水中の蜻蛉 硝子の表面には青い翅を広げた蜻蛉が三匹、空を切っている。柳のような細長い葉が大きく流れ、涼やかに器の全体を彩っている。
グラスから冷水を口にしてもう一度眺めてみたが、柳と蜻蛉とはどこか腑に落ちない組み合わせだ。
そうして廊下で絵と水を朝の光に透かしていると、階下から微かに足音がした。
腕時計を見ると六時を少し回ったところだった。こんな早くに研究室棟に来るのは、卒業制作中の工房の生徒だろうか。
だが、階段の踊り場に現れたのは若い美術講師だった。
彼は、私が背にした日差しに顔を顰めながら「おはようございます」と明瞭な発音で挨拶した。静かな声だった。
「おはよう」
彼の名前は知らない。それ以上会話をするつもりもなく、体を背けてもうひと口、冷水を飲んだ。
飲んでから、酒をやっていると思われてはやや始末が悪いなと思って振り返ると、通り過ぎようとした彼は案の定私の手元を見ていた。
「そのグラスは先生がお作りになったのですか」
「………。卒業生の硝子作家が送ってくれたものだ」
「いい絵ですね。少しだけ見せていただいてもよろしいですか」
私がグラスをかざしてぐるりと回して見せると、若い講師は遠い目のような眼差しで硝子に描かれた不可思議な光景を見つめた。
私は少し興味が湧いた。
「これは柳と蜻蛉の絵のようだが、どう思うかな」
若い講師は少し考えるように黙ってから口を開いた。
「水草ではないでしょうか」
「水草?」
聞き返したとき、はじめて彼と目が合った。
「水草にも柳のような葉をしたものがあるんです。マツモを靡かせて造形的に描いたのではないでしょうか」
私は心中驚きながらも腑に落ちる思いを感じていた。彼女ならやりかねない。
「水中を飛ぶ蜻蛉と、風に靡く水草か。人を食ったような絵だな」
暗号のような絵を私に送ってくるところも彼女らしい。私の工房に変わった生徒ばかり集まるのは何故だろうか?
「美しいグラスですね」
美術講師はもう一度グラスを見て微笑んだ。私は彼の目元が柔らかに緩む陰影を見ていた。