アルコール度数48%「大佐、こちらを」
昼下がり、書類を片付けていると、部下が部屋に入ってくる。
この部屋に届くものは、全て、人の目を何重にもくぐったものだ。部屋だけじゃない。この手に届くもの全てがそうだ。自分の立場を思えば当たり前である。自惚れでもなんでもなく、このコロニーの全てに責任を持っている。だから自分に何かあってはいけない。書類、手紙、食べ物、着るもの、全てだ。そのことについて、煩わしいと思わなかったのは、少なからずそれが当たり前な子供時代を過ごしたからであろうか。自分の人生を振り返れば、そうでなかった期間のほうが長いはずなのに。子供時代の記憶や習慣は自分の奥底に強く根付いているらしい。お坊ちゃま、若さま、キャスバルさま、と壊れ物のように扱われていたから。だから、あの頃に似た、今の状況を何とも思っていなかった。
ついこの間までは。
『セキュリティ通さないといけないの!?めんどくさいったらないな……』
アムロの言葉が思い出される。どうしたものか、と思い始めたのは、彼と再会してからだ。再会して恋仲になって、自分の時間を共有する、そんな人間が1人増えた。街で買ってきたスナックの袋一つ、ここには容易に持ち込めない。そのことに、彼は時たま不満を垂れる。それによって、自分の立場が面倒であることを、今更ながら再認識した。なんなら同じように煩わしいとさえ思い始めてしまった。今もそうだ。部下の手には書類に混じって、小包みが2つ。人の荷物を勝手に検査するな!と言いたくなる。ついこの間まで、何とも思ってなかったはずなのに。
自分の性格がアムロによって塗り替えられていくような感覚だ。悪い気分はしない。愛しているからだ。これから長い時を2人で過ごしていく予定だ。似たようなことが他にも起きるかもしれない。いつか、2人は似たもの夫婦ですね、なんて言われる日が来るかも知れない。そう言われたら一体どう返そうか。
「大佐、シャア大佐」
「……あぁ、すまない」
思わず、思考が飛んでしまった。仕事中である。いけないいけない、と軽く咳払いをした。目の前の書類に視線を落とす。そして部屋にいる部下に向かって、冷静を装った声で、荷物はそこに置いておくように、と声をかけた。
「かしこまりました」
彼は指定された場所に荷物を置く。無口な男だ。彼と世間話をしたことは一度もない。しかし今日は少し違うようだ。小包みのうち、1つを手に持ったまま、こちらへ近づいてくる。そして目の前まで来ると、それを差し出しながら話し始めた。
「こちら、地球にいらっしゃるご家族からとのことですが……お心当たりございますか?」
その言葉に、顔を上げる。地球かどうかは知らない。しかしながら、自分の血縁は、もう1人しか心当たりがない。視線の先の部下の肩が上がる。おそらく私の反応や表情を見て、驚いているのだろう。当の私よりも。せめてもの冷静さをかき集めて、少しゆっくり言葉を発した。
「あぁ。聞いている、一緒に置いておいてくれ」
トン、と小包みの置かれる音がやけに大きく聞こえる。いつの間にか彼は出ていき、部屋には1人である。シンとした部屋。脳裏に声が聞こえる。『兄さん』と。もう2度と思い出すこともないと思っていた。自分には思い出す資格すらないと。その覚悟で別れた。あの草原の家でも、宇宙でも。だが、どんなに覚悟を決めていても、たった1人の妹の声は、そうそう忘れられるものではなかった。
席を立って、小包みの置かれたテーブルへ足を進める。綺麗に結ばれたリボンと、包装紙を留めているテープを丁寧に解いた。
アムロは車に乗り、シャアの私邸に向かっていた。日は沈み、辺りは暗い。互いに、仕事を抱える身だ。毎日、同じベッドで寝れる生活ではない。普段なら、この時間に顔を合わせてなければ、各々の部屋で過ごす。いつもはそんな、決めたわけでもない暗黙のルールに従っているが、今日は違った。シャアから通信が入ったのである。何時でも良いので屋敷へ来てほしい、待っている、と。デバイスに送られてきたその通信の声色が、彼にしては上擦っていたような気がして、少し気になった。だから早く着かないかと、後部座から前の道路と、運転席のスピードメーターをじっと見つめた。
