自鬼小説『重なり』 いつか崩れていくとしても、重なり合う、僅かに開いた隙間から。
「ねえ」
いつもの声が聞こえて振り返る。
私は相変わらず霊園で出会した餌を苗床にして、のらりくらり喰い繋いでいた。自分の狩場でも無い癖に。
「あら、魘夢さん。私の元にいらっしゃるという事は、御身体が寂しいのかしら?」
「…………お前は本当に頭の中がお花畑で愚かだねぇ。違うよ。今日はお願いがあって此処に来たんだ」
普段ならば、特訓と称して媾い合う頃だ。
私は他の鬼とは少し事情が違っている。鬼の長であり全ての始まり、“あの方”から直々に血を戴いてはいない。“あの方”の寵を受ける鬼は特別に配下を作る事を許されており、配下にされた者は術や容貌、仕草や考え方に至るまで主であるその鬼に与えられる事となる。上弦の鬼であれば自身の血を一時的に“あの方”の血へと昇華出来るが、それ以外の階級の低い鬼は不可能な為、人間に直接そのまま流し込むのだ。それは言ってしまえば、“あの方”の血が極端に薄く支配される範囲もごく僅か、それ故に主である鬼は配下に対して自身の嗜好を一定量植え付ける事が出来る。但し、鬼としての力も脆弱だから各々特訓が必要なのである。
つまり私の場合、魘夢さんの血液が大半を占めていて血鬼術や体型、お洋服や笑い方、中の締め方さえも彼の思うままという事。だから、ほら、また飽きずに私の元へやって来る。
「お願い? 珍しい……」
断れないと知っていて、わざと意思を伺っているのだろう。私の心は、何処までが本当の私なのか。実際の所、思想は殆どが作り変えられて、残っているのは僅かばかりの自尊心だけだというのに。
「ある寺の老いぼれた住職を始末して欲しい。俺では直ぐに勘付かれて近づけない。どうやら、昼間に鬼の隠れ蓑を暴いては見せしめに日で炙ってるらしいんだよねぇ。周りの連中も触発されて鬼探しに躍起になっている様だし、正直鬱陶しいんだ。お前ならまだ鬼になって間もないから、気付かれる心配も無いでしょう?」
「けれど、力が見合わないのではないかしら。唯の老いぼれとは訳が違うんでしょう?」
そんな得体の知れない住職、聞いた事もない。ましてや、鬼の弱点を知っている辺り厄介な相手に違いない。
「そう、だからこそ共闘で寺を襲撃するんだよ。先ずは此処に向かって欲しい」
恐ろしいほど真っ白な指先が私の額に触れた瞬間、目的地までの道程が脳裏に流れ込む。
この霊園とは違ってごちゃごちゃと建物が犇めき合い、辿り着くまでに疲れ果ててしまいそうだ。
「そのティーサロンに“あの方”がお作りになった配下が潜んでいる。元々お前は殆どの血が俺で出来ているから共喰いの縛りは無いけれど、その配下も“あの方”の手元に置かれている鬼だから融通が利く様に縛りからは外されているそうだよ。襲撃前に顔合わせして来ると良い」
「……どうしてそこまでして下さるんですか? 共闘なら、魘夢さんが作った鬼を組ませれば早いでしょうに」
至極当然な疑問だった。確かに力の差こそあるだろうが、この手の作戦には入念な彼の事だ、何かしら対策を練って挑めばそう難しい相手でも無いだろうに。絶対に裏がある。私は知っている、月明かりに揺れて艶めく胆礬色の瞳が持つ本当の温度を、やけに形の整った青白い口元に湛えた残虐性を。
「…………勘が良いなあ……。これは“あの方”の命でもあるんだ。主を違える配下同士が関わりを持ったらどう影響を及ぼすのか、御覧になりたいそうだよ。もちろん、お前は引き受けるでしょう?」
「成る程、それで貴方も昇格へ一歩近づけると…………ぐっ!?」
