#1.1 暗がりの光拍手の中。中央を示すバミりの元へ足早に歩みを進めて、深くレヴェランスをする。
更に大きくなった拍手や歓声に自然と笑みが溢れ、真直ぐ顔をあげた。
称賛は暫く収まらなかった。隣にアルブレヒト役のダンサーがやってきて、いのりは彼と共にもう一度レヴェランスをしてから振り返り、壇上のメンバー達に微笑んで拍手を送った。
ロマンティック・バレエ『ジゼル』の公演が終わった。
ジゼルは所属団の芸術監督もプリンシパルを差し置いていのりへ主役を託す演目だった。
着替える暇すらなく挨拶や見送りをしていたいのりだったが、打ち上げは後日、と今は多くのスタッフが既に帰路についたらしく舞台裏は静けさに包まれている。
一人の楽屋に戻ると強い花の香りがした。バレエダンサーへの差し入れは花が多い。
一つ一つ見ていけば、片手では抱えられないほどの白百合のブーケに「いつでもあなたを見守っているわ」と口紅で書かれたカードが添えられているものがあった。差出人を確かめずともわかる。いのりがよく頼り、甘えるのを仕方がなさそうに受け入れてくれるやさしい魔女からのものだ。お決まりのカードへ主に届くだろうかと感謝のキスをする。
また、グリーンでまとめられたアレンジメントに強い呪言の施された漆黒のリップケースが入っているものもある。いのり好みのケースの中は蜜とハーバルの香りがするリップクリームで、安眠の呪いが込められているのが読み取れた。これはアレンジメントと同色の髪を持つ、月に焦がれる美しい占い師からだろう。
やっぱり見に来てくれていたんだ、と客席を見上げた時を思い出す。彼女たちも巧く身を隠すために見つけられはしなかったが、気配は感じていた。
他の差し入れも確認しながら後日お礼をしに行こう、とスマートフォンを探そうとした時。楽屋の扉がノックされた。
返事をすると「入ってもいいかい」とドイツ訛りの英語が返ってくる。
差し入れを整え、扉を開いて招き入れる。
“こんな格好のまま、すみません”
“とんでもない。主役がこんな遅くまでいるなんて。ご苦労さま”
“ありがとうございます、でもこの雰囲気も好きで。キルヒナー氏もやっと解放されましたか?”
楽屋へ通すと、いのりはにこやかに椅子を勧める。
ドミニク・キルヒナー。所属の団が招待していた海外バレエ団の芸術監督だった。
バレエダンサーとしては既に引退しているが、衰えない人気も納得の長身の立ち姿と若白髪を自然に撫で付けた色気のある見目がある。
“いいや、商談はとっくに済んでいたんだけれどね”
キルヒナーの隣に腰掛けながら、その声色が僅かに変わったことにいのりは『あ』と心の中で舌打ちをした。
愛想の良い笑顔を貼り付けながらキルヒナーを見る。その視線はいのりの足元から悠々と上へ辿り、漸く目があった。
“君のジゼルを是非、私の国でも踊ってもらいたいと思っているんだ”
望んでいなくても魔女の力が周りをそうさせるのか。それは都合の良い時もあったが……目の色が変わる、という現象をいのりは嫌というほど体験してきた。色素の薄い瞳は尚更わかりやすい。
それはまさに、今この瞬間だった。
“……嬉しい、ありがとうございます”
それはそれは、心から嬉しそうに演じながら『あ~失敗した。隣に座るんじゃなかった』そう思ったいのりの膝にキルヒナーの掌がひたりと触れる。チュール、タイツ。衣装から順に伝わってくる冷たい熱に僅かに産毛が逆立った。
夜半前。ホール裏のダストボックスに『ジゼルの衣装だったもの』を叩きつけるように投げ捨てた。
今日が最終日で良かった。裂かれたタイツは元々消耗品だが、体液の付着した衣装は二度と身につけたくはない。
堪えきれないため息を深く吐きながらダストボックスの蓋を閉じる。
差し入れの白百合のブーケを抱え、押し寄せる疲れに暫く足元を見ていると不意に影が月に反して動く。別の光源ができたのだ。
「人間さん、ですか?」
かかった声の方向に顔を上げる。新たな光源はそれだった。
――天使。
「こんばんは!いい香りのするお花ですね!」
『らしい』真白いワンピース。切り揃えられた甘い色のミディアムヘアが幼く、可憐な容姿を祝福するように、小さな花弁が控えめに舞っている。そして何より真白な翼と、光源。頭上に輝く光輪(ニンブス)。
紛れもない天使がそこにいた。いのりは焦る内心を隠して、天使に向き合って立ち、花のお礼を言う。
「この辺りで魔女の気配があったんです。何か知りませんか?」
恐らくいのり本人や鑑賞に来ていた魔女たちの事だろう、天使たちの嗅覚は確かだが今回は間に合わなかったらしい。
更に今はキルヒナーと白百合の香りがいのり自身を隠してくれている。この幼い天使の様子から、いのりはそう確信して警戒を解いた。
「うーん、もしかしたら見に来てたのかもしれないけど、わたしにはわからないや」
こちらに害がなければ天使など元々恨んではいないのだ、愛らしい天使は脅威がなければ好ましく思うほど。人間を愛し守護する尊いものたち。自身が若い世代なのも相俟って、いのりはそう思っている。
「ごめんね」
「いえ!大丈夫です。……ここで何をしていたのですか?」
地面に降り立って、可愛らしく頭を振った天使はホールを見上げる。好奇心旺盛なのだろう、いのりも同じくホールを見上げてみせる。
「ここは劇場だよ。オペラとか劇とか……色んな事をやってみんなが見に来る所。わたしは、今日この中で踊ってたの」
「踊るのですか?」
天使は目を輝かせるようにしていのりを見上げてきた。白百合のブーケをぎゅ、と抱きしめて、いのりはにっこりと笑う。こうしてみるとただの少女のようで、恐ろしさよりも可愛さが勝るな、と思いながら。
「うん。バレエって言うんだけど……」
静かに爪先立ちになり、簡単にバリエーションの数小節程を踊って見せると天使は更に目を輝かせてくれた。ぱちぱち、と小さな手が拍手をする。
「綺麗です!私たちもおどったりうたったりしますが、それとも違っていて……」
「ありがとう。バレエも結構楽しいんだよ」
和気藹々とした雰囲気に先程までの気持ちが少し晴れていく。内心でいのりが感謝していると、天使が「あ!」と声を上げて慌てて羽ばたいた。
「引き止めてしまってごめんなさい!私はもう少し辺りを探してみます。人間さんも、夜ももう遅いですから……あなたが無事温かい寝床に帰れますように」
ふわりと飛び上がる軽やかなその様子に、それなら何度綺麗なジュテができるだろうと関心する。
そのまま羽ばたいて空へと昇ろうとした天使にはっとしていのりは声をかけた。
「待って!……わたし、○○スクエアの屋上でたまに練習してるんだ。××ストリートの区画。秘密の場所だったんだけど、最近天使が来るようになったから。もしかしたらあなたの友達かもしれないし……」
興味があったら。と、少し高度を下げてくれた天使へブーケから一本の白百合を抜いて差し出す。
「わたしはいのりって言います。あなたは?」
少し驚いて大きな目をぱちくりさせた天使は、白百合を受け取ると花がほころぶように笑って答えた。
「オルガです!」
【銀のLe collieR】深山いのり 2
了