自鬼お伽噺『人魚の泡は檻の中』 荒れた海に響く呪いの歌。
今夜もまた、旅人を海へ引き摺り込む。
岩礁に打ち付ける波に身を任せ拍子を取りつつ、妹の狂蠱とハーモニーを奏でていた時だった。あの男が尋ねて来たのは。
「青い彼岸花を知らないか?」
漆黒の髪に緋色の瞳、生気を失った白い肌は怪物の私達でさえ身震いさせた。
「知らないわね」 「キョーコ、シラナーイ」
嫌な予感がした、その為だけにこんな時化た海原へ……? そもそも、何故歌声を聞いても虜にならないの?
気づいた時にはもう遅い。
何か薬のような物を首元に打ち込まれ、目覚めると狭い水槽の中だった。
(しまった……! 狂蠱は……!? 生け捕りのつもりか)
辺りを見回すと泡の隙間から、金と黒の艶髪が漂っていて安堵したのも束の間、目覚めぬ妹の肩を揺すり起こす。
「狂蠱……! ねえ、起きて!!」
「…………ン、オネェチャン? ナニココセマーイ」
まだ夢見心地な目元は、白と黒の反転した眼に浮遊感を残していた。可愛い妹、思い切り抱き締めてやりたいけれど置かれた状況を整理するのが最優先だ。やたらと高そうな調度品が並ぶ書斎。赤い革張りのソファは主人を待ち焦がれ、ひっそりと窓の月明かりを浴びている。その前に置かれた木製の机にはビーカーやら顕微鏡、分厚い本が広げられていて研究室の面影を滲ませつつ、次はお前の番だと死刑宣告を叩きつけて来る様だった。
「やっと目覚めたか」
その一言、それだけで背筋が全身が恐怖に支配され動けない。この世の全てを掌握した無慈悲で冷たい残酷な声音。ペイズリー柄の黒スーツに白ネクタイはこの部屋の主である事を有り有りと示す。
「私達を…………殺すの?」
水面に顔を僅かに出して、眉一つ動かさず睨み付ける。背後に庇った妹の身体が次に紡がれる言葉に怯え切っているのは水中の振動からして明白だった。この子だけは、私が何としても守り切らなければ。
「殺して、どうなる? お前達を此処で殺してどうなるのだ。未だ何の成果も得られていない魚を始末した所で残るは奇形な死骸のみ、退化に等しい。私の役に立て。その為にわざわざこうして二匹も手元に置いているのだからな」
「なるほど、実験材料ってわけね。だけど無駄よ。これまで幾度も私達の力を物にしようと企む輩は居たけれどその思惑は生涯叶う事は無かった。これがどういう意味を孕むのか、賢明な貴方なら解るわよね?」
挑発的な言動に真紅の眼差しが身体の隅々までこびり付いて離れない。最早、呼吸すら困難に思えてきて首から下げている翡翠のネックレスを徐に触る。その滑らかな質感に少しだけ安堵して息を整えた。
「ほう? この私にそこまで言って退けるとは……面白い、今目の前でやってみろ」
背後を振り返り、黒金剛石の瞳と視線を合わせ、片手を握る。小さく頷き握り返すその姿からは固い決意が伝わってきて力をくれた。これが私の、私達の出来る精一杯の抵抗。息を吸って、タイミングを合わせて、そして──
『……♪ 聴いて、私達の歌声を。波間を漂うエレジーは貴方の心をゆっくり染めていくの。珊瑚の首飾り、泡の水晶、海底を照らす月明かりのカーテン。これは、唯歌う事しか出来ない沈みゆく人魚の物語。どうか引っ張り上げて? 他に何も要らないから……』
人魚の能力の一つに、聞く者の心を惑わす歌声がある。大抵の人間は一度耳にすれば言いなりになるのだけれど、この男は違った。捕まる前にも効いている素振りは無かったから、疑り深い私は普段他の人魚と縄張り争いになる際にも使う程の歌を奏でたつもりだった。それなのに。
「何度も同じ事を、馬鹿馬鹿しい。鬼である私に通用すると思ったのか?」
「っ……!」
全く効力を発揮しない理由はそもそもが理の外にあったらしい。ゆっくり水槽に近付くと微かに口元に笑みを宿して仄白い片手を此方へ翳す。握る素振り見せたかと思った次には硝子が音を立てて割れていた。
「キャアァッ!」
妹の叫び声に気を取られていたら、部屋の赤い絨毯へ打ち付けられる際、左腹に硝子の破片が突き刺さって鋭い痛みが走る。
「くっ……ぅ……」
「オネェチャン!! ダイジョウブ!?」
「騒ぐな。出血くらいでお前達は死ぬ事は無い、そうだろう? もっとも、このままでは干涸びて息絶えそうだが……」
