証明 朝日を浴びた埃がチカチカと光りながら喜ぶように宙に舞うさまを、彼はじっと見つめていた。朝、目が覚めてから暫くの間、掛け布団の端を掴み、抱きしめるような体勢のまま動かずに、アラームが鳴り始めるのを待っていた。
ティリリリ、ティリリリ、と弱弱しい音と共に、スマートホンが振動し始める。ゆっくりと手だけを布団の中から伸ばし、アラームを止める。何度か吸って吐いてを繰り返してから、俄かに体を起こす。よしっ、と勢いをつけて発した声は掠れており、埃の隙間を縫うように霧散していった。
廊下に出る。シンクの中に溜まった食器の中、割りばしや冷凍食品も入り混じっているのを見つけると、つまみあげ、近くに落ちていたビニール袋に入れていく。それからトースターの中で黒くなったまま放置されていた食パンを、軽く手を洗ってから取り出して、直接口に咥えた。リビングに入ると、ウォーターサーバーが三台と、開いた形跡のない数社分の新聞紙、それから積み上げられたままの洗濯物に囲まれたまま、電気もつけずに彼女はペンを走らせていた。小さく折り曲げられた背が、猫を思わせるしなやかな曲線を描いていた。
床に落ちているレポート用紙を手に取った。仮説からはじまり、検証につながる文字の並びを、目を皿のようにして彼は読み始めた。最後の一文まで読み切ったところで、彼は息を吐き出した。
「みなこひゃん」
パンを咥えたまま発せられた声に、彼女は慌てたように顔を上げた。書きかけのレポートを隠すように、両腕を組んだ状態でテーブルに乗せた。
「いっくん」
名前を呼ばれた彼は、笑みを綻ばせた。
「やっぱり君って最高」
風呂場から溢れ出る水の音が聞こえてきた。
「本多って彼女いんの?」
「うん、いるよ」
「うっわまじか」
大学二年生の十一月ともなれば、志望する研究室を決めなければならない期限が迫っていた。複数の研究室訪問を経て知り合いが増えていたのは、彼の好奇心旺盛な姿勢が受け入れられていることを証明していた。その日の講義を終えた彼が、院生の荷物運びを手伝う流れになったことも、自然な運びであった。
「本多の彼女とか想像できねえ」
「やっぱり似たタイプ?」
「案外美人なお姉さんだったりして」
「あ、もしかして社会人とか?」
二人から矢継ぎ早に質問を投げかけられ、本多は「えーっと」と一拍置いてから
「一緒に居て、ワクワクできる子。あ、でも同級生だよ」
と答えた。「全然想像できねえ」「俺も彼女ほしー」と彼等はからからと笑った。キャンパス内には冬の穏やかな陽光が差し込んでいる。外に面した渡り廊下を歩いていると、時折思い出したように風が肌を撫ぜていく。
「そういや本多、この後の有機化学Ⅰの講義とってる?」
ふと、先輩の一人から問いかけられ、本多は眉を下げて笑った。
「いや、気にはなってたけど……ちょっと時間の都合がつかなくて」
「そうか。今日来る外部講師の若何とか先生、前に聴いたことあるけど面白かったからおすすめなんだけどな」
「だー、やっぱりとっておけばよかったかなあ」
「他の講義なんか被ってたっけ」ともう一人の院生が尋ねる。
「バイトです」と答える前、無意識に間が空いたことに、その場の誰もが気が付かなかった。
「へえ、それも意外だな」
「何に金使ってんの? ガジェットとか? そういや部屋に水槽とかも置いてんだっけ」
本多は「まあ、いろいろ!」と勢いよく声を発した。なんだそれ、お前らしいな、と言いながら、院生達はまた笑った。
「この荷物、ここまでで大丈夫?」
「ああ、ありがとな、本多」
「どういたしまして」
取り扱いが難しい薬品も置いてある実験室は専用のIDカードがなければ入ることができないこともあり、扉の前に荷物を置く。
「バイト、頑張れよ」
礼を告げ、足早にその場を後にする。重い足取りを促すように、空っ風が彼の背を押した。
本多がバイトから帰ってくると二十四時を回っていた。
部屋に入ると、リビングでレポートを書き続ける彼女すら今朝見たままの光景が広がっていた。
「ただいま」
声をかけたところで、彼女ははっと顔を上げた。
「お帰り、いっくん」
「ご飯食べた?」
「ううん、まだ」
「じゃあなんか適当につくろっか」
「あ、でも昨日のご飯の残りがあるよ」