「入るよ」
「あぁ、おかえり」
部屋の扉を開け中に入る。シャアがいた。ネクタイやジャケットは脱ぎ、シャツの首元を緩やかにあけ、愛用のガウンを羽織っている。リラックスモードのその姿を見て、少しホッとする。悪いニュースではなさそうだ。
彼が座るソファの横に腰掛ける。テーブルの上には、オリーブやサラミなど、俗にいう酒のアテが数種類、品よく並べられていた。
「どうしたの?何かあった?」
「君に見せなくてはならないものが届いてね、これを」
シャアはそういうと、隣に置いていたものを手に取った。少し大きめの白い箱。テーブルの上に置いて、ゆっくりと箱を開ける。中にはデザインされたガラスのボトルが4本。その形状は、ワインのボトルだった。
「送られてきたんだ、アルテイシアから」
「アル……ってことは……」
「セイラと言った方が良いかな?」
「セイラさんから!?」
その名を聞き、思わず箱の側面や後ろを確認する。まさかバカ真面目に送り状が貼り付けられているわけはないが、そうせずにはいられなかった。
「実は心当たりがない。でも十中八九、君とのことが関係していると思ってね」
「……あぁ、そっか」
彼女が地球にいることは知っている。ホワイトベースの仲間と、時たま会っていることも。そして、自分たちの関係を伝えた人間を思えば、なんとなく想像がついた。腑に落ちたようなこちらの顔を見て、シャアは早く続きを聞きたいのか、眉を少し上げる仕草をした。
「少し前にブライトと話しただろ?その時、俺……ブライトに言ったんだ。あなたのことが好きだから、一緒に生きてくつもりだって」
「アムロ……」
シャアの手がゆっくりと、自分の手に重なる。2人、思いを通じ合わせたあの日。なんと言っても、シャアよりも先に、ブライトにそう宣言したのだ。なんとなくわかっていただろうが、はっきりとあの日のことを伝えたのは初めてだ。どうやら感動してるらしい。
「ブライトに言ったってことは、ミライさんに伝わるだろ?そしたらセイラさんの耳にも入る。俺たちのことなら尚更」
人差し指で空中を3回指差しながらそう説明する。一瞬にして伝わったことだろう。あの3人の絆を思えば想像に難くない。しかしシャアはもちろんそんなこと、わかるわけもなく。なぜそうなる?と不思議そうに、はてなマークを浮かべているので、慌てて付け加えた。
「あぁ、彼が口軽いんじゃないよ。なんていうか……ブライトにとって、あの2人はいろんなルールの外にいるから……ほら……治外法権??」
「なるほど、肝に銘じておく」
そう言ってシャアは笑った。彼は、ブライト達をはじめ、元ホワイトベースクルーについての話をするとよく笑う。どこか懐かしいのだろうか。顔を綻ばせるシャアは、元の美貌も相まって、それはそれはキュートだ。どんなバカ話を聞いている時でも、やけに落ち着き払って、一歩引いた所からふわっと包み込むような、そんな笑顔を浮かべる。ふと、脳裏にセイラさんが浮かぶ。あの船の上で連邦軍服を着た彼女は、俺たちパイロットがくだらない口喧嘩しているのを、遠巻きに眺めては、いつもその顔をしていた。やはり、兄弟だな、なんて変な感想を抱く。
「では、このメッセージは君が開けてくれ。箱に入っていた」
そんな物思いに耽っていると、シャアは箱の横に置いてあった封筒を取って渡してきた。白くて小さくてシンプルな、かわいい封筒だ。
「え、俺が?まだ見てないんだろ?貴方が先に見なよ」
「宛先が確実だから私の元に来ただけで、このワインは君宛だろう。私はアルテイシアに、何かものを贈られるような兄じゃない」
「シャア……」