こうなるとは思っていた。それでも探りを止めなかったのは、心の奥底で望んでいたからなのか、目の前の彼がそうさせるのか。首元を思い切り掴まれ、上手く息が出来ない。苦しい。切迫感に身悶えながらも、額に浮き出る血管の美しさに見惚れていた。
意識がぼんやりと遠退いていく。最後に見た景色、無表情な顔は微かな熱量を秘めて冷たく私を遇らう。やがて訪れる土の感触に何故だか安堵して、そっと目を閉じた。
暫くして意識を取り戻し、重い身体を持ち上げる。霊園のベンチに横たわっていたらしい。
(わざわざ運んで下さったのかしら……? 服から仄かに魘夢さんの匂いがする)
鼻腔を擽る爽やかで何処かミステリアスな香りは、もう何度と嗅いでいるけれど一向に慣れない。毎夜行われる交わりの中で一番匂い立つものだから、自ずと身体の奥が熱くなってしまう。
先程流し込まれた記憶の断片を手繰り寄せ、立ち上がり大地を踏む。脳裏に浮かぶ風景を視界と照らし合わせながら暗闇の中、指定の場所へと歩みを進めた。
丑三つ時、小洒落た建物を潜り抜け大通りから一歩外れた所にそのティーサロンはあった。ひっそりと佇む西洋の面影を色濃く残した建築物。黒壁が一際異彩を放ち、前を通りすがれば必ず目に留まりそうだ。
深夜はバータイムらしく、店の前に置かれた看板には色とりどりのカクテルの写真が貼り付けられ、煌びやかに二階入り口へと誘う。この時間だから当たり前だけれど、静まり返った街にほんのりと明かりが灯る様はどこか奇怪な感じがして心が浮き足立つ。緊張からか、階段を登るつま先がいちいち奥に当たって蹴躓きながらもドアの前へと辿り着いた。
──豪奢な金属のドアノブを捻れば、もう、そこに。
「いらっしゃいませ。一名様でしょうか?」
流れるような御辞儀と共にスレンダーな店員が声を掛けて来た。右半分は黒髪、左半分は金髪のクラゲヘアというやつだろうか。艶やかな髪は藤の花を想わせる瞳を一層際立たせている。
「ええ」
「では、お席へご案内致します。どうぞ此方へ」
足取り軽やかに、ふわりとスカートが揺れる様は可憐に咲き誇る薔薇の花。
給仕姿を模した膝丈の制服は、黒を基調としてシックな印象が良く似合っていた。
席へ着くなりメニューを手渡されるが、正直吐き気がして仕方がない。ページを捲るのも憚られるから、一番最初に目に付いた季節のパフェを渋々オーダーした。
「かしこまりました。お飲み物は如何致しましょう?」
(ウッ……飲み物……。そうか、考えもしなかった……)
「何か、おすすめはあるのかしら?」
「そうですね……」
鮮やかな赤い口元に笑みを浮かべながら、最後のページ、アルコールがずらりと並ぶ其処を開き人差し指で赤ワインの銘柄をなぞる。
「此方なんて如何でしょう? フルーティーな甘さがパフェとも良く合うかと思います。今のお時間はバータイムでして、アルコールメインでは御座いますが、モクテルもご用意しておりますのでお気軽にお尋ね下さい」
「じゃあ、お勧め頂いたそちらを」
いっそ、ワインが稀血だったら良いのにと喉奥の一歩手前まで出掛かって、咄嗟に言葉を押し殺す。余計に気分が悪くなって来て、遠くの景色でも眺めようと一番奥、窓際のテーブル席へ視線を向けると、クラシカルで上品な店内には私の他に客が数名カクテルグラスを傾けていた。
観音開きの古めかしい窓がほんの僅かに開いており、夜風が鼻を擽る。何か妙だ。本能が、私を作り上げている膨大な数の細胞一つ一つがこの先の不穏な気配を察知していた。それは主である魘夢さんがそうさせるのか、ほんの僅かに残された私自身の物なのか、正直よく分からない。とにかく今は感覚を研ぎ澄ませ。
(来る……!)
