マスターとテスカトリポカとカルデア職員と「フジマル帰還します!」
「ストレッチャーをこっちへ! ボンベは?」
「ここです!」
管制室は俄かに慌ただしくなった。特異点を制することはできたがマスターが瀕死の重傷を負ったのだ。
「マスター! マスター聞こえますか!?」
「酸素濃度、93パーセントまで減少しています」
「リツカちゃん、帰還できたよ!あともうちょっと辛抱してくれ!」
ややあってフジマルを呼ぶ声が一斉に起きた。ネモナースやナイチンゲールたちが声を張り上げて呼びかけを続けている。
意識がないのかもしれない。
俺は振り返りたい気持ちを抑え、計器が刻む数値を読み画面に適切なコードを打ち込んでいった。
今回のレイシフトはフジマルだけではない。新所長やカドックも無事帰還させなければならないのだ。
「回復ポッドへ向かいます。
マスター! もうすぐ痛みも和らぎますからね!」
背後でガラガラとストレッチャーが走る音が遠ざかっていった。
ドクドクと心臓がイヤな音を立てる。
指先の震えを抑えるために、気が散漫にならないよう、腿を力いっぱい捻る。
俺はモニターから目を離さぬまま、胸の内で叫んだ。
フジマル、頼む! 死なないでくれ! 俺たちを置いて行かないでくれ!
まだ死にたくないんだ!!
結局願うのはフジマルの命じゃなくて自分の未来だ。
あまりに利己的な己に吐き気がする。
でもイヤだ。こんな、何度も絶望を繰り返したまま死にたくない。
計器の前に座っているだけでガタガタと震え、背中には冷たい汗が流れる。
フジマルのほうが比べ物にならないくらい大変だというのに、俺はどうしようもない男だ。
指先の震えはどうにも止めることができない。
誤って違うキーを叩かぬよう、歯を食いしばってモニターを睨んだ。
頼むよ。頼むから、生きてくれよ。
また、菓子でもなんでも欲しがるものなんでもやるから。
このどうしようもない罪悪感を軽くしてくれよ。
フジマルの容態が安定したと一報が入るまで、俺は自分のために彼女の安否を何度も祈ったのだった。
***
「おーい、フジマル! 今ちょっといいか?」
「あれ? カワタさんじゃん。どしたの?」
背後からかけられた声に我がマスターは砕けた口調で応じた。
ずいぶん気の抜けた声だ。たしかに歳は近い……いや、5つかそれくらい歳の差はあるようだが。人間の歳の差などすぐ吹き飛ぶようなもので、感知するのはあまり得意ではない。
男は立香の隣にいる我が身を見上げ一瞬身構えたが、すぐさま立香へと顔を戻し硬い笑みを浮かべた。
「ほら、この前大変な目に遭っただろ? リハビリも大変だったみたいだし……。
コレ、見舞いだと思って受け取ってくれよ」
差し出された冊子を覗き込み、立香は驚きの声を上げた。
「わぁ、漫画じゃん! コレ、おっきーに教えてもらったんだけどすっごい面白いよね!
電子で読んだんだけど……紙の本なんて、どうやってここまで持ってこれたの?」
立香は冊子を受け取りパラパラと眺め、それからニヤリと男に笑いかけた。
それに対して男はしどろもどろに「いやぁ……」と言葉を濁す。どうやらなにかルール違反をしでかしているようだ。
たしかにコイツらはカルデア基地から逃げ出し彷徨海からも脱出している。紙の書籍など持っているほうがおかしい。
「細かいことは気にするなよ。俺も黒髭からフジマルが気に入ってるって聞いてさ。せっかくだからアンタにやるよ。
もらってくれ。な?」
男は立香に本を押し付け、そのまま来た道を急ぎ足で帰って行った。
その背中に向け隣に立つ立香が感謝を叫んだ。
「ありがとー! 大事にするよ!」
冊子を持つ手とは逆の腕をぶんぶんと振っている。
……あの男。
若輩者の我がマスターを戦地へ送り、そのクセ自らの死を恐れ死ぬなと願う男だ。
あの贈り物も罪滅ぼしのためだろう。
知らずにただのおせっかいを喜ぶ少女の笑顔を見て、罪の意識を軽くしているのだ。
まったく気の小さい小狡い男だ。
小さくなる背中を睨め付けていると、肩口から落ち着いた声が上がった。
「カワタさん、妹さんがいたんだって」
隣に視線を落とす。さっきまでの明るく砕けた様子は鳴りを顰め、涼やかな瞳が男を見つめていた。
纏う空気がガラリと変わっていた。
立香は手元の冊子に目を落とし、表紙で笑う少女の顔をやさしく撫でた。
そして消えそうなほど小さな声で呟いた。
「……気にしなくて、いいのになぁ」
誰に聞かせるわけでもないその呟きはため息とともにこぼれ落ちた。
拾い上げようと、乾いたくちびるを濡らす。その間に悪戯っぽい笑みが見上げてきて、こぼれ落ちた言葉は何もなかったかのようにそのままどこかへいってしまった。
「兄弟ごっこも楽しいんだけどね!」
立香はへらりと笑い、殊更明るい声で言った。
……コイツ、気づいているのか。
呆気に取られる姿をおかしく思ったのか、立香はオレの顔を覗き込んで楽しそうに笑った。
澄んだ泉ように透き通った空気からいつも通りの賑やかな空気に戻った。
「テスカトリポカはさ、カワタさんのことバカにしてそうだけど。あの人も戦ってるんだよ?
わたしがレイシフトできてるの、カワタさんのおかげなんだから。みーんな仲間なの!」
笑いながらもじっとりと半目を向けられ思わず苦笑する。
いやにあの男の肩を持つじゃないか。
「妬けるな」
そう言うと立香は目を丸くし、それからゲラゲラと声を立てて笑った。
「そういうのじゃないよ! だってお兄ちゃんだもん。南極にいた時からずーっとね」
「ならそのうちに挨拶に行かねぇとな」
立香に合わせて悪ノリする。まんまるとした琥珀の瞳が見上げてきた。
「うわー! それ楽しそう! カワタさん、絶対びっくりするよ!」
笑うマスターの肩を抱き先を促す。少女は素直に従って足を進めた。
隣では括ったオレンジの髪がぴょんぴょんと跳ねる。繋いだ我が手を勢いをつけてぶんぶんと振り、テンションが高い。
やろうやろう! 菓子折り用意しなきゃ。
楽しそうに話を進めるマスターに適当に相槌を打つ。
こうまできたらマスターのことだ。本当にやりかねんぞ。
かわいそうに、あの男。神と人類最後のマスターを前にどんな顔をするか。
喉を鳴らすオレを見上げ、立香も頬を緩めた。
楽しみな理由はオレとコイツとでは異なるが、別に言う必要はあるまい。
立香は擁護するがヤツはどうにも好かん。
気安く笑い合うふたりを見て生まれた苛立ちは、震え上がる男の顔を見て笑い飛ばすことにした。