ヤプーパロ続き おまけ ―――トン、……トン、トン
扉の向こう側から不規則なリズムが聞こえてくる。
「……母様、入るよ。気を付けて」
アイが扉の向こうの人物を傷付けないよう、そっと扉を開くと眼下では暗い目をした母がじっとこちらを見詰めていて、入ってきたのがアイだと分かると縋るように手を伸ばしてきた。
「母様」
「……ぅぁ、……ぃ、……ぁい」
「うん。ごめん、来れなくて。父様が許してくれなくて」
ずっと扉を叩き続けていた手に怪我が無い事を確認して、アイはすっかりやつれてしまった母を部屋の隅まで連れて行く。と言っても、彼女の半分程の身長もないアイではとても彼女を運べないので、彼女を先導してこちらに来るように誘導する。ずっとアイを待ち侘びていたローは嬉しそうに息を切らしながら重い身体を引き摺ってアイの元までやって来る。すっかり彼女の定位置となっているそこにはマットが敷かれ、毛布が散っている。他にあるのは壁際には置かれた鏡だけだったが小さな部屋の様相を呈していた。アイの父親がローの為に整えた場所だ。
そこに母を横たえるとアイは壁を背に床に座り込んだ。
「……ぅぁい!」
「うん。……母様、大人しくここで待っててくれたらいいのに。ドア開けられないだろ」
彼女では決して扉を開く事は出来ないのに、アイがここを訪れない日、ローは必ずこうやって扉を叩き続けている。父親が船にいる時は嗜めて、彼女を抱き上げてこの小さな彼女のスペースに戻す。そのまま父親が部屋に残れば、もう彼女は大人しい。時折、物言いたげに父親にぼんやりりと視線を送るが彼女が意見を伝える事なんて出来ない。
それでも、今日は父親が不在なので彼女はこうやって扉を叩き続けていたわけだ。……アイを求めて。
「あ……ぃ!ぁぃ!」
嬉しそうにローは訪ねてきた我が子に抱き付いた。アイもそれに表情を和らげる。そして、抱き付いてきた母を優しく撫でてやる。暫く、嬉しそうにしていたローだったが、やがてアイの身に付けているパジャマを見ると顔を顰めた。なんだか戸惑っているようだ。
「……あ、ちょっと待って。母様」
母の言わんとしている事を察してアイはそのパジャマを脱ぎ去った。父が選んだシロクマ柄のそれを床に投げ捨てる。そのまま下着も脱ぎ去ってアイは産まれたままの姿になった。そしてローに向き直り、微笑むとローも安堵の表情を見せる。
「ケホ……ッ、母様、ちゃんとご飯食べないとダメだろ」
「……ぅぁ?」
アイはローの為の小さなスペースに置いてある低い台の上に粥と水の入った皿が二つ、中身を減らさずに鎮座しているのに気が付いた。どうやら、父が置いていった食事に手を付けていないらしい。という事は食事も摂らず、ローはずっと扉を叩き続けていたという事だ。
「……ほら、おれも手伝うから」
もう昼を随分過ぎている。きっと腹を空かせているに違いない。ただでさえ、食事を摂るのが苦手で普段からあまり食べないのだ。少しでも食べさせなければならない。
「……ぁ」
アイが皿を差し出すとローは嬉しそうに皿に顔を近付けた。すっかり冷めてしまって、アイには全く美味しそうに見えない粥だが、ローには関係ない。アイが差し出してくれたそれに嬉しそうに貪りついた。……まるで動物のような食べ方だが、ローにはこうやって食事をするのがやっとだ。唯一父親だけが、ローに匙を使って食事を摂らせる事が出来る。しかし、今日のように彼が不在の日は直接皿から食べさせるしかないのだ。
「ほら、ほっぺ付いてる」
頬についた食べかすを拭いてやると、ローは甘えるようにまたアイに抱き付いた。アイは当然それを受け入れて、優しく抱き締め返してやる。
「……ぁ、……ぅぁ、」
「うん、そうだな。……ケホッ」
そして、ローをそのまま膝に乗せると必死に何か伝えてくるローに相槌を打つ。ローの高揚が伝わってくる。暫くそうやって、ローの話を聞く。それだけでローは満足気だ。心を壊してしまったローはアイにしか心を開けない。この役目はアイにしか務められないのだ。
―――バンッ‼
しかし、その時間も間も無く終わりを迎えた。
ローが叩き続けていた扉が乱暴に開かれると、父と部下のペンギンが飛び込んで来た。二人とも息を切らせていて、肩を激しく上下させている。余程慌てて走ってきたようだ。
「あ、父様。おかえり」
アイはそう声を掛けると、掛けられた本人はアイを睨みつけながら声を上げた。
「馬鹿!何してやがる!ここには来るなと言っただろ!さっさと部屋に戻れ‼」
半ば予想していた叱責にアイは息を吐いて立ち上がった。ローが泣きそうな目で見上げてくるが、父が帰ってきた以上この時間はお終いだ。拒絶したところで、アイに抵抗する術は無い。
「ほら、早く服を着て」
「分かったから。自分で着る」
脱ぎ捨てていたパジャマを身に付けると、ペンギンがアイを抱き上げた。