男の言う通り、人魚にとって一番の天敵は“渇き”だった。特に喉の渇きは致命的で、歌えぬ状態が3日と続けば軈て死んでしまう。出血を伴えば尚更だ。私の腹を手当てしようと触れるその手も傷付き赤く染まっていて腑が煮え繰り返りそうになる。
「掌、怪我してるじゃない……! この子をこれ以上傷付けたら、ゴホッ……許さないわよ!」
「死にそうな声でとんだ茶番を。どうした? 顔色が悪いぞ。そんなに妹が心配なら、どれ、手当てしてやろう」
言うや否や、狂蠱の腕を引っ張り上げあろう事か傷口を艶めかしい舌先がゆっくりと這ってゆく。
「ンッ……ゥ……」
「ちょっと! なにして」
「これはこれは……何とも美味。人魚の肉を喰らえば永遠の命をこの身に宿せるそうだが、このまま終わってしまうのは惜しい気もするな。おい、魘夢」
どさりと細腕を離して片手を上げると、いつの間にか背後に影があり最早これまでかと覚悟を決める。
「かしこまりました」
空気に晒されて鱗が、ヒレが乾いて呼吸が苦しい。霞む視界の中、近付いて来る足音を辿り見上げると中性的な顔が何食わぬ顔で其処に立っていた。
「オネムリイィィ!!」
気持ち悪い左手の甲が口を開いた瞬間、強制的な眠りに誘われ意識を深く絡め取られて落ちていく、夢の中へと。
昔の記憶。まだ私達が幼い頃、大切な約束を交わした気がする。あれは丁度両親を亡くした直後、寂しくて虚しくて二人抱き合ってよく泣いていた。それでも完全な孤独じゃ無かったのは不幸中の幸いで、お互いを心の拠り所にして何とか生き抜いていたのだ。母がいつも言っていた「貴女達は姉妹なんだから、仲良くしてね」この言葉は救いであり呪いであった。助け合って生きていこう、どちらが欠けても駄目なのだから、口癖のように繰り返す妹は軈ておかしくなり、片言で喋り続ける。正直、私も気が触れてしまいそうで、それでも傍に咲く柔い笑顔が私を包んで離さない。守っているようで守られている、不思議な感覚だった。両親を殺した人間共は赦しはしないけれど、海を流離う旅人達を時折襲う事で気を紛らわせていた。あの時だってそんな日常の延長線だと、格好の餌食が荒波に迷い込んで来たと、それだけだったのに。こんな……
(こんな悲惨な事態に……ん、私何して…………そうだわ! 連れ去られて……!)
意識を取り戻し、瞼をこじ開けると先程の書斎とは違った部屋が視界に飛び込んでくる。蝋燭の明かりだけが灯る薄暗い場所。煉瓦造りの壁はしっとり湿っていてコンクリートの床にも所々水溜りが出来ている。物々しい鉄格子と窓の無い様子から推測するに、地下牢か或いは全く別の隔離施設、どちらにせよ逃げ場なんて無さそうだった。水槽とは違い、狭いバスタブに水を張って随分とお粗末な仕打ちである。
「ああ、起きたの。おはよう、まだ寝てて良かったのにぃ」
「お前……! さっきの…………妹はどこ!? 何かしようものならただじゃ置かないわよ!」
声を荒げたところで、一切の反応がない無表情に潜む残虐性に身震いする。どうやら、あの高圧的な男とは違った恐怖が目前の男には宿っているらしい。いや、女だろうか、おかっぱ頭の黒髪、やけに丁寧な物言いと仕草……見た目だけでは判断が難しい。確か魘夢と呼ばれていたような、黒の燕尾服は両脇に大胆なスリットが施されており足元はすぐに汚れてしまいそうな白靴を履いていた。
「あの方が……無惨様が君と妹を引き離し個々の力をご覧になりたいそうだよ。人魚の歌声は鬼には無効だったから、次は別の能力を明かしてみろ。出来ないなら今此処で君を殺して妹の方に力尽くで聞き出すだろうね」
「っ……! 最低ね……! 別に隠す必要も無いわよ、こんなの。私達の特別な力は“歌声”と“テレパス”そして、“大願成就”。歌声はさっきの通り、テレパスは半径五メートル以内なら届くわ。そして最後、人魚の祈りによって何か一つだけ願い事を叶えられる。但し、叶えた本人は翌朝泡となって消えてしまう。……これくらいかしら、どう? 拷問でもして願いを叶えるの?」
ひとしきり言い放って脱力する。今、私はこの僅かばかりの水に生かされている。未練があるとすればそう、妹の未来くらいで自分に対しての気持ちはとっくの昔に捨て置いた。自己愛の欠如、家族が亡くなって妹が普通ではなくなって、自分を愛する事が出来なくなった。