── 血鬼術。『蠱毒ノ箱庭』
「さあ、踊りなさい。力尽きるまで……!」
直感でテーブルの下へ滑り込むと同時に悍ましい程の轟音と阿鼻叫喚。グラスが割れ、客が次々と倒れては苦しそうに身動いで喧しい。いや、一番煩いのは鳴り止みそうにないこの轟音。一体何だと言うのか、この音の正体は。
「あらぁ……? 仕留め損なった? おかしいわね、この異空間で逃げ場なんて無い筈なのに」
「っ……!」
テーブル越しに見上げると、先程の店員がさも愉快と言わんばかりの笑みで佇んでいた。よく見ると、格好が違う。落ち着いた給仕姿の面影は無く、シルエットの美しい黒服に身を包み、頭には小洒落た帽子を乗せている。スリットの大きく入ったタイトスカートからチラリと覗く足は妖艶そのものだった。此処で私は漸く悟る、目の前の彼女が例の鬼だと。何故なら両の足で立ち尽くしていたからだ、辺り一面に広がる惨禍に。床にへばり付く無数の肉片に黒い点の様な物が群がっていて、良く見るとそれは蟲だった。蛇、百足、蚰蜒、蛙、飛蛾、蠍、蜥蜴……途方も無い其れは夥しく這い回り客の命を喰い荒らしている。すっかり人の形を持たなくなって、消えてしまえば後は共喰いだ。羽根が手折られる音、甲羅が噛み切られ砕け散る音、耳を塞ぎたくなる様な蛇の威嚇音……。轟音の正体は言わずもがな此れだろう。
「術は効かないと思うわ。だって鬼の殺し合いなんて無益だもの」
「嗚呼、あの方が仰っていた鬼は貴女だったのね。私は狂蠱。随分とまあ弱そうな鬼だこと」
相当自信があるのか舐めた口を利く。その辺の蟲の様に共喰いを始めないのは、お互い特殊な生まれ故だと推測した。
「ヒナギクよ。よろしくね? これ、お返しするわ」
足元から這い上がって来た百足をひとつまみ、掌に乗せて目の前の彼女へ人差し指でピンと弾く。
「キャアアァアアアアっ!?!? 何するのよ!! 下弦風情に作られたおもちゃの分際で……!! あの方に言い付けるわよ!」
「虫、嫌いなの? 難儀ね……切っても切り離せない存在だろうに」
名前にまで虫という文字が入っているのに触れる事すら一切拒絶するあの態度。内心可笑しくって吹き出してしまいそうだった。きっと、自分の手は汚さず獲物を仕留めるタチなのだろう、行動からも衣装からもその性格が滲み出ている。かく言う私だって、花を使役して獲物を狩るのだから似た様なものか。考えてみると私と重なる箇所が幾つかある事に気付く。血鬼術の種類、性別、見た目の年齢、術と深く結び付く名前、そして生まれ方……。実際に訊ねてみないと分からない事は多いけれど、それはゆっくり引き出せば良い。
「ねえ、狂蠱さん」
「狂蠱でいいわ。私、そういうの気にしないの」
「じゃあ、狂蠱。人を狩る時は蟲を使う様だけど、今はもう跡形も無いみたいね。貴女の養分になってるのかしら?」
「まあそんなとこね。臓物とか直に食べるの絶対無理だもの」
窓際に手を翳したかと思うや否や、うじゃうじゃと床を這い蹲っていた蟲達が一斉に窓の隙間から外へ出て行った。残った肉片の生々しい香りが鼻腔を擽る。
(やっぱりそうか……汚れ仕事は嫌いで遠隔操作が得意っと)
今後共闘をするならば、特性を知っておかなければならない。それは彼女も理解しているようで、何を聞いてもすんなり答えてくれた。鬼になった経緯や趣味の帽子収集までもご丁寧に教えてくれて、どうしても嫌な気がしない。
「ねえ、私の事ばっかり疲れちゃったわ。奥のソファにでも座って貴女の事も聞かせてちょうだい?」
気乗りはしないが仕方ない、此処まで探りを入れたのだから当然私の話もしなければ割に合わないだろう。幸いにも過去の記憶は残っているし、鬼にされた経緯も普段の狩りについても一通り話せる。赤いベルベットのソファに腰掛けると、思いの外柔らかく沈み込んで心地良かった。薄暗い店内、隣に座る彼女のオッドアイが鈍く澱む黒と辺りに漂う闇では隠し切れない輝きを放つ金とで相反するコントラストが美しい。擬態時の紫水晶とは違うその黒金剛石の瞳に見入られると心まで吸い取られそうな、この世の理を全て掌握した神秘的で直視する事さえ罪である様な、そんな気持ちにさせられる。きちんと目を見て話したいのに、斜め前のテーブルに映る照明の影をじっと眺めては口を噤む。
「緊張しているのかしら?」
彼女の細くしなやかな指先が私の右耳の丁度後ろに触れて、そのまま中に入り込んでは髪を梳く。手首が揺れる度に匂い立つ甘く気品漂う香水と心地良さに危うく微睡んでしまいそうだ。耳に髪を掛けてくれたところで、そっと右手を重ねて動きを止める。そのまま下のソファへ下ろすと感触を確かめ合いながら指と指の間、交互に絡ませて繋がりを求める。彼女を真っ直ぐに見遣り、自分自身の事を話し始めた。
