自鬼小説『あの日』 幼い頃から、父親が嫌いだった。家族を、母を、妹を傷付けるあのけたたましい音が私を内側から壊すので、布団をすっぽり被っては早く夢を見せてくれと懇願したものだ。お花畑の楽園、私が頻繁に見るのは鮮やかな花々に囲まれながら誰にも邪魔されず静かに読書をする夢。心の拠り所だった。唯一安らげる場所だったのに、日夜続く罵詈雑言と繰り返される暴力でいつしか夢を見る事は疎か、眠る事さえ出来なくなってしまった。息を吸い込む度に打たれた肋骨が軋んで激痛を伴う。目の前で髪を引っ掴まれ投げ飛ばされる妹に、ぷつん、何かが切れる音がして気付いたらその怪物の脚に爪を立てて自分の物とは思えない叫び声を上げていた。腹を蹴られ胃液をぶち撒けながら誓う、こいつを呪い殺してやるんだと。金切り声の頭痛で、脳裏にとある胡散臭い話が蘇る。昔読んだ本に記されていた、呪術師達が密かに暮らしているというその村は、表向きは平凡であって誰でも辿り着けるが深入りすると二度と戻れない呪われた場所、数多くの理解し難い超常現象が起こるそうだ。精神的にも肉体的にも疲弊していた私にとって、そんなのはどうでも良くって唯呪いが存在しているか否かが最も重要だった。
馬鹿げた噂話を頼りに血眼で探し回り、名前も知らない森の中を突き進む。薔薇の棘やら鋭利な柊の葉が肌を掠めて行く手を阻むけれど、父親のそれと比べたら痛みに愛しみさえ覚えてしまう程だ。もう三時間は歩いただろうか、足が思う様に動かなくなり意識が遠退いていく。
(あれ…………かしら……?)
急に道が開けて鬱蒼とした木々に囲まれる小さな村が現れた。確証は持てないけれど、噂通りの歪で陰陰たる村だ、間違いないだろう。外界から隔絶され忘れ去られたかの様な寂しさを感じさせるその土地へと一歩足を踏み入れれば湿り気を帯びた風が肌を撫でて、ぞくりと背筋を震わせる。村人らしき者は誰一人居らず途方に暮れて当て所なく彷徨っていた時だった。奥の辺りで何か光った様な、人工的な明かりではなくて太陽に透かした硝子玉を思わせる煌めき。罠かもしれないなんて考えは微塵も浮かばず、この目で直に見たいという願望だけが鉛の如く重い足を突き動かす。やがて瞳に飛び込んで来る人間離れした厳かな神秘に息を呑む。
「なんて……美しいの……」
池の畔に佇むそれはまさに釈迦如来を連想させ神々しく、眼球に埋め込まれた石が木漏れ日に反射して輝きを増す。
「おや、絡繰に興味があるのかい?」
圧倒され立ち尽くしていたら、背後から声を掛けられた。しまった油断した、咄嗟に身構え振り返ると若い男がにこやかな笑みを浮かべて此方へやって来る。ウェーブ掛かった長髪を後ろでひと纏めにし、村特有の服装なのだろうか特徴的な和服を身に纏っている。よく見れば私と同じ緑色を瞳に宿していて、親近感が湧いてしまう。
「見ない顔だね、観光……というわけでも無さそうだし、迷い込んだのかな?」
「ええ、森の中を歩いていたら迷ってしまって……興味本位で動くものじゃないわね。それより、絡繰って?」
察しは付いているだろうに、しかし此処で目的を話して易々と呪いについて話してくれそうもないから適当に躱し話を逸らす。
「あれは絡繰人形なんだ。綺麗なもんだろう? 僕達は少し変わった仕事をしていてね、村の中でも数少ない絡繰技師で通っている」
この時代に絡繰技師、確かに異様だった。呪物として使うのか、はたまた別の意味合いが隠されているのか、どちらにしても詮索は禁物。でも……
「あの作品は貴方が作った物なのかしら?」
どうしても心を惹きつけてやまない絡繰が気になって仕方がなく、気付けば虜だった。
「いいや、僕じゃない。それは──」
「私の作品よ。気に入って頂けたかしら?」