「じゃ、キャプテン。おれはアイを寝かしつけてくるから。……あーあ、熱上がってるじゃん」
「ああ、しっかり見張っとけ。おれも後で行く」
ペンギンの肩越しにローを見ると、取り乱しながらアイに手を伸ばしているのを父が必死に宥めていた。それでも、こうなってしまってはアイにもう出来る事は無く、大人しくペンギンに運ばれていく。そして、アイの部屋に着くとゆっくりとベッドに寝かされた。
「ケホッ、ケホ……ッ」
「もう。確実に悪化してる。体調悪いんだから、大人しくしておかないと駄目だろ。何か食べられる?薬飲まないと」
力無く首を振ってアイは枕に顔を埋める。ローといる時は気を張っていたが、もう限界だった。
「……はぁ。安静にしとけって何度も言われただろ。ローのところには治ってから行けばいい」
「いつだよ。それ」
もう一週間はこうして寝込んでいる。脆弱なこの身体が恨めしい。アイが行かないとローはいつまでもああやって扉を叩き続けるのだ。彼女を癒せるのはアイしかない。
「おれが行かないと母様がずっと待ってる」
「……少なくとも、こんな状態のお前が気にする事じゃないさ。大人たちに任せてくれよ」
「おれじゃないと無理だろ」
アイに水を飲ませながらペンギンは苦笑する。アイの言う通りだった。
「……お前をローが妊娠した時、上手くいきそうだと思ったんだけどな」
「え?」
アイが疑問を呈すとペンギンは苦笑しながらポツポツと語り出した。
「最初に会った時からローはあんな感じで、服は着れないし、足も動かないから床に這いつくばって……。なんとか治そうとしたんだけど、まぁ、その……上手くいかなくて」
「……」
「でも、お前が腹にいる時のローは違ったんだ。服は相変わらず着れなかったけど、毛布とかキャプテンのマントとか羽織って自分の身体を守ろうとしてた。床だと腹を圧迫するってキャプテンが教えると、落ち着かない様子だったけど椅子に座って、一人でもベッドで寝るよう頑張ってた。苦手な食事もあの時だけは頑張って積極的に食べようとしてたんだ」
「……無理させてたんじゃねぇか?」
「そうかもしれないけど、それでもローはどこか幸せそうだったんだ。……うん。そうだ。幸せそうだった。慈しむようにお腹を撫でて、自発的な事なんて殆ど出来ないのにいつの間にか〝アイ〟って名前まで考えてた。キャプテンも幸せそうで……。キャプテンとローの間には男女の愛情なんて無いかもしれないけど、本当にキャプテンもローを大事にしてたから。きっとお前がローを良い方へ導いてくれるってそう思ったんだ」
「それがどうして母様は今もあんな状態なんだよ……ッ、ケホ……ッ、」
アイが知るローはペンギンの語ったローの片鱗もない。誰がどう見ても壊れ切っていた。
ペンギンは思わず身を乗り出したアイを宥めながら、重々しく続ける。
「興奮しないで。……お前が産まれた時、うちはお祭り騒ぎだった。何と言ってもキャプテンの子だ。キャプテンにもローにもそっくりなお前を構うのを競い合ってたぐらいだ。キャプテンも浮かれて街でベビー用品買い占めてくるし……」
「……その辺りの話はいいから」
「……んで、ローだ。ずっとお前の事呼んでて、抱かせてやると嬉しそうにしてたなぁ。キャプテンも隣でお前とローを支えてやってて、それだけ見るととてもローが問題を抱えているなんて思えないぐらいだったよ。……でも、すぐにそれは間違いだったって分かった」
そこまで言ってペンギンは一度口を噤んだ。幼いアイに聞かせるべきか悩んでいるようだった。しかし、ここまで話してしまって止めるわけにもいかなかったのだろう。一度息を吐いて、アイに訊ねた。
「今日お前、どうして裸になんかなったんだ。熱だってあるのに」
「……母様はいつもおれの服を脱がそうとするから」
「それさ」
言い辛そうにペンギンは目を伏せる。
「ローはちゃんとお前に愛情を持って接していたし、お前が近くにいないとずっとお前を呼ぶもんだから、初めはキャプテンの部屋にベビーベッドを置いてお前を寝かしてたんだ。あ、勿論キャプテンも当然そのつもりだったぞ。……んで、まぁある日、お前とロー二人だけを残して船長室には誰もいなかったんだ。お前はぐっすり寝ていたし、ローは愛おしそうに眠るお前を眺めてた。少しの時間だったし、何の問題もないと思ったんだ。でも、帰って来てみるとお前はベッドにはいなかった」
「……何があったの?」
「ローに抱き締められて床にいた。服も全部脱がされて。……おれたちは察したさ。ローは何も変わっていないし、あろう事か自分の状態をお前にも押し付けようとしてるって」
「……でも、仕方ないんじゃ」
「おれたちもそう思った。けど、そのままにもしておけないだろ?だから、ローに何度も説得したさ。でも、ローには伝わらなかった。ローはお前を人間として育てようとはしなかった。その時にはもうお前の身体の弱さも分かってたし、キャプテンが仕方なくお前とローを引き離す決断をしたんだ」