「…….すまない、そんな顔させるつもりはなかった。その……今は、の話だ。彼女との関係は修復したいと思っている」
一年戦争で会った時が最後なのだろう。数奇な運命の兄弟だ。一緒に戦っていた時、セイラさんはシャアのことを非情な人間だと言っていた。
「約束してよ」
「あぁ。今の状況だって、本来は私から連絡すべき所なのだがな。彼女の方が、一枚上手だ」
「そりゃそうだ、セイラさんだもん」
でも、アバオアクー要塞で、兄さん、と叫んだ彼女の声を今も覚えている。この男の本当の姿を知っているから、あの時その名を呼んで叫んだのだろう。優しくて、暖かい人だと。今なら、自分もそれがわかる。
ゆっくりと、手の中の小さな封筒を開ける。中にはメッセージカードが一枚。綺麗な手書きの文字が書いてある。美味しい赤ワインだから2人で仲良く飲んで、とある。そして、その続きも。読んで思わず口角が上がった。
「俺たち2人にだよ。赤ワイン、美味しいから飲んで、って」
「そうか」
「そんでこの白い方は、貴方宛てだよ」
隣で驚きに息を呑むのがわかった。箱の中には、赤と白のワインが一本ずつ。白ワインの瓶を手に取って見せる。メッセージカードの通りだ。2人で仲良く飲んで、の下にもう1行書いてあるのだから。
「スペインの白ワインらしいよ。兄さんと過ごした日々を思い出します、だってさ。固まってないで読んだら?」
フリーズしているのがおかしくて苦笑してしまう。半ば無理やりメッセージカードを手に握らせる。シャアの手に収まると、さらに小さく見えるカード。そこに書かれた、数秒で読み終わる文章に、何度も何度も視線を巡らせていた。込み上げてくる何かに耐えるその顔が、この兄弟の雪解けが近いことを表していた。
「もう検査は無しにする」
「だめだよ、何言ってるんだ」
ボトルの中身を減らしながら、ソファに身体を預けて話をする。程よくワインが減ってきたところで、シャアは突然宣言するようにそう言った。
「せっかくのアルテイシアからの荷物なのに、我々より先に見られてるんだぞ。X線検査に金属探知までされて、見かけは綺麗に包まれているが、どうせ一度開封されている」
「そりゃいきなり地球にいる家族から荷物なんて、怪しさ満点だろ。よく届いたよ」
どうやら、セイラさんからの荷物がしっかりとセキュリティに止められ、検査に検査を重ねられたことに不満らしい。この屋敷はともかく、職場は軍の総本部だし、その肩書はとんでもないのだから当たり前だ。しかしシャアはぐい、とワインを煽ると、こちらを向いてさらに口を開いた。
「君も煩わしいと思うだろう」
「そりゃそうだけど……あ、もしかして俺が言ったから?」
「……めんどくさい、と」
少し前、シャアの部屋に何か物を持って行った際、警備に止められたのを思い出す。世間話の延長ほどのつもりで不満を垂れたが、どうやらなにかの引き金を引いたらしい。相変わらず扱いにくいったらない。ため息の代わりに、自分もグラスの中身を飲み干す。
「そりゃめんどくさいよ、ただの愚痴だ、深い意味はない。皆、あなたに何かあったら困るんだ。だからダメ」
「私のことを、心配してくれてるのか……」
説得の言葉をどう受け取ったのだろう。グラスを持ってない方の手を胸に当て、やたら感動した様子でこちらを見つめてくる。間違ってないが、どうしてそうなる、と言いたくて仕方ない。しかし黙る。またややこしいことになりそうだからだ。それに、目の前のこの男を、心の底からうざったい、と思わない自分自身にも呆れている。これが惚れた弱みなのだろう。
「…………そうだよ、ハニー。とっても心配だ。だからセキュリティは継続して」
一気にそう言うと、青い瞳を輝かせ納得した様子でコクリと頷いた。『君がそこまで言うなら』という、心の声が聞こえてくるようだ。俺が言ってるわけじゃない、というセリフもグッと飲み込む。そしてワインボトルを持ち、シャアの空になったワイングラスを、気持ち雑に赤い液体で満たした。
