すみれ色の空「うわぁ……」
日の沈みかけた空を見上げ、思わず零れたのは感嘆の声だった。ビルや木々の上部には、まだ昼の名残の淡い水色の空。その上に広がるのは菫色だった。懐かしさを感じさせる赤い夕焼け空なら子供の頃から何度も見た。だけどこんな風に胸が詰まって苦しくなるような空の色は初めて見た気がする。いや、見ていたとしても印象に残らなかっただけなのかもしれねぇけど。
スマホをその綺麗な空にかざしてカメラのシャッターを切った。
「もうっジュンくんてば、先にお店出ちゃうんだからっ!」
セレクトショップから出てきたおひいさんは、両手にショッパーを提げている。そちらに手を伸ばせば、むくれ顔のままショッパーは素直に手渡された。
「あんた遅せぇんすもん。もう日が暮れますよ。帰りましょう」
「うん。ジュンくん空を撮ってたの?」
「あんまりに綺麗な色なんで」
「ほんと……綺麗だね……」
おひいさんは菫色の瞳を細めると、風になびく髪を手で押さえながら空を見上げた。
――そうか、おひいさんの目の色に似てるんだ。
「……綺麗っすね……」
オレはショッパーを片手に纏めスマホを取り出す。おひいさんの横顔と空をフレームに収め、もう一度カメラのシャッターを押した。
色彩の移り変わりはあっという間で、人通りのない小道へ入った頃には、空は濃紺に塗り替えられてしまった。そうなると吹き付ける風が殊更寒く感じられる。
「ううっ寒いねっ! どうにかしてっジュンくん!!」
「うるせぇ……ジュンくんは魔法使いじゃねぇんで無理です。走って帰りますか? 身体あたたまりますよぉ?」
「あたたまった頃には寮だよね!」
おひいさんは不満げに頬を膨らまして立ち止まり、空を見上げた。
「うわぁ……」
さっきのオレと同じ感嘆の声が、しろい息とともにおひいさんから吐き出された。
「お月様が綺麗だね……!」
つられて見上げた夜空には、あと少しで完全な円を描く月がかかっている。
「ほんとだ。綺麗っすねぇ……」
「冬は寒いのが嫌だけれど、空気が澄んでいてお月様が綺麗に見えるのはいいね」
「……あーー、ええと今の『月が綺麗』に実は隠されてる風流な意味なんてのは――」
「無いね!」
「……ですよねぇ」
食い気味に返しやがった。期待してすんませんでしたねぇ。あんたが『月が綺麗』って言葉に、『愛してる』を忍ばせるなんてことするわけねぇか。最早有名すぎてオレでも知ってるくらいだし。
「ぼくはそんな回りくどいこと言わないね」
そうでしょうよ。それでもさ、あんたもオレのこと好きだって思ってくれたらいいのにって、ほんの少し期待しちまったって――
「ジュンくん好きだね!」
そう、そうやってふにゃってかわいく笑って『好きだね!』って言ってくれたら……。
「……へ、なんて?」
「もうっ、きみのお耳は飾りかね? ジュンくんはぼくのありがたい言葉を少しも漏らさず聴くべきだよね?」
おひいさんは腰に手を当ててまた頬を膨らます。
「きみのことがね、好きだよって言ってるんだね!」
「……お……ひいさんっ!」
込み上げる熱い気持ちをぶつけるみたいに、おひいさんを抱きしめていた。おひいさんの背中でショッパーがぐしゃりと音をたてる。
「好きです。……好きです」
「……うん」
二週間前、オレから放った一世一代の告白の返事は、本当に唐突に、しかも最高のカタチで腕の中に返ってきてくれた。
「……なんなんすか、いきなり、」
ロマンチックさなんて欠片もねぇけど、 どうだっていい。むしろおひいさんらしくていい。
「ジュンくんがあんまりに切なそうに夕方の空を見上げてたから、もう焦らすのはやめなきゃと思ったんだね」
「焦らしてたんすか!? ひでぇ……」
「ふふ、ぼくのことで頭いっぱいになったでしょう?」
「はぁ? 何言ってんだこの人」
そんなことしなくたって、こっちはもうずっとあんたのことで頭いっぱいなんすよ。これ以上なりようがないでしょうが。
身体を離しておひいさんの顔を見れば、予想外に赤くなっている。きっと空気の冷たさのせいだけじゃねえっすよね? 恨み言なんてどこか彼方へ行ってしまった。
「おひいさん好きです」
おひいさんは黙ったまま菫色の瞳を潤ませて、じっとオレを見つめた。オレはまた胸が詰まったように苦しい気持ちになって、何度だって『好きです』と言いたくなってしまう。
「あの……好きなんすよ……」
ねぇ、本当に分かってます?
オレがどれだけあんたのこと好きで、今どれだけ嬉しいか。なんて言えば伝わりますか?
「おひぃ……!? ん!?」
唐突に、おひいさんの唇がオレの唇を塞いだ。つまりキス、された……?
「待たせたお詫び……。赦して、ね?」
おひいさんは悪戯っぽく菫色の瞳を瞬かせ、首を傾けている。
「〜〜ったくもう、ほんっとあんたはっ!!」
にやけちまう表情を誤魔化すみたいに、頭をガシガシとかいた。
「……一回くらいじゃ赦せませんよぉ」
「あはははっ、じゃあ次はジュンくんからしてほしいね」
「うっす……!」
はぁぁぁ〜と長く息を吐き出して、おひいさんの肩を掴んだ。
「……よし、しますよ!」
「……え、なんかお顔怖いね!」
「緊張してるんです! 目つぶりゃあいいっしょ?」
おひいさんが瞼を閉じるか閉じないかのうちにはもう唇を重ねていた。ほんの短いキスだけど、言葉じゃ尽くせないオレの気持ちも少しは伝わってくれてたらいい。
「……ジュンくん……大好き」
しがみつくみたいに抱きついてくるおひいさんをギュッと抱きしめ返す。
「おひいさん……」
こんなのどうすればいいんだろ。もうこれ以上なんてないって思ってたんすけどねぇ。オレの頭の中と言わず身体中、あんたのことでいっぱいで、苦しいくらいですよ。