上着をハンガーにかけ、床に散らばっているごみを拾い上げながら、「美奈子ちゃん、昨日のご飯の残りは一昨日のご飯の残りじゃなかったっけ」と本多は笑った。
「あ、そうだった、かな」
冷蔵庫の中にほとんど食材がないことを確認し、買い込んであるカップ麺に手を伸ばす。裏面を見ると、賞味期限は昨日の日付になっている。
「あはは、それで、今日は何に夢中になってたの」
電気ケトルに電源を入れて、本多が尋ねると、彼女は顔を上げる。
「古文の読解だったんだけど、当時の社会情勢や風習と照らし合わせて読んでいくと、歴史の深堀に熱が入っちゃって」
「脱線しちゃったんだ?」
「ふふ、でも、いいヒントにはなったかも。いっくんは? 今日はどうだった?」
「俺はねえ」
話し始めると際限のない彼の言葉に耳を傾けながら、うんうんと彼女は相槌を打つ。
気が付けば、湯を注いだカップ麺は伸びきっていて、夜は刻々と更けていった。
今年何度目かの雪が降る。
入学早々に購入した自転車をこぎ、途中脇道に立ち寄りつつも、講義開始十五分前に駐輪場に着く。曇りがちの空から差し込む柔らかな光が丸い影を本多の足元に作った。
間を置かず、同じ講義を取っている同期生が「おはよう本多くん、今日は早いね」と声をかけてきた。
「おはよう。っていっても図書館に寄らなきゃいけないから結構急いでるんだ」
「それは大変。頑張って」
それから図書館の返却ポストへ本を入れに行き、講義室へと走って向かう。開館まで待つ時間もなければ、読む暇も作れるかどうか怪しいほど、彼のスケジュールは過密だった。その原因のほとんどは自宅に設置されたウォーターサーバーと新聞にある。それらは本多が大学にいる間、訪問販売を断ることのできなかった小波が契約してしまったものだ。すぐに気が付くことができなかったのは、契約してから暫く経ってから、申し訳なさそうに彼女が告げてきたためだった。実際はもっと多くの数を契約してしまっていたが、本多が手続きを初めてから、クーリングオフが間に合わなかったものが、家にある複数台のウォーターサーバーと数社から届く新聞である。
「大丈夫。失敗は誰にでもあるし、次はまずかったかもって思ったタイミングで教えてよ」
本多のその言葉に彼女はありがとうと答え、以降、失敗があればすぐ報告をしてくるようになった。
その日は午前中の講義を終えた後、一旦本屋でのバイトをこなし、夕方にはまた大学に戻った。
「あ」
校舎に入ってすぐ、目に入ってきた背中を追いかける。白いシャツを着た青年の肩をたたくと、彼は目を丸くして振り返った。
「リョウくん、久しぶり」
「おわ、本多かよ」
「へへ」
「相変わらず……でもないな、本多は痩せたか?」
「そかな?」
高校の頃からの友人である風真は、朗らかに笑って見せた。異なる学部に進学したため、必修授業が被らなくなってからは大学構内で会う回数はぐっと減り、最後に会ったのはもう三ヶ月も前だ。とはいえ、メッセージのやり取りは七ツ森も交えて数日おきにはしていたが、それもここ数か月の間に頻度は下がってしまっていた。
「ここんところ、お前忙しそうだもんな。また何かの研究か?」
「ううん、最近はバイト詰め込みすぎちゃって」
「こっちでも本屋のバイトしてんだっけ? そんなに人手が足りてないのか?」
「最近は居酒屋のバイトも始めたんだ」
お互い歩きながらそう話すと、「へえ、全然想像できねえ」と風真は笑みを浮かべた。
「え? なんで?」
「らっしゃーせー!――とか言ってるお前の想像しただけで、すげえ面白い」
本多は風真の物真似する姿に声をあげて笑うと「個人経営のお店だから、大声出したりはしてないよ」と補足した。
「ああ、それならまだイメージ着くよ。――じゃあ、俺上の階だから」
エレベーター前に着いたところで、風真が足を止めた。本多も「またミーくんと一緒にご飯でも行こう」と言って手を振る。
「ああ、あいつにもよろしくな」
そう言って背を向けた風真を見送りながら、本多は振っていた手をぴたりと止めて、暫く閉じたエレベーターの扉を見つめていた。それから教授が歩いてきている姿に気が付くと、時間が迫ってきていることを察し、慌てて教室へと向かった。
「順番さえ明確にすればいいんだと思うんだよね」
「順番?」
「そそ。優先順位の話」