< 9.12 追加 >
他愛もない話に花を咲かせながらワインを燻らせる。ポテトチップスとかジャーキーとか、酒のつまみだから当たり前だけど、そんな俗なものに手を伸ばしてるこの人がなんだが面白くて、つい視線をやってしまう。煌々とついているライトが邪魔だ。すこし落として、それこそキャンドルの一つでもあれば雰囲気いいのに、なんて思いながら、自分のワイングラスを煽る。飲み終わってテーブルに置くと、シャアの手がボトルに伸びる。そして、彼の手で追加のワインが注がれる。最後の一滴が、ポタリと落ちた。赤い方はこれで綺麗に空いたらしい。
「これでカラだ」
「ありがとう。まだ飲むだろ?こっちも開けたら?」
「そうだな、頂こう」
そうして、セイラさんが兄を想って贈ってきたという白のボトルを開ける。アルコールの匂いがツン、と香るそれを、シャアのグラスに注ぐ。トプトプ、といい音がする。ほんのり黄色かかった透明なワインが、ライトに照らされてキラリと光った。
「妹から贈り物なんて、何十年ぶりだろうな」
シャアはグラスを手に持つと顔の前に掲げて、本日何度目かのため息を吐いた。そして瞳を軽く閉じてワインを口に含み、喉を通らせる。その一連の姿を、ソファにもたれながら眺める。手を伸ばしてチーズを口に入れる。いい眺めのおかげか、やたらと美味しく感じた。
「アムロ、君も飲む?」
「これ飲んだら貰うよ。ねぇ、前は何貰ったんだ?子供の頃だろ?」
「そうだな……初めて彼女から貰ったものは……冠だ、花で作ってあった」
「へぇ、かわいいね」
「あとはそうだな……母と一緒によく何か作っていたから、それはいつも1番に私にくれたよ。クッキーとかマフィンとか」
「いいなぁ。俺、一人っ子だから想像つかないよ」
「君の子供時代とは正反対かもな。ペットロボットやゲームなんかの、子供のおもちゃは一切与えられなかった」
「……!!もしかしてマリ◯カートやったことないの?」
「ないね」
「ハァッ……!Oh my god……今度やらしてあげるよ」
「……それは楽しみだ?」
俺のくだらない冗談と抱きつく腕を軽く流しながら、シャアは記憶の中の迷路を辿るように、ゆっくりと思い出を話し出す。古風な屋敷、緑のガーデン、乗馬用の馬、そして愛する両親と妹。全てがそこにはあったのだろう。
彼の子供時代はよく知らない。けれど、嫌でも耳に入ってくる情報を統括させれば、我々一般市民には想像もできない悲劇に見舞われたことは明らかだ。それでも、彼の中には、まだ幸せな記憶も存在している。それが嬉しかった。
「御伽話の世界みたいだ」
「そうだろうか?」
「うん。そんな生活、ほんとにあるんだ、って」
「……嫌いじゃないか?」
「ん?」
「そんな生活を……私は、いつかしたいと思ってる。君さえ良ければ、一緒に」
「…………俺とマフィン焼きたいってこと?」
「ッハハ、違うよ。君と、暮らしたいだけだ。小さな家でいい、2人で暮らせる家であれば……あぁ、庭は欲しいかもしれない……」
シャアの子供時代の話を聞いていたはずなのに、いつのまにか自分との話になっている。しかも未来の。
「俺と?2人で?」
「やはり嫌か?」
「まさか。でも、俺が恐縮しちゃうな。だって……だらしないんだ、すごく」
2人で暮らす。暮らす、なんて家庭的な響きが、なんとも自分たちに似合わなくて、全く想像がつかない。それに、互いの立場を思えば、実現するのは途方もないくらい、先の未来かもしれない。でも、そんなの無理だ、と切り捨ててこの会話を終わらすことはできなかった。
「薄々気付いてたんだよ、貴方ってこまか……きちんとしてるだろ?」
「そんなことないさ」
「そんなことある!だって俺は、ワインがこぼれた時用の布巾を用意する頭なんてないし、グラスの下にコースターなんて置こうと思わない」