露華の瑞々しい声音が聞こえ、男の後ろに広がる暗闇に目を凝らす。太陽に照らされて全容が明るみになっていく。淡雪の様に白い肌と弾けんばかりの真っ赤な薔薇色の唇。黒髪のクラゲヘアは眩く艶めきながら藤の瞳をより一層引き立てていた。くノ一を連想させるタイトな蘇芳の和服から肩を覗かせて此方へ近寄ってくるものだから、正直目のやり場に困ってしまう。
「ええ、とても。遠目からでも釘付けだったの。まさか絡繰なんてびっくりよ」
「まあ嬉しい! 最近は村の衰退で見てくれる人がこれっぽっちも居なくてね、こうやって生の声が聞けるのは有り難いわ。私は、水無月 玲。よろしく」
“あきら”だなんて珍しい、けれど彼女の可憐でいて何処か芯の強さを感じさせる雰囲気にぴったりだと思った。
「自己紹介、まだだったね。陽久だよ。折角だからゆっくりしていって」
「ヒナギクよ、よろしくね。貴方達に聞きたい事は山程あるけれど、先ずはこの村の現状について聞きたいわ。歩いていて不自然なくらい全然住人が居なかった、まさか二人だけなんて……そんなこと無いわよね?」
探りを入れる奴だと思われただろうか、でも誰しもが疑問に思う点を上げたつもりだ。深夜じゃあるまいし、人っ子一人見掛けないのはおかしい。幾つか建ち並ぶ家屋はどれも空き家では無さそうだったから何人かすれ違っても良い筈なのだ。
「気になってしまうのも仕方ないか……。こんな所で立ち話もなんだ、私達の家へおいで。もうすっかり日が暮れ始めているし、今夜は泊まっていくと良い」
「……え?」
辺りを見回すと、先程の絡繰が放つ輝きを物悲しい夕暮れが溶かしている所だった。時間の流れが普段とはまるで異なっていて、夜の訪れを待ち侘びていたかの如くガラリと空気が濁っていく。気味が悪い。
「大丈夫、取って食ったりなんかしないさ。このまま此処に居ても危ないだろう?」
「そうそう、熊にでも襲われたら大変よ?」
確かに行く当てなど無い私にとっては断る理由もなく、言われるが儘に話が纏まってしまい出会ったばかりの二人の家へと半ば強制的に案内されていた。木造と漆喰を織り合わせた独創的な家、新しさと古めかしさ、正統派でいて何処か外れた部分も併せ持つその家は村の中でも異質だった。
「お上がり」
ゆるり長髪を揺らす陽久に手招かれ中へ入ると、木の甘い匂いがして強張っていた心もすっと落ち着き安心感へと変わっていく。
「お邪魔します……」
「お客さんなんて久しぶりだから、張り切っちゃうわね! じゃあ、まず服脱いで?」
「は?」
突然放たれた言葉に硬直する。何が“取って食ったりしない”だ、可愛い顔してひん剥く気満々じゃないか。
「あっはは! 玲、きちんと説明しないと可哀想だろう? 呆気に取られて放心してるよ」
そこまで笑わなくても良いのに、身体を抱えて震えてる陽久に羞恥心が込み上げ伏せた顔を上げるのが気まずい。
「あら、ごめんなさいね? 違うのよ、貴女お洋服が汚れてるから洗ってあげようと思って。私のを貸してあげるから、着替えてちょうだい」
言われてみれば、此処へ来る途中に草木やら土埃やらで真っ黒になっていたらしい、無我夢中で歩いていたから気が付かなかった。
「ありがとう、玲さん。でも自分で洗うし大丈夫」
「玲でいいわ。私、そういうの気にしないの。お互い歳も近そうだし、呼び捨てにしましょ? それと、あんまり遠慮しないで休んでてね。 纏めてやっちゃうだけだから。今お着替え引っ張り出してくるから待ってて」
気立て良く世話を焼いてくれる彼女に申し訳無さを感じつつ、居間の隅で小さくなり畳をぼんやりと眺める。実家はフローリングだったこともあり、足裏から親指をきゅっとすると伝わって来る日本家屋の心地良さに表情が緩む。
「お待たせー! 似合いそうなの何着か持って来たから、合わせてみましょ」
うきうきと楽しそうな玲は両手に山ほど抱えた服達を畳へ広げ始めた。
「ありがとう。……って何よこれ!?」
「え? サイズ合わなかった? 背丈一緒くらいだから着れそうだと思ったんだけどなー」
「違う違う違う! そうじゃなくて、何この露出度高い服……!!」