焦げ付いた鍋の底を洗いながら、本多は彼女にそう言った。
「食事はさ、生きる上で必要だけど、日常生活を送るうえで、自分で全部考えて作ることにこだわる必要性はないと思うんだよね。もちろん、気持ちはすっごく嬉しいんだ」
彼女は「うん……」と力なく頷いた。
家に帰るなりスーパーに行ったらサンマが安かった、から始まった彼女の話を要約すれば、とどのつまり、食材に適した火加減が分からず、コンロと鍋が酷いありさまになってしまった、ということだった。コンロに関しては五徳を外して重曹に着けているところだが、鍋は買いなおしたほうが早いかもしれないな、と本多は額に滲んだ汗を拭った。
「君の得意なことじゃないってわかったんだから、次から無理する必要はないからさ」
「うん、わかった」
「でも、俺のこと考えてしてくれたんだよね。ありがとう」
そう言って本多は鍋をシンクに置くと、黒焦げのサンマをごみ箱に入れた。
風呂に入り終えた後、水気の多いほぼおかゆの白米を茶碗についで、ふりかけをかけて食べることとする。リビングに戻ると、小波は所在なさげにソファの上で体育座りをしていた。
「そういえばさ、今日久々にリョウくんに会ったよ」
「そうなんだ」
「うん、美奈子ちゃんによろしくって言ってたよ」
「ふふっ」
気落ちした彼女の顔に笑顔が浮かぶのを見て、本多も笑う。
二人でしばらく話をしてから、セミダブルのベッドに二人で入る。お互いがそれとなく身を寄せれば、足先同士が触れ合った。
いっくん。
彼女は手を伸ばし、ピアスホールに触れた。ここのところ、ゆっくりと時間を過ごすこともなかった二人は、それから何かの隙間を埋めるよう、身体を重ねあった。
クリスマスイブの予定を尋ねられた少女は「予定があって」と申し訳なさげに応えた。バイト先の店長は「だよなあ」と言って頭を掻いた。
「まあこればっかりは仕方ねえ」
小さな個人経営店ながらも遅くまで開いている居酒屋は辺りに少なく、忘年会の二次会にぴったりだと踏んだ常連の予約が既にいくつか入ったらしい。五十を過ぎた店長は「クリスマスにわざわざこんなしけた店に来なくたって」と悪態を吐いてはいるが、一種の照れ隠しのようなものだと本多も気が付いた。
「本多もどうせ彼女とだろ」
振り返りざまそう尋ねられ、「俺、遅くからだったら入れるかも」と答えた。今年のクリスマスイブが平日なこともあり、外に出かける約束はしているものの、翌日の講義のために早めに帰ろうと小波と話していたのだった。
「本当か」
「十時からとかでもいいかな。後冷蔵庫にケーキ置きたいんだけど」
「かまやしねえ」
それからクリスマスイブのシフトの算段を着け終えると、もう一人のバイトの少女は「いつもありがとうございます」と本多に頭を下げた。間もなく時間交代のため、既にエプロンも外している。
「ううん、俺が本屋のバイトが入ってるときはいつもありがとう」
「入れる時にしか入らないんで、大丈夫です」
近くにある理師専門学校に通っているという彼女が気の利く人だと気が付くのにそう時間はかからなかった。基本二人でシフトを回しているため、接点が多いわけではないが、洗い物をするタイミングや注文を取るタイミングでさえ、本多が見習う点はいくつもあった。誤った知識を客が披露していたとしても、高校生の頃から居酒屋でバイトをしていたことも功を奏しているのだとは思うが、人間性からくる素養も大いに影響しているように感じた。
「いい子だよなあ」
店長が零すと、本多は頷いた。丁度人の波の切れ目、次の予約まで少しだけ時間が空いており、店内に人はいない。業務用の換気扇が、ゴウンゴウンと低い音を立てていた。
「結構傲慢な考えだよな」
そう言ったのは確か七ツ森のはずだった。
「何が?」
尋ねれば彼は「まあ、負け惜しみだと思って聞いてくれ」と前置きをする。卒業後、二人でフリーマーケットを回っている時の出来事だ。七ツ森はネックレスを手に、太陽にかざすようにして色を見ながら、「研究対象に家族を用いる奴がいないのと同じように、研究対象を家族にする奴もいないんじゃないかなって」と呟くように言った。
話の前後に繋がりのないその言葉を聴きながら、本多は言葉に詰まったまま、じっと七ツ森の横顔を見つめた。七ツ森は力なく笑った後、「ごめん。ダサいな」と目を伏せた。