「それは俺の決めることじゃない。まあ、利用価値はありそうだけどね」
薄い唇が弧を描き、ゆっくりと檻の中へ近づいてくる。初めて見た笑みは人の不幸を嘲り笑う到底理解出来ないものだった。胆礬色の瞳が暗闇の中で秘匿の宝石みたく唯其処にあって無意識に惹きつけられてしまう。不思議な魅力、抗えない声音。まるで催眠に掛けられた気分でふわふわと心地良い。
「俺は運が良いなあ……うっふふ、人魚の世話をして“永遠の命”について核心に迫ればきっと無惨様から血を分けて頂ける……そして更に強くなれたら上弦に入れ替わりの血戦を申し込めるぞ……!」
何を言っているのか全く分からなかった。唯一確信を持てるのは“永遠の命”がこいつらの目的であるという事。昔の言伝え、人魚の肉を食べた者は永遠の命を手にするのだとか。本当かどうかは知らないし、考えたくも無いけれど私達の生死はこのふざけた伝承に掛かっていると言っても過言ではない。だとしたら、妹が危ない……。
(狂蠱……大丈夫かしら…………)
唇から、血の味がした。
目を覚ますと、またおんなじ場所。カーテンが閉め切られてぼんやりとした明かりの中、ずらっといっぱい壁に並んでる。あれは人間がよく開いて眺めてる本ってやつかな? わたしは字が読めないからちっとも面白く無いけど、おねぇちゃんが砂に埋まっていたのを拾って読んでくれたっけ。頭が良くていつもわたしを助けてくれる、優しくて大好きなおねぇちゃん。
「ア……レ…………? オネェチャン? オネェチャンドコ!? オネェチャーーン!!」
「煩い! 騒ぐなと言っただろう、それすらも覚えられぬ程お前は知能が低いのか?」
部屋に響く大声で、すぐにあの怖そうな人だと分かった。猫みたいな赤い目、そんなに睨み付けなくっても言うこと聞くのに。わたしは誰かを騙したり攻撃する力は無い。
「ゴメンナサイ。アナタ、アタマイイノ?」
「……無惨で良い。どうしてそう思う?」
奥の赤いソファから立ち上がってこちらへ向かってくるから身体が強張る。ひとりぼっちってこんなに心細いんだ。やたらとぴかぴかの靴が床を鳴らして目の前で止まった。
「ホン、タクサンアルカラ。ムザン、ゼンブヨメル?」
「ああ、読めるとも。狂蠱と言ったな、その片言は病気なのか?」
水槽の中から顔を出して見上げると、手入れされたふわふわで美しい黒髪から良い匂いがしてくる。甘くて、それでいて渋みを含んだ品のある香りはわたしの心を掴むのにそう時間は掛からなかった。
「オトウサン、オカアサン……イナクナッテ、コウナッテタ」
「なるほど、ショックでその喋り方。可哀想に、私が両親を探してやろう? それとももう居ないのか?」
「……ニンゲンニコロサレテ、イナイノ」
嫌な記憶が蘇っちゃうから、首を横に振りながら肩を抱いて耐え忍ぶ。
「そうか……尚の事辛かっただろう、悲しかっただろう。どうだ、私と手を組まないか? その人間共を始末する代わりに狂蠱は“永遠の命”について知っている限り教えて欲しい」
手を組む……仮に復讐を遂げたとして、それは一時の解放に過ぎないと昔おねぇちゃんが言い聞かせてくれた気がする。
「フクシュウ、ヨクナイ。ソシタラ、ムザン、ムリヤリキョーコタベル?」
「やはり人魚の肉が鍵……。いいや、無理矢理野蛮な真似はしない。仮に狂蠱を食べたとして、何も起こらないリスクも高いからな」
泡の花よりも真っ白な肌が少し赤らんで、形の良い唇の端が持ち上がった気がする。
そのままぶつぶつと呟きながら部屋を出て行こうとするものだから勇気を出して言い放った。
「マッテ! カーテンアケテイテ? ツキアカリスキナノ」
「…………ほう? 月は私も好きだからな、良いだろう。目に焼き付けておくといい」
机とソファが並んだもっと奥、黒いカーテンがそっと開けられ部屋が白くなる。
「私は日のあるうちは容易に出歩けない。何か不都合があった場合はこの呼び鈴を鳴らせ。使いが来て面倒を見るだろう」
水槽に落とされたのは、金色の棒が付いた物体。呼び鈴と言われたそれは左右に振ると心地良い金属音がして気持ちが少しだけ華やぐ。
どうしてここまでしてくれるのだろう。
人魚のわたしは、それ程珍しいってことかな?
