insurance hag fic is real 自ら足を踏み入れたバーの入り口で、迷い込んだみたいに立ち尽くしながら溜息を吐く。穏やかな音楽が流れる中、今日はついていない日だなぁと思いながら奥へ続く廊下を進めばこじんまりとしたカウンターとソファに囲まれたブースが目に入った。此処ならごちゃごちゃした路地裏からも目から血が出そうな位書類を見つめるあの仕事からも少し逃れられるーーそう、信じていたのだが。
「あの~お疲れのところ申し訳ないんですけど……」
バーカウンターに腰掛けようとして、堅い足音と一緒に近付いてくる声に何だか聞き覚えがあった。ダークブラウンのスーツの上着を肩にかけた上司を見かけてしまい、思わず心臓がどくりとする。仕事が終わってすぐに足を運んだけれど夜と呼ぶにはまだ若い時間に他のお客さんは見当たらない。恐らく、いや確かに自分を呼ぶ声だろうに、人違いであることを願ってしまう。
「お隣、お邪魔しても良いですか?」
微笑みかけるバーテンダーに快く挨拶するイリーナさんに(半ば反射的に)勿論です、と私は答えた。すぐ隣に座ってくるその仕草がとても滑らかで、そもそも返事を待っていたのか疑ってしまいそうだったけれど酔いがもう回ってきたのかもしれないことを考えて何も言わないことにした。
「この子はうちの新人でーーああ、何飲みますか?私はマルガリータで」
重なった氷に滴るピンク色の液体をぐびっと飲み干して同じものをお願いしますとバーテンダーに伝える。喉奥から胸の辺りが熱くなるけれど、最初から何杯か飲む予定だったから良い。
底を付いたロングカクテルをちらりと見てふぅん、と声を漏らしたイリーナさんは相変わらず何を考えているのか掴めない表情をしている。暗めの照明の中で柔らかそうなシャツが艶やかに見えた。
「こんな所でどうしたんですか?仕事終わりに一息つこうと?」
「そんなところです……イリーナさんこそ?」
「私は行きつけってところですかね」
イリーナさんが首を傾げると胸の飾りからぶら下がった部品同士がぶつかって衣擦れみたいな微かな音がする。行きつけと彼女は言ったけれど、本当か分からない上司の私生活に納得してしまったーー落ち着いた風格が後ろで流れている音楽と嚙み合った気がして。
内心を悟られないように何気ない会話をしている間に注文した飲み物が目の前に運ばれてくる。
「奢りですよ、昼間のことはあまり気にしないでくださいね」
「良いんですか?」
隣に座る彼女は何も言わずにグラスに口付けた。良いって言ったじゃないですかと言わんばかりの目で見てくる(ような気がする)ので私も冷たいグラスを持って淡い色の液体を体に流し込む。甘さを感じられるそれは渇きを潤してくれるような気がして、喉が渇いている訳でもないのにグラスの中はあっという間に減ってしまう。
「予想はしてなかったけど……まあ、安心しました。溜め込まないで発散するのが長続きするコツですから」
「お怪我は大丈夫なんですか?」
「保険適用内だったので、はい」
保険会社の社員が保険に入っているのはまあ、都市の事情を考えて当たり前だけど……目の前で怪我をした人が今ケロッとしているのは何だか不思議な光景だった。私達の仕事は報告に偽りがないか、条件に沿っているかだとかを確認することだけど社員もあの長くて複雑なプロセスを辿らないといけないのか。生憎入社して間もない私には答えが分からない疑問だった、けれど目の前の彼女が(色々あった後)無事で良かったと思いながらまたグラスに口付ける。けれどすぐに氷が当たって、もう飲み干してしまったと気付かされた。