スタートライン 研修室に入ってきた社員を見て、仙子は心臓が止まりそうになった。
ものすごく見覚えのある、隈のある顔。前世の同室にとてもよく似ている。
「本日からの研修を担当することになりました潮江です。よろしくお願いします。」
首にかけられている社員証に目をやる。潮江文次郎。名前まで同じだとは。
仙子はこの春大学院を卒業し社会人となった。
新入社員は各部署で数日間研修を受けることになっている。研修をもとに、仮配属先が決定される。
今回の研修先は仙子の第一志望の部署であるためいつもより気を引き締めていたが、まさかの人物の登場に、研修どころではなくなりそうになった。
それでもどうにか、「第一志望の部署なんだから、しっかりしなくては。それに、あいつも前世の記憶があるとは限らん」と思い直し、研修を受けた。
研修は仕事内容を教えてもらえるだけでなく、部署が抱えている問題を一部洗い出したり、改善策を提案してみたりと、なかなかやり甲斐があった。
無事に最終日を迎え、退社後に近場のカフェでコーヒーでも買おうかと歩いていたところを呼び止められた。
「立花さん」
「あ、潮江さん。お疲れ様です」
「お疲れ様。業務改善の提案、ありがとうな」
「いえ、入社前から興味がある分野でいろいろと調べていたので。お役に立てたらいいなと思うのですが」
「そうか。ところで立花さん、いや…、立花仙蔵なんだろう?」
不意に呼ばれた名前に、どきっとする。
かつては何度も、この声で呼ばれていた名前。あの頃は聞き慣れていたはずなのに、今はひどく心臓がうるさい。
「わかる…んですか…?」
「わかるよ。新入社員の名簿を見てまさかと思ったけど、研修室に入った時にやっぱりなと思ったよ。仙蔵も気づいてたんだろう?あんな顔しててさ」
「なんだ、気づいてたのか、あ、気づいてたんですね」
「社外なんだし、敬語はいい。それに俺たちは同い年だ。俺は大学を卒業してすぐに就職して、今入社3年目だからな」
「お前、その顔でまた私と同級生なのか」
「うるせぇな」
そんなやり取りをしながら、二人でけらけら笑う。あの頃に戻ったようで、胸が高鳴る。
「…ところでお前、付き合ってるやつはいるのか?」
文次郎に聞かれ、仙子は答えに詰まった。彼氏は、いることはいる。ただ、生活リズムが合わなくなったというか、進みたい方向が徐々に違ってきているのがわかり、そろそろ別の道を歩もうと思っているところなのだ。でも。
「あぁ、いるよ」
「そうか、良かった。実は俺も彼女がいてな、学生時代からの付き合いで。先月プロポーズしたんだ。今度の連休に、彼女の実家に挨拶に行くんだ」
研修初日から、仙子は気づいていた。文次郎の左手の薬指に、きらりと光るものがあることを。
「そうか、良かったじゃないか。仕事はほどほどにして、ちゃんと家に帰るんだぞ」
「わかってるさ」
「池で寝るなよ」
「この時代に眠れる池なんてないだろうよ」
二人はまたけらけらと笑い、文次郎は帰路についた。
「…まぁ、出会えただけ良しとすべきなのかな」
カフェで買ったコーヒーは、いつもよりほろ苦かった。