どれもこれも背中や足が大胆に見えそうな際どい物しかなく、酷いやつなんかおへそが丸見えで風邪を引きそうだ。
「えー、そうかしら? 絶対似合うと思ったんだけどなあ。ほらこれなんかヒナギクにぴったり♡」
「っ……! ヒラヒラして隙間から色々見えちゃいそうじゃない……」
どうやら玲は相当な洒落者らしい、手渡された服は丈こそ長いがスリットが深々と入っており、風が吹いたら大惨事になるのは明らかでとても着こなせそうにない。
「平気平気、その内慣れちゃうわよ。別に外に出る訳じゃないんだし良いでしょう?」
言い包められながら渋々ボタンを外して洗濯に預け、借りたそれを身に纏う。和装にチャイナ服の要素が入り交じったデザインは普段の自分と掛け離れていて気恥ずかしい。
「わあー! 似合う! 私の目に曇りは無かったわね」
「やっ……やっぱり無理! 他に控えめなやつ無いの!?」
「あとはもっと布の面積狭めになるけど? それにこんな良い身体してるんだから、出すとこ出してかないと勿体無いわよ!」
「ひゃあっ!」
パァンッと良い音がしてお尻を叩かれ、変な悲鳴を上げてしまった。こんなに距離を詰められても不思議と嫌な気はせず、いつ振りかの友情めいた擽ったさが心に灯って奥歯が浮く。
「このお洋服、よく見るとお花と葉っぱの刺繍が美しいわね」
至る所に複雑な花と葉の刺繍が施されていて、一つ一つ作り込まれた繊細な技術にため息が漏れる。
「それはこの村特有の飾りなの。私が小さい時からあるわ。絡繰もそうだけど、代々受け継がれたものが多いのよね」
細やかな花々を指でなぞっていると、恰も芽吹いて茎をするする伸ばしそうな躍動感が感じられた。
コンコンと居間の戸を叩く音がして、陽久の声がする。
「着替えは済んだかい? もうすぐ夕餉の時間だよ」
机いっぱいに並べられたご馳走を前に、喉が鳴る。気を張っていた所為か、朝食を食べた切り腹に何一つ入れていない事に気付き、今更ながら腹の虫が騒ぎ出す。一度鳴ってしまえば際限なく続くもので、止めようにも止まらず居た堪れなくなり熱った顔を手で覆う。
「すみません……」
「ふふっ、可愛い。じゃあもう食べちゃいましょ」
久方振りの“いただきます”をして、手を付けようと箸を持ち上げた時、未だ素性の知れない仲であるのをふっと思い出し口を噤む。二人とも私の心情を察知し、
「ちょっと先に貰っちゃうわね」
「殆どの料理は大皿にしたつもりだけど、心配なら残して良いからね、食べれる物だけ食べなさい」
最大限の心遣いをしてくれる。
そんな優しい人達が、果たして毒など盛るだろうか。二人の気持ちに誠意をもって応えなければ。
揚げたての天ぷらに恐る恐る口を付ける。
「…………美味しい!」
サクサクとした食感と中から現れる新鮮な野菜が堪らない。天ぷらという概念を覆すくらい美味な逸品に早くも手が伸びていた。
「そこまで喜んでくれて、作った甲斐があるよ。これはうちで採れた山菜なんだ、どれも腕に縒りをかけてついつい沢山作り過ぎてしまった。お客さんなんて普段来ないからね」
「陽久は料理上手なのよ、お願いすれば大抵の物は作れるわ。このお蕎麦も、手打ちだから絶品よ」
蕎麦……私はその食べ物に余り良い思い出がない。大晦日になると父親に無理くり打たされていて、今年のはコシが足りないだとか風味がどうだとか散々な目に遭ってきたのだ。そのくせ自分では打たず、私の手が粉と水でぼろぼろになろうともお構い無しにやり直せと命令する。彼奴の顔を踏み躙るかの様に蕎麦玉を足で捏ね続けた日々を忘れはしない。
実際に打っていたからこそ分かる、艶感といい麺の細さといい相当な練習を重ねなければ、こんな風には仕上がらないのだ。品良く盛られているのを箸で解いて、先ずは何も付けずに啜る。今まで食べてきた蕎麦の中で間違いなく一番美味しい。厭気が差していた思い出が塗り替えられて、かけがえのない穏やかな記憶へと変わってゆくのに自然と涙が溢れていた。
