春の知己 ざあ、と心地の良い風が新緑の葉を鳴らしていく。
目的の藤の木は、この先の緩やかな曲道を進んだ先にある。菓子と茶器を入れたおかもちを手に、藍忘機は逸る気持ちのまま足早に歩を進めた。
「藍湛、花見をしよう!」
「花見?」
静室で共に昼餉を摂り終え、藍忘機が食後の茶を淹れている時であった。
「うん、裏山に藤の木があるだろ?この間散歩してたらさ、チラホラ花が咲き始めてたんだ。きっと今頃見頃だと思う」
飲み頃の温度で淹れられた茶をぐいっと一口で飲んで、魏無羨は身を乗り出した。
「今日の午後の執務は早く終わるって言ってただろ?酒と菓子でも持って…あ、お前は勿論お茶な!花を愛でながら一杯…どうだ?」
本当は食事中からずっと話したかったのだろう、妙にそわそわと物言いたげな視線を向けられていた理由に納得する。ここ暫く執務が立て込んでいて、余り2人で過ごす時間が取れていなかった。花を愛でながら魏無羨と語らうのは、藍忘機にとっても非常に魅力的な提案に思えた。
「うん、行こう」
「よし!じゃあ、後で藤の木で待ち合わせな!茶と菓子の用意は頼んでいいか?俺は酒と…ちょっと、用意があるから」
妙に楽し気な、何かを企んでいるような笑みを向けられるが、魏無羨が活き活きとしているのは好ましい。藍忘機は僅かに口角を上げ、頷きを返した。
さあっと、春の心地よい風が藍忘機の頬を撫でていく。この曲道を抜ければ、藤の木のある少し開けた場所に出る。
無意識に顔に出ていたのか、兄である藍曦臣には早上がりを許されてしまった。気恥ずかしさを覚えながらも有難く退出した藍忘機は、浮足立つ己を自覚しながら最後の曲道を抜けた。
その時、とても軽やかで繊細な、歌うような笛の音が聞こえてきた。気の向くまま即興で吹いているのか、聞き覚えのない旋律であった。小鳥と戯れるように高音で遊んだかと思えば、流れる清流のように涼やかに音を響かせる。奏者を表すかのように型に嵌らず、自由で気ままでくるくると表情を変え、しかしとても心地よい。
このままずっと聴いていたい。
音を邪魔しないように、藍忘機は息を潜ませゆっくりと進み出た。そして。
――あまりの景色に、藍忘機は言葉を失った。
さらさらと風に舞う豊かな黒髪。
長い睫毛が影を落とす頬に浮かべられた笑み。
軽やかに笛を奏でる指先。
紫色の花弁がはらはらと降り注ぐその衣の色は――白。
まるで藤の精が姿を現したかの様にたおやかで、幽玄で、はかなくて。
震える呼気に思わずふらりと進み出ると、足元で小枝がパキリと音を立てた。
「お、藍湛!来たか!」
あっさりと演奏を辞めた魏無羨は、陳情を振って藍忘機を手招きした。
まだどこか呆然としたままの藍忘機は、慎重な足取りで藤の木の元に歩を進めた。
「魏嬰、それは…」
「ははっ驚いたか?この間春物の入れ替えで衣を整理してたらコイツが出てきてさ。そういえば俺が座学に来てお前と初めて会ったのもこのくらいの季節だったなーって。それで懐かしくて、ちょっとお前を驚かせてやろうと思ってさ!」
なかなか似合ってるだろ?そう言って袖を広げて見せる魏無羨に胸が弾む。
「やっぱり丁度見頃だったな、花を愛でながら呑む天使笑も格別だ!」
風に煽られちらちらと降り注ぐ紫の花弁の中に佇む、白い衣の魏無羨から目が離せない。
「な?綺麗だろ?お前と一緒に見たかったんだ。満開の時に来られて良かったよ」
そう言って向けられる、こぼれる様なその笑顔。花弁を見上げ、眩しそうに目を細めるその横顔。
それは、とても、あまりにも、
「――美しい」
思わず漏れた心の声にニカリと笑った魏無羨は「だよな!」と嬉しそうにし、機嫌よく天使笑を傾けた。
それにふと笑みを浮かべた藍忘機も隣に並び立ち、降り注ぐ藤の花を共に見上げた。