梅仕事外の雨音がやけに耳につく。土ぼこりのにおいがドアの新聞受けの隙間から漏れてくるようだ。玄関には大学からの帰り道に濡れた傘が立てかけてある。
キッチンの棚に、空のタッパや琺瑯の保存容器が重ねてある。汐見が遊びに来た時に、作り置きしてくれた大量の料理が冷蔵庫から消えて、数日経つ。中身は全て胃の中に収めてしまった。保存が効くからと作ってくれた、唐辛子や玉ねぎのアチャールも食べ尽くしてしまった。
汐見の手料理は最高だ。食欲を刺激する芳香を放ち、舌を興奮させる美味さがあり、全てが血肉になる感じがするが、自分で作った料理は味気ない。
学園在学時に十傑に名を連ねてきた矜持もあり、料理の腕を落とさないように気をつけてはいる。
しかし、腕をふるった料理を食べさせたいのは汐見だけで、そこには葉山自身も含まれていなかった。栄養を摂るためだけに食べる。これではスラムで飢えに喘いでいた時と変わらない。
汐見の為に生きなければならないから、食べなければならない。いつものべき思考で、汐見はもとより、後見人の葉山教授にも堂島にも指摘される所だ。
キッチンの日の当たらぬ片隅に置いた、赤い蓋のガラス瓶を見やる。中には葉山教授が庭で採った梅が、氷砂糖と共にとっぷりと漬かり、馥郁たる香りは日ごとに重くなっている。
背を向けた瞬間に揺れた汐見の長い髪の香りがかぶる。
「梅の仕事をせんか」と教授に促され、物置から脚立を運んで、庭の梅の木から青い実を取りカゴに集めるのも、丁寧にヘタを取り洗って乾かすのも、子供の頃から毎年の葉山の仕事だった。
初めは、「酒は最低三ヶ月は漬けた方がいいが、汐見くんが帰る頃には梅シロップの方は飲めるじゃろ」と、汐見がいない間の無聊を慰めるために誘ってくれたのだった。葉山用の梅シロップ、教授の自宅用と汐見に贈る梅酒が二つの計三瓶。今下宿先のキッチンにあるのは、週末に慌ただしく帰京した際に拵えた物だ。
「もうガキじゃねぇのに」
葉山教授は、「早くアキラが酒が飲める年にならんかのう」と楽しみにしていたはずなのに、忘れてしまったのだろうか。耄碌するにはまだ早い。
「梅酒はわしから汐見くんに渡しておこう」と言われたが、「腰を悪くしたら困るからやめてくれ、潤にも重いものを持たせるな」と釘を刺しておいた。
毎年、梅雨入りのこの時期に、汐見は所属する学会に出席する為に日本を離れる。だから漬けられた梅の香りは汐見の不在と、預けられた葉山邸の古ぼけたにおいに記憶の中で結びついていて、何か寂しくなる。
家の門の前で葉山教授にペコペコと頭を下げて、何度も振り返り手を振って、キャリーバッグを引いて駅へと向かって行く汐見の姿が甘い香りと共に遠ざかって行くのを、教授宅の門の陰から、いつまでも眺めていたものだった。捨てられたわけではないと分かっていながら、汐見の背を見つめていると、得体の知れない不安が湧き上がってきて、胸がぎゅっと掴まれたように苦しかった。
今回、出張で汐見がいないと分かっている上で上京した事で、梅の瓶は汐見がいない時の物という認識が強まった気がする。
「アキラくんは梅酒作りも上手だね」と褒められて喜ぶよりも、心細かった事を悟られまいと子供の頃は努めてきた。今は「離れているのがつらい」と率直に伝えている。それで余計に汐見を困らせている自覚はある。
スパイス棚に並べたシナモンスティックを一本取り、鼻に近づける。「元気の出る香り」。昔はお守り代わりだった。
不意に机の上のノートパソコンのモニタのポップアップ通知が音を立てる。シナモンスティックを親指と人差し指で弄びながら、空いた手でキーボードに触れる。モニタには、今ビデオ通話ができるかという汐見からの連絡があった。ビデオ通話を立ち上げる。