「えっ、ヒナギク大丈夫!? ちょっと陽久! 山葵でもこっそり入れたの!?」
「いやいや、そんな事する訳ないだろう? 何か苦手な物でもあったかい?」
慌てふためく二人に首を振りつつ、粗暴な父親の事、その父親をどうにかしたくて藁にも縋る思いで村を訪れた事、蕎麦に対しては愛情に感化されて泣いていると打ち明けた。
「大変だったね、辛いだろうによく話してくれた。僕達もそれに報いなきゃね。この村で夜な夜な行われる儀式の事。君が此処に来る途中、誰とも会わなかったと言っていたね? それは余所者を排除する村特有の傾向も関係しているけれど、夜から朝方に掛けて行われる行事に起因する。人間蠱毒、時代が進むにつれ呪術への信仰が薄れ、呪詛の力が弱まる事を恐れた村人共が始めた忌々しい儀式。一定の呪術師を隔絶された空間、謂わば窓一つ無い監獄へと閉じ込めて殺し合わせるんだ。そして、最後の生き残りこそが強大な力を持ち合わせた呪術師ってわけさ。愚かだろう? 不定期に執り行われるから、いつ自分の番がやって来るのか分からない。だから内心皆震えているのさ、今日が最期かもしれないと」
予想を遥かに超える俄には信じ難い内容に、唖然とする。父親を呪い殺すどころの騒ぎじゃない、同族同士で殺し合わせるなんて。身勝手な話に怒りが湧いてきて、つい口走ってしまった。
「そんな馬鹿げた村、逃げた方が良いじゃない……! 貴方達の技術があれば生活に困ることは無いでしょう?」
「出来ないのよ、其れが。呪術は他言厳禁。逃げようものなら村の長によって簡単に呪い殺されるわ」
苦しげに言葉を紡ぐ彼女をどうにか助け出したくて、唇を噛む。考えても考えても、答えなんて出なくて自分の無力さに絶望する。
「……暗い空気になってしまったね。ヒナギク、僕達を気遣ってくれてありがとう。その気持ちだけで充分さ。気が向いたら、また遊びに来ておくれ」
死と隣り合わせの状況下、辛いだろうに気持ちをひた隠そうとする様が見て取れ、泣いていた目を擦りながら答えた。
「ええ、必ずまた来るわ。私に出来る事があれば何でも言ってちょうだいね?」
「そうだなあ、今君にして欲しいのは目の前の手塩にかけて作ったご飯を食べてもらうことかな」
そう言えば、話に夢中で箸が止まっていた。昔から食べる事が大好きだった私は、ありったけの笑顔で気合を入れた。
「もちろん! 全部食べちゃうわ!」
夕餉の時間も終わり、風呂を済ませて畳の上へと布団を敷く。
「いやー、まさか本当に全部平らげちゃうなんてね。うっふふふ! 最後の方見てて清々しかったわよ」
腹を抱えて笑い崩れる玲に、むっとしながら反論する。
「だって、とっても美味しかったんだもの……。そんな笑わないでよ、もう!」
「おやおや、嬉しいなあ。ペロリと完食してくれた時は感動すら覚えたよ。僕は適当に床で寝るから布団は使っておくれ」
「あら別にいいわよ、私はヒナギクと一緒に寝るから。ねー! ヒナギク!」
「わわ!」
背後から抱きつかれ、そのまま布団の上へと倒れ込む。風呂上がりの石鹸の良い香りがして、何故だか心臓がドキドキと煩い。
(それに……背中に当たってない? 柔らかくておっきい……じゃない! 無防備ね、ほんと)
「はあ……まったく、お人形じゃないんだから程々にしてあげなさい、玲」
「はーい、言われなくても分かってるわ」
三の口で文句を垂れる様子が子供っぽくて可愛らしく、抱き締めてくる細腕に手を重ねてぎゅっとする。人肌のしっとりと柔らかい感触がこの上なく幸福にさせてくれた。
陽久が部屋の明かりを消して、呆れながらも朗らかに微笑む。
「おやすみ」
一日の終わりを告げる言葉は切なく響いて、こんなに終わって欲しくない日は久々だった。
「じゃあ、私達も寝ましょうか」
