愛逢月(めであいづき)「葉山くんも来年には大人の仲間入りなんだね」
提携企業が置いていった来年のカレンダーを壁にかけめくっていた汐見の指は、7月の項で止まった。刷ったばかりのインクの香り残る新しい紙のにおいがする。
師走というが、慌ただしく過ごしているのは教師の汐見よりも葉山の方だった。
高等部2年の生活も残り3ヶ月余りだと感傷に浸っていられる暇もなく、現在の葉山は遠月学園の第一席として、仕事量も申し込まれる食戟も増えている。92期は中退者が少なく席次の変動も激しい。葉山も2年に上がってからは、席次も学業の順位も1から5位の間で切磋琢磨している。前総裁が理念に掲げたように常に自己研鑽が求められる環境だった。
そんな日々の中、これまで通りゼミで助手として働き、汐見のスパイス講釈を聞くのが葉山の気分転換になっていた。
調理室で淹れてきた自分と汐見の為のコーヒーを、ローテーブルに置く。茶道のような作法に則る訳ではないが、丁寧に豆を煎り心を落ち着けて工程の一つ一つに注意を傾け香りを嗅ぐ事で、心地よい緊張感と共に自分はうまくやれているという確信も持てた。
「18っつっても、実際は何年生きてんのか分からないけどな」
ソファに無造作に置かれた専門誌を取る。監修として汐見の名前もクレジットされている。スパイス関連の論文の引用回数でも、汐見は世界トップだ。それを誇らしくも当然の事のようにも思う。
7月7日。誕生日は汐見が決めた。彼女自身の誕生日にあわせ、奇数の日を選んだのだ。名前も誕生日も、日本に来てから与えられたものだ。
「18歳になったら、アキラくん、私と結婚できるね」
手にした冊子がバサリと床に落ちる。頭に穴を穿たれ、空気が抜けていくような感覚があった。
「ごめんね」
汐見は屈んで、葉山が落とした冊子を拾う。わずかに埃の粉っぽいにおいが、コーヒーのそれに混ざった。
「傷つけるつもりは無いの。ショックを受けないでね」
ーー傷つける ショック
自分は傷ついているのだろうか ショックを受けているのだろうか 何に
汐見の眼鏡は天井のライトを反射し、表情がよく読み取れなかった。声は独り言のように抑揚が欠けていた。
「アキラくんの帰化申請の件」
それか、とすぐに合点がいった。
「ーー薙切のオッサンが方々に働きかけてくれてんだろ」
「そうだけど。薊先輩を信用していない訳でもないんだけど」
汐見の声には、もどかしさが滲んでいた。
「ただまあ、進んでないみたい」
「お役所仕事だから それとも俺の出自が引っかかってんのかな。まあ、今更だよな。それで、潤の配偶者になって帰化する方が楽だって考えた訳か」
保護者代わりとしての責任感から、汐見が大それた提案をしてきた事は想像できた。彼女の思考の飛躍は頭では理解できたが、心はまだついていけない。
惚れた女から結婚を申し込まれるとは、願ったり叶ったりではないか。自分から仕掛けずに済んだ。これは好奇だ。法の上で夫婦になれば、汐見の中でも後から恋愛感情が生じるのではないか。そう楽観的に考えたかったのに、胸が重い。この混乱が、上手く言語化できなかった。
「紙の上の話だけでも、こんな年上となんて嫌だろうけど……選択肢の一つとしてあり得るとは、頭の隅に置いといて」
ーーバカな潤。
葉山は喉元を締め付ける悲しさと怒りを抑え込む。
「じゃあ、試してみるか」
「ーー何を」
「新婚生活の予行練習。届だけ出して、ハイおしまいだなんてありえないだろ」
陰暦七月の旧称は、愛逢月と言うらしい。牽牛と織女が互いに愛し合う月。
何故それが自分の誕生月になったんだろうな、と皮肉に思った。
2023.01.22