何はともあれ、お礼をしなくちゃ。
「ムザン、ソバニキテ?」
水面から上半身を出して、両手でおいでおいでのポーズ。
「何だ」
月光を浴びて煌めくルビーは、わたしを真っ直ぐ見つめて内側から熱くする。おかしいな、海を漂う冷たさしか知らないのに。
お礼をするときは、確かおねぇちゃんがしてくれたのと同じようにすれば喜んでくれるはず。
水槽の前へ来たあなたに、とっておきの愛を。
「…………ンッ」
「!?!?」
唇と唇が触れ合う、どちらもひんやりとしているけれど何故か身体が火照ってくるの。
「キョーコ、ムザンスキー!」
「いきなり何てことする……!!」
さっきの怖い顔はどこへやら、恥ずかしがって真っ赤ないちごみたい。
足早に部屋から出ていくのを目で追って、気持ちを切り替える。
(わたしはわたしのやるべき事をやらなくちゃ)
月明かり差し込む窓辺へ向かって祈りを捧げる。唯一、後悔があるとすればこれだから。私がこんな風になってしまった所為で、苦労ばかり掛けてごめんなさい。せめて、おねぇちゃんだけは自由に生きて欲しい。
(神様、どうかお願いします。おねぇちゃんが自由に歩き回れる足をお与え下さい。他に何も望みません)
「ねえ、そろそろ食べてくれないと困るんだけど」
呆れた声が、この静謐な牢屋に響き渡る。
「嫌よ。あんた達の用意した餌なんて食べられる訳無いじゃない」
衰弱されては困るのか人間の腕を差し出して来るが、勿論何が仕込まれているやも知れぬ肉なんて食えたものじゃ無かった。押し問答を続けていると、痺れを切らしたのか苛立った様子でバスタブへ近づいて来る。
「はあ……出来ればこんな事したくなかったけれど、仕方ないよねぇ?」
「キャアッ……! いたっ、離して! 離せ!!」
頭の髪を片手で引っ掴み持ち上げられる。私と大して変わらない体格のくせに力は段違いで、水を浴びせようとヒレで叩き付けても全く効果がない。片方に握った腕を喰い千切ると
「んぅ…………んんーっ!?」
唇と唇が触れ合い、隙間から冷たい舌に乗せられた肉が押し付けられる。生臭い匂いに込み上げそうになりながら、何とか飲み込むとやっと解放された。
「ゲホッ……何するのよ!」
「お前が食べないのが悪いんだろう? これ以上、手子摺らせないでよ。うっかり殺してしまいそうだから。ふふっ……飲み込んだね? 稀血の人間の肉。どうかなあ、もっと美味しくなったかなあ?」
一瞬の隙に距離を詰められ、首元から鋭い痛みが走る。
「ひっ……あぁ…………あっ!」
噛まれて吸血されている事に気付くのが遅れ、あっという間に其方のペースだ。じゅるじゅると耳を塞ぎたくなる音、牙が突き立てられた箇所が甘く疼いて気持ちいい。
「いやぁ……! くぅ…………んぁっ!」
「嫌? そんなはしたない声でよく言うよ、本当は気持ち良い癖に。はあぁ……人魚の血というのはこんなにも美味しいなんて、其れこそ病みつきになりそうだ」
興奮し切った様子で繰り返される行為。意識が途切れる直前でやっと満足したのか身体が離れていく。ふわりとクラシカルでいて影のある香りがした。
「久々に、血だけで事足りそうだ。でも次もそうとは限らないからね、精々頑張って?」
そう言うと、踵を返し暗闇の中へと消えていった。
これがあと何回訪れるんだろうか。どう考えても身が持ちそうにないし、命を握られ擦り減るのも御免だ。
最後に一つだけ、心残りがあるとすれば妹が何不自由なく暮らしていける世界をあげたかった。どんなに教えを説いたとしても狂蠱の悲しみを取り除けない。もう、この方法に頼るしかなかった。本当はこの場を逃げ切る願いも叶えて欲しいものだけれど、たった一つという縛りがある。愛想の良い彼女の事だ、きっとこの場を凌いでやり過ごせると信じている。
(神様、どうかお願いします。狂蠱が誰をも凌駕する知性を取り戻しますように。他に何も要りません)
心の中で唱えた瞬間、眩い光に包まれる。
「何なの!? これって……もしかして!?」
見ると二本の足が生えていた。最初は祈りの副作用か何かかと思っていたが、どうやら違うらしい。こんな突飛な事態を起こせるのは、狂蠱の祈りに他ならなかった。
立ち上がり、初めての大地の感触にぐらつきながらも突き進む。私は見逃さなかった、鉄格子の鍵を掛け忘れている事に。もしかしたら、狡猾な奴だから態とかもしれないが、これは最大のチャンスだ。陰気な牢屋を抜け出し、廊下の赤いカーテンを引きちぎって身体に巻き付ける。
“狂蠱……! どこなの!?”