そう言って机の端に用意されている真っ白な布巾と、水の入ったグラスの下に敷かれ、しっかりと水滴を吸収して色が変わったコースターを指差す。
「では、そういった類のことは私の役割だ。役割分担があっていいじゃないか。足して割ればちょうどいいさ」
やけに現実味を帯びさせて、起こりうるであろう問題提起なんぞをしてみたりした。きっと、自分のだらしなさで喧嘩の絶えない生活になるだろうと言うのは、容易に想像がつく。
「あとは……猫を飼いたい、昔飼ってたんだ。黒い猫で」
「猫ね……名前は?」
「ルシファー」
「っふふ」
「私がつけたんじゃない。妹と2人で、ペットが欲しいと親に言ってね。それで、猫を飼ってる知り合いから子猫をもらってきたんだ」
シャアは両手で、なにか生き物を抱き上げるような仕草をする。フリ、でしかないその動きだが、彼の手に体重を預けて心地良さそうに抱かれる猫の姿が見えてくるようだ。しかしすぐにその手を止めて、その手でワイングラスを持った。
「彼女が自分の子供のように、かた時も離さなくてね。結局、私にはあまり懐かなかった」
そして中のワインを煽る。
脳裏にとある光景が浮かぶ。見たこともないのに、鮮明に。子猫と猫じゃらしを使って戯れる、綺麗な男の子。楽しそうに遊んでいる。するとどこからか、小さな女の子が走って来て、子猫をギュッと抱き上げた。すると、男の子は猫じゃらしを女の子の手に握らせて、自分は一歩後ろに引く。
「妹の楽しみを邪魔しない、いいお兄ちゃんだ」
きっと小さな彼も、手を伸ばして抱き上げて、その小さな生き物をかまい倒したかったのだろう。しかしそれをせず、女の子が楽しそうにしているのを見守るのだ。
「そうかな、子供だっただけだよ。懐かないのが面白くないから日々の世話をサボってね。結局さらに相手にされなくなる」
この人がぷい、と振られてるところなんて想像つかない。それにきまぐれな猫に翻弄されている姿は少し見てみたい、と程よくアルコールが回った頭で思った。
「へぇ、貴方も袖にされた経験あるとはね」
「……Hey、sweetie?」
「……そっか、ごめん」
シャアの膝をトントン、と叩き、心地のいいガウンに覆われた足を撫でる。今のは本当に、悪気がないのだ。
「それで、キッチンも広々してるといいね。ダイニングテーブルがあって、それとは別にこの様なソファスペースが」
「随分と具体的だな」
「もちろん君の趣味の部屋も別に作るよ。ガレージ横に小屋を建てるんだ。男の趣味部屋と言えばガレージだ」
「俺の趣味は室内のパソコンテーブルで十分だけど」
横を見ればシャアの身体は随分とソファに沈んでいる。長い足が無造作に投げ出されている。だいぶリラックスモードらしい。するとコテン、と肩に重みが乗った。彼の頭が乗っている。乱れたブロンドが顔にかかって、綺麗な顔を隠してる。珍しい甘え方もあるもんだ、と思ったが、そういえばさっきから何かがおかしい。やけに饒舌だし、おまけにブロンドのカーテンからチラリと見える頬や首元は少し赤い。
「貴方……酔ってる?」
「君にってことかい?それならもう私は何年も……」
「へぇ、こりゃすごい……どうしちゃったんだよ、いつも酒強いじゃないか」
ふわっと笑うこの顔は外に見せたらまずい。しなだれかかって、腰のあたりに腕が回される。それを上手いことあしらいながら、シャアの手からグラスを奪う。落としたりしたら大変だ。しかしそれをテーブルに置こうとした時、おや、と何故か怪しく思い、己の口へ運ぶ。透明なそれは、見るからに、軽い口当たりの飲みやすい白ワインのはずだ。一口飲み干す。すると、喉が焼けるように熱くなった。
「っっゲホッ、ケホッ!これグラッパだよ!」
「私のを飲まなくても、注いであげるよ。グラスを」