滞在先のホテルの部屋からかけてくれたのだろう。髪はおろして眼鏡もかけていない。シャワーを浴びた後だろうか。記憶を刺激され、鼻腔に湯上りの汐見の香りが蘇った。南半球の国が今回の汐見の学会の開催場所で、時差は一時間だが気温は十度以上違い、モニタに映る汐見はカーディガンを羽織っている。
「アキラくん、元気 夕ご飯は食べた」
「いや。潤こそ、もう友達と食べに行ったのか」
汐見は学会の会期中に、普段直接会う機会の少ない海外の研究者仲間と交流できるのを楽しみにしている。人見知りであがり症ではあるが、同類とは話が弾む光景を、葉山も何度も目にしている。その度に面白くない気持ちを持て余したものだが、今は受け流せるようになってきている。
「うん。明日はバーベキューパーティーがあるけど、今日は学会会場近くで軽く食べて帰ってきたの」
「俺もそっちに行きたいよ。じいさんの様子見に東京には行ったけど」
カメラにシナモンスティックが映ったのか、汐見の顔が少し歪んで見えた。
汐見と離れると食欲が失せるのは今に始まった事ではない。そのせいで子供の頃は、葉山教授にも散々心配をかけた。一口二口食べて、それ以上は箸が進まなくなる。食べられない事で葉山自身が混乱し、帰国した後汐見に付き添われて病院でも診てもらったが、身体的には異常は見つからなかった。
汐見が瓶に詰めたシナモンスティックを渡してくれるようになったのは、それ以降だ。出張前に大量の料理を作りおきするようになったのも、葉山が汐見の作った食事であれば、汐見が側にいなくても完食できると分かったからだ。「現金な奴め」と教授には呆れ笑われたし、堂島が葉山のメンタル面を懸念するのも当然の反応だった。
汐見は少女めいた輪郭の顎に手を当て、「うーん」と唸ってから言った。
「梅シロップを使ったお肉料理」
「ん」
「教授のお宅に行ったなら、いつもの梅シロップ作って持って帰ってきたでしょう 今度アキラくんの所に遊びに行った時に、梅シロップを活かした肉料理を食べさせて」
「それはいいけど」
「試作したら、大学のお友達に振る舞ってもいいけど、アキラくんの舌でちゃんと出来を確かめてね」
確かに汐見に食べさせるなら、他人の感想だけでは当てにならない。汐見の食の好みを誰よりも熟知しているのは俺だという自負がある。ただこれは、こちらの性格を理解した汐見にうまく乗せられているだけだ。
「私ももう年齢的に人生の折り返しだし、残りの人生は美味しい物だけ食べて生きていきたいんだよ」
何かを思い出したのか、汐見は一瞬遠い目になって声にも怒気がこもっていた。そういえば今回の出張前にも、「現地の料理を食べるのは楽しみなんだけど、ワニにはあまりいい思い出が無いんだよね」とボソリと呟いていた。自分なら食材が何であろうと汐見を満足させられる、そこに至るまでの努力を惜しまないと、葉山は思っている。
「分かった、降参だよ」
葉山はシナモンスティックを、机の端に置く。放っておいたら湿気にやられてしまうので、後でコーヒーにでも添えることにしようと決める。
「俺が自分で食べて、潤に出せるレベルの美味い物を作る」
「ありがとう。さすが私の一番弟子」
まだそこは「一番弟子」なのか、と葉山は少し気落ちする。
「アキラくんの誕生日には私もご馳走作るから、楽しみにしててね」
「梅シロップで?」
「うん。ゼミのスパイスも持っていくよ。こっちのお土産もね」
汐見は微笑み、葉山が答える前に今日の学会発表について身振り手振りを交えて話し始めた。ゼミ室に二人でいた時と変わらないな、と葉山は汐見の話に相槌を打ちながら心が軽くなるのを感じた。