布団を半分こして横たわる。こういう時、どんな姿勢で寝れば良いのだろう。仰向けから動けないままだ。横目に見遣ると、どうやら彼女も同じらしい、仰向けで次を見計らっていた。壁に掛かっている絡繰時計の秒針がやけに耳障りで仕方ない。堂々巡りも嫌だから思い切って横向きになり、心の奥底にあった想いを掬い取って唇に乗せる。
「ねえ、やっぱりこの村おかしいわよ。私と一緒に逃げましょう? 村の長ってそんなに強いの?」
借りた寝巻きから玲の匂いがして、守りたい気持ちが深く肺まで染み渡っていく。やがてお互い至近距離の眼差しを絡めて、何方ともなく震える手を白いシーツの上へ押さえつける。これ以上、膨らまぬよう澱まぬように。
「私は、行けない」
その言葉は、しきたりだとか長の力が強大だとか、そんな事が理由では無いのは明らかだった。
気づきたくなかった、本当は。
気づいていて、必死で見ないふりをしていた。
彼女が時折見せる、彼への視線を。
どうしようもないくらい、深い愛を。
私は、彼にはなれない。
彼と同じこの緑色の瞳が憎い。
無情にも冷たい現実は、違いを突きつけ引き裂いていく。
「そっか。ごめんね」
暫くの沈黙の後、背中合わせに床に就く。ひとしきり待って寝息を立て始めたのを確認し、彼女の方へ向き直り縮こまった背中を眺める。
──奪ってしまいたいな。このまま全てを。
滞留して渦巻くこの感情が、暴れ出してしまわぬうちに。きっと歯止めが効かなくなる。
せめて、少しだけ。
艶やかな黒髪を一掬い、手繰り寄せてはキスを落とす。
涙が伝い、輝きを増していく黒金剛石に只々見惚れていた。
「おはよう、二人共。もうご飯出来てるよ」
「おはようございます……」
「うぅーん、おはよ……もう朝?」
布団を畳んで欠伸をしながら朝餉の準備を手伝う。これまた豪勢で理想的な献立だ。
「うわあぁ……! 美味しそう」
言ったそばからお腹が鳴り出して止まらない。もうこの際恥じらいも薄れてきた。
「いただきます」
一汁三菜、バランスの良い朝食にどれから食べるか迷ってしまう。
「そう言えば、玲。誕生日おめでとう」
「あら! 覚えててくれたの?」
突然の情報に、肩が跳ね眠気が一気に吹っ飛んだ。
「ええ!? 今日、お誕生日なの? おめでとう! また今度来た時にお祝いさせてちょうだい」
「いいのよそんな。でもありがとう! この歳になっても嬉しいものね」
薔薇色に頬を染めながら嬉しそうに笑うのを眺めていると、こちらまで幸せな気持ちになる。こんな和やかな生活が、ずっと続いていけば良いとその時は思っていた。
洗ってもらった服に着替え、身支度を整える。少し寂しいが、長居は禁物だ。此処への道のりはもう分かったのだし、また遊びに来れば良い。
「それじゃあ私、もう行くわね。本当にお世話になりました」
玄関先で、深々とお辞儀をして挨拶を交わす。
「またおいで。今度はもっとたくさん食事を用意して待っているよ」
「ヒナギクー! 既に寂しくなっちゃってるから絶対会いに来てよね!」
大好きな二人に見送られながら、軽い足取りで家路に就いた。
相変わらず怒号が鳴り響く毎日だったけれど、彼女に会いに行く事だけが唯一の希望となって私を奮い立たせてくれていた。
その日の朝も、父親が怒鳴り散らす前にと朝刊を取りに郵便受けへ小走りで向かい、何の気無しに抱えた新聞の見出しを見遣る。
【呪術師達の村、壊滅】
全身から血の気が引いていくのが分かった。前後左右の平衡感覚、支えを失った身体は無論立ってなど居られず、暗く冷たい奈落の底へと膝から崩れ落ち呼吸すら儘ならない。
読めば読む程、あの村と合致していて信じ難いけれど疑いようの無い事実、人間蠱毒という言葉が嫌でも現実へ連れ戻す。六月一日、玲の誕生日に人間蠱毒が行われ、村が一夜にして壊滅。生存者は未だ一人も見つかっていないと記されていた。
あの日だけが、私の救いだった。
あの日から、私は生きようと思えた。
空っぽだ、もう私は。