アイは歯噛みする。そんな事しなくて良かった。アイはローとずっと一緒にいたかった。
「そ、そんなの母様が可哀想だ」
やっとそれだけ搾り出してペンギンに反論する。その結果があの生気の欠けた母親だ。
しかし、アイの言葉にペンギンは顔を歪めた。
「おれたちだってローの事は可哀想だった。でも、仕方ないだろ。お前を奴隷の子として育てるわけにはいかない」
「……ッ」
「勿論、全く会わせなかったわけじゃない。一日一回時間を決めて、必ずキャプテンが側にいる状態でお前と会わせてた。お前がいない時だって、キャプテンは出来る限りローに寄り添ってた」
自分の為と言われてアイは返す言葉が見つからない。……それでも、アイはあんなローを見ていられない。
「も、もうおれは大丈夫だ。もう分別もあるし、母様からどんな扱いを受けたって仕方ないって理解できる。おれがいれば、母様は安定する。あんな痛々しくドアの前で待つ事はなくなるし、食事だってしっかり摂ってくれる。おれは別にそれで構わない。……なぁ、この海賊団にとっても良いだろ?」
そうだ。そのはずだ。ローが安定すれば父や他のクルーの負担も少なくなる。もうアイも六つだ。ローが自分をどう扱ってもそれがおかしいと認識出来る。ローがあんな状態なので仕方ないと理解出来ている。
ペンギンの腕を掴んでそう告げたアイにペンギンは苦い顔をした。そして、滅多に見せない鋭い視線でアイを射抜く。
「良くないに決まってるだろ」
「な、」
「たった六歳の子供にそんな負担掛けさせられるか!」
思わず声を荒げたペンギンのその威圧に、アイは思わず肩を震わせた。その反応に直ぐにペンギンは落ち着きを取り戻して、アイに謝りながら息を吐いた。アイの乱れた毛布を肩まで掛け直して、ペンギンは再び口を開く。先程とは打って変わって口元には穏やかな笑みを浮かべている。
「アイが母親想いなのは分かってるさ。愛情深いのはさすがキャプテンの子だ」
「父様は関係ない」
「ははは、ごめん。……いくらローにお前が必要だって言っても、ローの問題をお前に押し付ける気はない。子供に親のケアなんてさせられない。まだたった六歳なんだ。お前はただ愛情を受けて育っていけばいいんだ。おれやシャチは六つの頃なんて遊ぶ事しか考えてなかったぞ。……勿論、お前を母親から遠ざけたいわけでもない。今はしっかり身体を休めて、回復させて治ったらローに会いに行けばいい」
頭を撫でられながら、そう告げられればアイは何も返せなかった。皆、アイの事をしっかり想って対応してくれているのだ。父やクルーたちを責めるのはお門違いだ。
「おれの身体さえ丈夫だったら」
「……すぐに元気になるさ。アイの父さんだって昔は酷い病に冒されていたけど、今はすっごく元気だろ?」
「……うん。元気すぎる……」
「誰が元気過ぎるって?」
「キャプテン」
不意に扉が開いたと思うと、父がアイの部屋に入ってきた。手には粥と薬が握られている。
「ほら、少しでもでも食って薬飲んでから寝ろ」
「……父様、母様は?」
「寝かしつけてきた。今はベポがついてる。……久しぶりに何か興奮して話してたから、お前が来てくれたのが余程嬉しかったんだろうさ。……母親想いなのはいいが、自分の事も考えろ。母様の事はおれに任せてゆっくり休むんだ」
「ん……」
父の額を撫でる手が気持ち良くて、いつの間にかアイはウトウトとしてきた。眠気まなこで、粥を二、三口食べて薬を飲んで横になる。もう眠気に抗えそうになかった。
「……父様」
「ん?」
「母様をたのんだよ」
「お前に言われるまでもねェよ」
微笑む父の顔に安心してアイは眠気に身を委ねた。彼らローを癒やしてくれるかもしれない。ローの事も、アイの事も真剣に考えてくれている彼らにならきっと希望はある。。
ローを拾ったのが彼らで良かった。
そう信じた。
***
(信じてたのに!)
部屋に入ったアイを見るなり、びくりと身体を震わせるローにアイは拳を握り締める。
「……ぅぁ、……ぁ、……ぃ、」
「母様?」
とある島に寄港して、父たちがローを連れて何処かへ行った。そして、帰ってきたと思ったら……これだ。
ずっと涙を流し続けて、この船で唯一心を開いていた……依存していたとも言えるアイに対してもローは壁を作るようになった。……なってしまった。しかも盗み聞きした話では、ローはなんと海へ身を投げたらしい。
父たちからの説明は無い。
アイの胸の奥からフツフツと怒りが湧き出てくる。信頼していたのに、たった数時間で父たちはローとアイの絆にまでヒビを入れた。アイは唇を噛み締める。
アイの中でカチリと音がする。
もう、ハートの海賊団(ここ)にローを置いておけない。