「ミーくん」
本多が呼びかける。七ツ森はゆっくりと視線だけを本多に向けた。
「本多」
そこで本多は目が覚めた。
顔を上げれば、先日荷物運びを手伝った先輩が不思議そうに本多を見つめていた。
「珍しいな。寝不足か?」
「え、わ、ウソ、寝てたの、俺?」
「寝てた寝てた」
教室に入るまでの記憶はあるが、ノートを開いてからの記憶がない。さらに言えば、講義が終わってそのまま走って本屋のバイトに向かう予定だったのだが、もう既に遅刻が確定してしまっていた。
「今日分のノートいるか?」
「お願いします!」
お前ほど書き留めてるわけじゃないけどな、と言いながらも、後日コピーをもらうことで話をつける。先日の手伝いの礼だからと彼が念を押してきたのは、本多のことを思ってのことであった。
「お前さ、目標があるのは分かるけど、ちょっとは体調のことも考えろよ」
「う……」
「はは、まあ珍しいもん見れたからよしとしとこう」
別れてすぐ、本多はバイト先へ連絡を入れると走って向かった。夢の記憶が、ちりちりと熱を持って、彼の喉奥に落ちていった。
クリスマスを目前に、解約金等の支払いやプレゼント代、ガス料金に貯金額と、気が急いてしまっていたのは確かだった。これでは小波のことは言えないな、と考えながら本屋でのバイトをこなし、帰路につく。道中二十四時間経営のスーパーに立ち寄ったが、特にめぼしいものもなく、何も買わずに店を出た。息を吐けば白く、仰いだ空には雲がかかっていた。
帰宅し、「ただいま」と言いながらいつも通り玄関のスイッチを押すが、反応がない。停電かと思ったが、すぐ近くの街灯は点灯している。ブレーカーを探ろうとしたところで、「あのね、いっくん」と暗闇の中から声が聞こえてきた。
「電気料金、その、払いそびれちゃってたみたいで」
本多は暫く彼女の言葉の先を待ったが、そこから続くことはなかった。次から引き落としにしとくから、大丈夫。本多はそう言って笑った。その日は暗闇の中、振り込み用紙を探しだせぬまま、二人で寝てしまった。
それから数日経ち、クリスマスイブが来た。振り込みさえしてしまえば三十分も待たずに送電は再開した。
折角のイベントなので、豪勢なお祝いをしたいところではあったが、今の状況を鑑みて、夜は自宅で過ごすことにしていた。
今日の日のために取っていたバイトの休みを有効活用すべく、午前中は部屋の大掃除を行った。物の多さと豊かさとは反比例するようにできているのだから不思議だと思いながら、あらかたのごみをまとめた。整理整頓とは程遠いが、害虫駆除用の燻煙剤を焚きはじめる。煙が部屋を覆っている合間、昼過ぎに小波と待ち合わせていた駅へと向かう。水族館に行きたいなと言い出したのは小波の方だった。電車を乗り継ぎついた先、ペンギンが有名なのだという水族館の入った商業施設に入る。はばたき市と異なり、海の遠い場所にある水族館に来るのは初めてで、それから魚の輸送方法の話になり、それからトリーターについての話、やがてまたはばたき市への話へと会話は流れていった。
「妹へのお土産に何か買っていこうかな」
「ふふ、相変わらず優しいお兄ちゃんだね」
「そかな」
「いっくんはいつまでも変わらないね」
ガラス越しに泳いでいくクマノミを目で追いながら、彼女は静かに言った。
「変わらないでいてね」
透明になっていくような、微かな声を取りこぼさないよう、本多はうん、と応えた。繋いだ手は暖かった。
一通り見終えると、間もなくバイトに向かう時刻になっていた。
本多はバイトを入れたことを再度詫びたが、小波はううんと首を横に振る。
「プレゼント交換は家に帰ってからにしよっか」
「うん、待ってるね」
「部屋着いたら窓を開けて換気してね」
そう言って駅で別れた。改札を抜け、振り返る。彼女は肩のあたりで小さく手を振っていた。
向かう途中に予約していたケーキを受け取り、バイト先に着くと、既に満席の状態であった。客が店員を呼ぶ声が聞こえる。慌ててケーキを冷蔵庫に入れ、エプロンを身に着けると、注文を取りに行く。
長い夜の始まりだった。
帰路についた頃には雪が降り出していた。
ケーキを手に、家路を急ぐ。遠くとも言えない距離からサイレンの音が聞こえてきた。火事だろうか。ほぼほぼ無意識に、脳内でドップラー効果の音の周波数を出す計算式を思い浮かべ、すぐに家の人は大丈夫だろうか、と考えを巡らせる。