この喉が焼かれる感覚は、とてもじゃないがワインじゃない。似ているが違う。もっと強いあの酒だ。酩酊状態のシャアがボトルを取ろうとしているので、その手を叩いて彼よりも先にボトルを奪う。素早くラベルを確認するが、名称も度数も全てワインのものだ。だが中身はどうしたってワインじゃない。まさか間違いってことはない。一瞬毒か何かかと思ったが、中身は確かにグラッパだ。それも美味しい。これも上等なものなのだろう。しかしこれでは酔うに決まってる。今一度、グラスの中身とボトル、それに添えられたメッセージカードを眺める。自然とため息が出た。
「はぁ……」
送り主は彼女で間違いはない。横で見事に、青い瞳をトロトロと揺らしている男の姿を眺める。この状況を整理するに、導かれる答えは一つ。
「イタズラだよ、セイラさんの。それか今までの仕返しだ」
「イタズラ?イタズラなんてしないさ、アルテイシアは聞き分けの良い子だ。誕生日に両親が忙しくていない時だって彼女は」
「はいはい。可愛い妹からの贈り物だからってなんで気付かないんだ、油断しすぎだよ」
むしろ、これまでの仕返しがこれで済まされるなら、かなり彼女は寛大だ。でもきっとそうなのだろう。これでチャラよ、なんて声が聞こえてきそうな気がする。当の本人は残念ながら聞こえていなさそうであるが。
シャアもシャアだ。妹から贈られたのが嬉しくて、簡単に酔い潰れるなんて。本当に、妹の名を騙る何者かからのものだったらどうするつもりなんだ、と頭を叩きたくなる。こちらの戸惑いはいざ知らず、シャアは子供時代の話から、また夢の二人暮らしについて話し始めている。
「車は2台あってもいい、どっちも使うかもしれないから」
「わかったから、ほら、水飲んで」
元々酒には強いし、具合が悪くなることはないだろうが、これ以上飲ませるわけにはいかない。
「朝食はパンでいいだろう?私は米食というのがどうもアレでね。たまにならいいんだけれど」
「パンでいい、もう全然大丈夫。だから水飲んで」
グラスを手に握らせ、そのまま少し強引に水を飲ませる。シャアは素直に一口飲んだ。コップを手に持ったままゆったりとしている。本当はもう少し飲んでほしいが落とされてもまた困る。コップを取り上げてテーブルに置いた。
「それで……」
「ん?」
シャアの計画はまだ続く。今日はとことん喋り倒すつもりらしい。酔うとよく舌が回るタイプなんだな、なんて思っていると、聞こえてきた内容に、思わず身体が固まる。
「それで、パンのトースターが壊れるんだ。愛用のね、それで私は新しいのを買おうというんだけど、君はこんなのすぐに直せるよって……すぐ工具を取り出して直すんだ」
なにか、小さい子にお気に入りの絵本を読み聞かせているような。そんな声で紡がれるお話。なんてことない、何が起こるでもない、そんな内容だ。でも聞こえて来た途端、なぜか自分の、心臓よりももっと奥にある、見たことも触れたこともない体の1番大事なところが、ギュッと掴まれた気がした。恋しい、嬉しい、苦しい、切ない、悲しい。どれでも表せない感情に包まれた。シャアの瞳を見る。青い瞳は、今夜も吸い込まれるように美しい。
「そんな、生活だよ」
薄く笑顔を浮かべてシャアはそう言った。できるわけがない。全部が全部、夢のまた夢の話だ。だってやることが山のようにある。そして彼は絶対、投げ出したりなんかしない。自分もそうだ。そのためにここに来た。それでいいのだ。だから今聞こえた事も、彼に付き合って言ったことも、全てが戯言に等しい。本当は言うだけ、虚しく悲しくなるだけ。シャアだって、どんなに酔っていても、誰よりも一番わかってるはずだ。天地がひっくり返ってもあり得ない、夢物語なことくらい。それでも、今日だけは。こんな、遠い地球から届いた美味しい酒に呑まれた夜なら。せめて、会話として楽しむことくらい、許されてもいいはず。
「でも、そうなったら」
「ん?」
「その生活をするときの私は、何もない。なんの肩書きもないし、きっと全てを捨てることになる。そんな私でも、君は……」
