつは居た。明らかに人の領域に無い場所で、地に足を着けて立っていた。躊躇いなく手を差し伸べて、「大丈夫?」と優しく声をかけた。
──ダメだ、いけない!
肩で息をして、けれど精一杯の力を込めてあいつの名前を呼ぶ。ぐらつく足元を上手く扱いきれないままあいつの元へ走る。汗でベタついた服が気持ち悪い。辿り着くことすら出来ないまま手を伸ばして、でも、届かなくて、俺は、おれは──
「──っ!!」
ビクリ、怯えた身体の震えで飛び起きる。勢いのまま布団を蹴飛ばし、周囲を見回し、一度大きく深呼吸する。汗まみれの寝巻きに冷たい空気が入り込む。一気に頭と身体が冷えていく感覚がした。
「っあぁ、くそっ……ゆめ、か……」
ふぅ、ふぅ、と浅い息を繰り返す。言いながらも、本当にそうか?ともう一人の自分が囁きかけてくる。もう、昔のように不思議な夢は見ないと分かっている筈なのに、どうして。
不安に駆られるまま、気づけば俺は端末を握りしめていた。あいつの名前を探して、通話ボタンを押す。
頼む、出てくれ。おねがいだから──
「アブト?……どうしたんだ?」
──あぁ、よかった。どうやら杞憂だったようだ。
シンの声を聞いてやっと、まともに息が出来るようになった気がした。
「シン、急にすまない。今何をしてるのかと思って」
「いやそれはこっちの台詞だろ、メキシコは昼の12時だぞ!?」
一体どういう意味だろう。ふと部屋の時計を見て、はたと気づいてつい苦笑いした。少し考えれば分かることなのに。
シンとはよく通話している。時差は把握しているから、こちらが深夜なのはバレバレという訳だ。どうやら、なんでもないでやり過ごすことは出来ないらしい。
「すぐ誤魔化そうとするの、アブトの悪い癖だ」
むくれた顔が目に浮かぶ。心配されたことが素直に嬉しかった。シンはこういうヤツだ。ストレートに、おまえに何かあったら辛いとそう言える。
……俺も、少しくらいは。
「今、どこに居る」
「今日は学校無いから、家だけど」
「……悪い、おまえの夢を見たんだ。屋敷の、地縛霊?のようなものに、おまえが手を「地縛霊!?」
手の中の端末から爆音が響く。耳がいたい、と文句を言うとごめんごめんと平謝りが返ってくる。
やってしまった、シンがこの手の話をスルーする訳が無いのに。話す順序を間違えたかもしれない。
「いや~妖怪じゃなく幽霊か!しかも地縛霊、ってなると何か未練が……?アブトも襲われちゃったりしたのか!?まさかそれで怖くなったとか!?なぁなぁその地縛霊はどんな感じだったんだ!?」
「俺は襲われてない。どんな……そうだな、丘の上の古い屋敷に憑いた霊で、少女の形をしていた。詳しくは分からないが、道連れにされそうだったのはシンおまえだ」
「丘の上の屋敷……!雰囲気あるな!あっアブト、見覚えのある場所だったりはしないのか!?アブトの夢は特別だからな!行ったらホントに何かあるかも!」
「残念だろうが見覚えは無い。それに、俺は父さんのようにテオティの力を上手く扱える訳ではないし……」
「そっかぁ……でもさ!それだけ詳しく覚えてるってことはその地縛霊がお前に念を送ったんじゃないか!?アブト!良ければその場所について覚えてることをもっ「シン」
「……アブト?」
これは、楽しげなシンに水を差す行為だろうか。
一瞬躊躇して、すぐに振り払う。
だって、どうしようもなく不安だったから。
「それでも、おまえのことが心配だったんだ。俺の夢がシンの危険を示唆するものだったら、って」
「あ……」
ぱたり、とシンのオカルトトークが止まる。道連れにされそうだったのはおまえ、と言った意味を漸く理解したらしい。
「探して、追いかけて、でも届かなくて……あぁ、シンが頼りないと思っている訳じゃない。おまえの強さはよく知っている」
「アブト」
「実際、おまえはその幽霊に気に入られていたようだったし。いやそれも逆に安心出来ない気がするが……」
「っ、ちょっと、まって、」
慌てたような、少し力の無いシンの声が聞こえる。言われた通り間を置くと、あ”~!とシンは悶えた。
「これかなり恥ずかしいな!?」
「……それは、おれも」
「アブトがここまで素直だと変な感じが……あっもしかして調子悪いのか?」
「人が折角勇気を出したのに酷い言い種だな……!」
「ごめんって!……いやでも、深夜なのに元気なのは逆におかしいだろ」
珍しいシンからのド正論に、うっと息が詰まる。こんな時間に通話しているなんて、母さんにバレたら怒られそうだ。
同年代と比べたら寝るのが遅い俺でも、この時間は流石にかなり頭が痛い。そういえば、昨日眠りについたのはいつだったか。
意識し出すと余計に眠気が酷くなる気がする。起こしていた身体を倒して、天井を見上げた。
「え、アブト大丈夫、か?」
「シンのせいで寝不足だ。おまえがいつも危なっかしいからこんな夢を見るんだ」
「アブトには言われたくないなぁそれ」
俺の声が弱々しいせいか、完全な八つ当たりに対しシンは微笑みながら言った。
俺が言えたことではないなんて分かっている。俺はシンの居場所を知っていて、すぐ声も聞けて、それなのにこのザマだ。シンはあの頃、どんなに辛かっただろう。
「でも……うん、嬉しい、ありがと、アブト」
オレは大丈夫だよ。その優しい声で、ふっと身体の力が抜けた。このまま眠れば、きっともう怖い夢は見ない。
だが、新しい場所で過ごすシンの方を慰める側にしてしまう自分が少し情けなかった。なんだか急に気恥ずかしくなって、じゃあまた今度と切り出そうとして──ふと動きを止める。
「シンは」
「ん?」
「シンは最近、俺の夢を見たりしたか」
俺ばかりおまえのことを考えてるようで癪だった。
一呼吸置いて、んーとねー、とシンの間延びした声が聞こえてくる。やめろ余計に眠くなる。長くなるなら聞かない方が良かったか。
「……あ、3日?前にちょうど」
「割と最近だな」
「そりゃあ、アブトだし当たり前だろ。そうそう、確か、俺とアブトで……」
「?」
「…………」
「シン?」
切れたか?と思い端末を見たが、画面の表示に異常は無い。何度か呼び掛けると、ハッと息を吸い込む音がして、シンは途端に早口で捲し立てた。
「──アッ、アアアブトもう寝ないとダメだろ!今日はここまで!」
「急にどうした?まだ話の途中で」
「それはまた今度、な!アブトおやすみ!じゃ!!」
「は?おい」
ブツッ、と急に音が止まる。画面に表示された通話終了の文字に唖然とした。いや、寝たいから早く、とは思ったが、これは。
「……一体、何の夢を」
──後日、「おまえのせいで寝不足だ!」と再度言うハメになるが、それはまた別の話。