テレパスを使いつつ、慣れない道を駆けずり回って気配を辿る。じきに夜明けが来てしまう、朝日が昇らぬうちに妹を見付けなくては。二人諸共、泡と消えてしまう前に。
“……ちゃん…………おねぇちゃん!”
“其処ね! この扉の奥に居るのね!!”
居場所は見付けられたが、鍵が掛かっているらしく助走をつけて肩で押し開けようと幾度試みてもびくともしない。針金があれば開けられたかもしれないが何も持ち合わせていない今、窮地に追い込まれてしまう。
──ガシャァンッ!!
硝子の割れる音がして、もしやと思った矢先扉が開く。棚の上の水槽から這い出てきたであろう彼女が辿った道は鱗と赤で一目瞭然だった。割れた破片がお互い突き刺さるのも厭わずに、血まみれの妹を抱き締める。同じ痛みを共有しているみたいで愛しささえ込み上げてくる。
「狂蠱……! どうして」
「約束……だから…………助け合って生きていくって……これは言われたからじゃない、私自身の意思よ」
知性を取り戻した妹は、はっきりとした口調でそう伝えてくれた。
「無理をして……でも、瞳が黒金剛石みたいに綺麗。これが貴女なのね」
軈て訪れる朝日のベールが私達を包み柔らかく祝福を落とす。
大きな物音を立ててもやってこない奴等を訝しみつつも、苦痛さえ感じなくなった世界で二人きり、最後に歌を口ずさむ。
『……♪ 悲しみに沈みゆく人魚。私達は人の心が半分だけ宿ってる。愛しむ気持ちを、言葉の持つ力をどうか忘れないで? 秘めたる真珠よりも純白を 』
このまま連れ出して逃げられたらどんなに素敵だろう。
残された時間はあと僅か、お互いの身体が泡に綻び淡い虹色、幻想の中。
「おねぇちゃん、今までありがとう。たくさん……心配……掛けて…………ごめんなさい」
「何言ってるの……! いつも貴女の笑顔に救われていたわ……ありがとう」
私の零れ落ちた涙が、狂蠱の頬を濡らしていく。段々と透き通る身体はもう殆ど光に溶け出している。お別れの言葉は二人同時だった。
「「愛してるわ。来世でもきっと姉妹よ」」
そろそろ、人魚共は消えた頃だろうか。
鬼は夜しか自由に歩けないから、泡と散る姿をこの目で見られないのは何とも残念だ。
無惨様の書斎へ赴くと案の定、床には鱗と血痕、そして引き千切られたカーテンが落ちていた。俺と似た髪型をしたあの人魚、指示された通り牢の鍵を開けていたらやはり此処に辿り着いたみたいだ。泣きながら抱き合ったりしたのだろうか、その不幸で惨めな姿を思い起こすだけでもう、居ても立っても居られない夢見心地というもの。うっとりと眺めていたら、背後から声が掛かる。
「やはり消えたか」
「ええ、今度は一匹のみ捕まえて来ましょうか?」
上質な革靴の音が奥のソファで止むと、あの方が深く腰掛け足を組む。嗚呼、懐柔されたい全てを捧げたい。
返ってきた御言葉は、ぽつりと、一言だけだった。
「…………いや、もういい」