何を言いたいかがわかったから、シャアの手を取ってやんわりと握る。スッと体を寄せると、同じように距離を縮めてきた。肩同士が触れ合う。
「好きでいてくれるかい?」
そんな呟きを聞きながら、身体の向きを合わせる。コツン、とおでこ同士が触れ合った。互いの鼻先も当たりそうな距離だ。
「当たり前だ。それに、さっきも言っただろ?シャアはしっかりしてる。何にもない男なんかじゃないよ」
そして、チュ、と音を立てて小さなキスをした。すぐに唇を離すが、今度はシャアから啄むようなキスが降ってくる。いつもよりも暖かく感じる唇が気持ちいい。遊ぶようなキスをして、まだすぐにでも唇が触れ合ってしまいそうな距離のまま話し始める。
「だって俺は、本当に身一つでここに来た。今はもう、パイロットでもない。でも貴方はそれで良かったんだろ」
「当たり前だ。アムロは、いてくれれば……君なら、なんでもいい」
ソファの上で重ねたままの手。ゆっくり動かして、指を絡める。絡めたまま握り合って、また緩める。
「おんなじだよ。シャアも……貴方であれば、それでいいよ」
手を絡ませ合いながら、ゆっくりと身体を合わせる。互いの肩に頭を預け、心地よく体重を預ける。トクントクン、という心臓の音が聞こえる。この奥の、複雑な感情を宥めるように。
身体をゆっくりと離して、また2人、ソファに身体を預ける。前をゆったりと見つめて口を開く。自分も、その夢物語にまだ付き合いたい。
「それに、何もかもなくなって、身一つになっても、なんとかなるよ。家の一つくらい。お金は……ちょっと俺、よくわからないけど、ないってことないだろうし……あぁ、貸してくれる宛はたくさんある」
頭上で微かな笑い声が聞こえる。チラリと見ながら、繋いだままの手をシャアの膝の上に置く。
「パンのトースターだって直したことないけど、直すよ」
工具箱は持っていかないとね。そんなことを言いながら。こちらの返事に満足しているのか、シャアは俺の髪の毛やこめかみに顔を埋めるようにしてキスをする。唇が離れていくのを見計らって顔を向ける。首を伸ばして、すぐ上にある唇へ、こちらからまたキスをした。
「もちろん猫も。その……ルシファーだっけ?」
そう言って、そっと瞳を閉じる。2人と一匹暮らし。静かな生活になるのか、それともドタバタな日々なのか。瞼の裏では、テーブルに向かい合ってのんびりと朝食を取っている我々と、黒猫がまだ干してない洗濯物を散らかしてぐちゃぐちゃになった部屋、どちらの光景も映し出される。どちらだって構わない。この人がいれば、それでいい。
「その子に似た、黒い猫にしよう」
心からそう思って、ポツリと呟いた。すると、てっきり先ほどのように何か相槌なり、スキンシップなりが返ってくると思ったが、なぜか何も聞こえないし、身体に何も押し付けられてこない。閉じていた瞳を開けて、再びちらりとシャアを見る。ついさっきまで、宵に身を任せ、トロンとした瞳をしていたのに。その瞳はずっと前を向き、どこか一点を見ている。さっきまで朗らかだった顔が、なんだか少し険しい。
「……が、いい」
「ん?……ぉあっ」
そして小さく口が開いた。声も小さくてよく聞き取れない。聞き返すと、シャアはこちらに腕を回して抱きついてきた。身体を屈めて、ぐりっと、胸元あたりに顔を埋める。そしてもう一度、言葉を紡いだ。くぐもっていたが、今度ははっきりと聞こえた。
「…………本当は、白い猫がいい」
「わかった白猫だ!猫といえば白だ!」
反射的にそう言った。もはや叫んだ。丁寧に育てたロマンティックな雰囲気を一瞬にして吹き飛ばす、めんどくさい、が顔を覗かせる。特大のため息を飲み込んで天井を見上げる。この胸に抱きついている人と、同じ髪色と目をした彼女の姿が浮かぶ。兄弟間のいざこざ全て、精算してから戻してほしい。そんな文句が頭に浮かぶ。胸元から聞こえる、泣いてるんじゃないかと疑うような、掠れたありがとうの声は、聞こえていないフリをした。