「……っ! ねえ、貴女……! よく恥ずかしげも無くそんな話出来るわね……」
「え? 魘夢さんとの交わりの事? もっと具体的に教えてあげても良いわよ。中が締まる度に見せる反応とか絶頂が近づく程に覗かせる野生じみた雄の顔とか」
「もういい! もう充分よ!」
揶揄い過ぎただろうか。頬を真っ赤な薔薇色に染めて必死に言葉を遮って来るその反応が、先程の妖艶な雰囲気とは打って変わって何とも愛らしい。もっと知りたい、もっと感じ取りたい、彼女の全てを。
── 血鬼術。『花喰み』
「頭にお花、咲かせましょう?」
両の手で、彼女の薔薇を包み込む。不安に揺れるその瞳が嗜虐心を煽って今すぐにでも散らしてやりたいのをグッと抑えながら、ゆっくりと唇を寄せ合う。拒みはしない様子から、秘められた欲望を身体の奥に感じて早く繋がってしまいたいと理性と本能の間で擦り切れて粉々になりそうだった。
先ずは、そっと口づけ。
瑞々しく、弾力のあるその果実を味わい尽くす為に、目一杯唇を開いて貪り食む。
「んっ……」
男のそれとは全く違う、清く滑らかで柔い感触と赤い口紅の味。蕩けながら舌と舌が重なり合う、僅かに開いた隙間から。快感を確かめるように、恐る恐る舌先で触れたのを合図に何方からともなく奥深くへ捻じ込んで圧迫感に背筋を震わす。気持ち良い。ねっとりと出し入れを繰り返す度に、二人分の唾液が泡立って口の端から漏れ伝うのを重ねた手の甲で感じた。
(流石に鬼から花は咲かないわね……)
辺り一面、青々とした茎が生い茂り始めては先の方に鮮やかな花を咲かせる。普段よりも随分と密度が高いのは、きっと彼女の所為だろう。極彩色の楽園とはよく言ったもので、実際には相手の生気を苗床にして狂い咲いた徒花だ。つまり鬼である彼女の秘めたる力こそがこの景色を作り上げて私達をカオスへと導いている。咽せ返る程の強烈で無尽蔵な芳香に居ても立っても居られず身を捩って振り解く。このままでは駄目だ、術ごと呑まれて酩酊してしまいそうな、自分の毒に心酔しそうな、そんな気がして重ねた掌を一枚剥がし咄嗟に立ち上がる。ソファの背凭れ、目の前の壁は鏡張りになっていて、だらしなく乱れた自分の顔が嫌でも視界に入ってどうしようもない。
「あなたは……一体どんな味がするのかしら」
私の耳元で囁いた。いつの間に背後に迫っていたのだろう。彼女の濡れた唇が妖しく光って、そのまま下へ、首筋へ。見せつける様に舐め上げては、時折鏡越しに視線を合わせてほくそ笑む。冷たい舌先が急所を益々ひんやりとさせながら大きな吐息が髪に触れ、甘い痺れが止まらない。
「んぅっ……あっ……!」
立っているのがやっとだと言うのに、跡がつく程吸い上げたかと思えば綿毛を吹く時の軟く生温い風を当てて愛撫する。
「あらあら、“ここ”が弱いの? ふふっ、可愛いわね。もっと虐めたくなっちゃう……!」
「ひゃっ!?」
力の入らない身体に追い討ちをかけるが如く、一瞬で押し倒されソファに逆戻りだ。心なしか辺りの花が枯れ始めて茶色く変色している。いけない。片膝を私の傍に乗せ、嬉々として顎を引き寄せてくる薔薇色の爪を一枚ずつ剥いで花弁の中の雌蕊まで握り潰してやりたい。二秒後のキスで、全部全部壊したい。
「ふっ…………きょう……こ……」
「はぁっ……なぁに? ヒナギク」
舌が重なり合う度にぴちゃぴちゃと妄りな音が鼓膜を犯し、時折触れる牙の痛みや出血さえもお構いなしに咥内を蹂躙する。お互いの血の味を堪能していた時だった、異変が起きたのは。
「なんだか変だわ……感じない? 狂蠱」
「確かに、妙ね。循環して一つに生まれ変わる感覚……特訓すれば強固な術になりそうね」
未だかつてない速度で咲き乱れる花々と、其れを囲う様に伸び続ける荊や柊に私達までもが呑み込まれてしまいそうで、制御が効かない。これはトドメを刺さないと収まらないだろう。彼女の首に手を這わせると、意図に気付いて私の頸動脈を流麗な親指が圧迫する。行き摩りの地獄へご招待。鬼は簡単には死ねないから、それを利用して終わらせる他なかった。見つめ合う視線はお揃いの干涸びた温度と静寂で満ちていて案外冷静なものだ。ゆっくりと指が食い込む、気道が閉ざされていく。
ごめんね。
虚ろな月明かり、苦しげな彼女の表情。
チカチカと星が煌めいたかと思えば、一瞬で真っ白になった。
縺れ合い、冷たい床へ身体を擲つ。
重なる掌には赤いひなげしが一輪握られていた。