ふと、足を止めた。ものが焼ける匂いが、鼻をついた。心臓の音が不規則になるのが自分でわかった。雪が降っている。
本多が再度動き始めた時、身体は走り出していた。
可燃物、点火源、三酸素供給体。今考える必要のない単語が、脳内を飛び交う。思考と体がちぐはぐになってしまったかのような気味の悪さが、全身を覆っていた。
家の前にたどり着くと、人だかりができていた。
夜にそぐわぬ強い光を前に、汗がすべて引いた感覚の後、一気に噴き出していく。ケーキの入った箱が、地面に落ちた。
火が上がっているのは、紛れもなく、彼と彼女の部屋であった。
呆然と、ただ黒煙が空に消えていく様を見つめていると、消防隊員が消火活動にあたり始めた。煙だけではない、重く苦しい空気が辺り一面に充満している。反して、周囲にいる人たちの、心配よりも興味の勝った瞳を見ると、心臓が鉛を抱え込んだように、存在を主張し始めた。
「いっくん」
声がして、振り返る。
小さな手が彼のコートの端を掴んでいた。彼女は震えながら、本多を見上げていた。
本多は声を出そうとしたが、言葉は喉の奥で突っかかり、吐き出されることはなかった。
「いっくん、あの、あのね、私、いっくんが帰ってくるまでに、ご飯作ってあげようと思って、最近あんまり食べてなかったから、だから、それで……」
彼女はそこで言葉を止めた。本多は黙ってその言葉の先を待つ。
「――私、お財布、持ってき忘れちゃって、それで、あのね」
不意に、周囲の音が何もかも聞こえなくなった。
「泊まるとこ、どうしよっか」
体が動いた。それは彼の意識の外の出来事であった。
乾いた音が響く。掌の熱は、痛みによるものであった。
本多は目を見開き、目の前にいる彼女を見る。小波は頬を抑えたまま、本多を見つめていた。
「――もう、だめだぁ」
本多はそう言うと、その場にしゃがみ込む。喧騒が、彼の嗚咽を掻き消していく。
雪が、降っている。
謝らなくていい、と言ったのは本多だった。
同棲を初めて一か月経つか経たないかの頃、季節はまだ春の名残があった。キッチン前で割れたグラスを拾い集める彼女の手を取った彼は、一回目を閉じてみてよ、と言う。促されるまま彼女は目を閉じた。
「これから何をすればいいと思う?」
「……ガラスを、集めきゃいけない」
「ならどうするのが一番効率いいかな」
時計の針の音と、風が木々を揺らす音が、穏やかにふたりの間を流れていった。
「箒をとってくる」
「集めたガラスはどうする?」
「新聞紙にまとめて捨てる」
じゃあやることは決まったね、と言って、本多は立ち上がる。陽光が、彼のシルエットを曖昧に象った。
俺は箒の係、君は新聞紙を集める係だ。オッケー?
本多の声に、彼女は頷いた。
「小次郎先生も言ってたよ、謝り癖はよくないってさ」
久方ぶりに聞く担任の名前に、彼女はふと頬を緩めた。
ガラス片が二人の姿をばらばらに映す。小波が実家から持ってきたアリの巣の中、働きアリたちが、せっせと女王アリに餌を運んでいく。
火事の被害は想像よりも酷くはなく、隣家や上下階の部屋へは燃え広がらずに済んだ。警察の話によれば、過失の程度も低く、コンロの調子が良くなかったことで起きた事故だということで話は進んでいるらしい。
「保険、入っててよかったわね」
電話口で母の言葉を聞きながら「そだね」と本多は返事をした。
「ひとまず大家さんとはこっちで話をつけるから、行も早く元気だしなね」
母の後ろから聞こえてくるのは妹の声だった。何を言っているのかは聞き取れないが、心配の声だろうということは予想が付く。本多は服のすそを掴み、吐き出しそうになった言葉を飲み込んだ。
「ごめん、迷惑かけて」
ここ数日、バイト先にも謝り続けているせいか、抑揚の少ない声が出る。
そんな彼に、「違うでしょ」と呆れた声で言うと、「心配してるのよ、私は」と言葉が続く。
「――うん、心配かけて、ごめん」
「本当に、怪我がなくてよかった」
それから、お互い幾何かの間を置いて、「それじゃあまた」と本多が言うと、「あ、ちょっと」と遮られる。
「にゃーくんだっけ? お友達にありがとうって伝えておいてね」
「だーほん、もしかして家では俺のことにゃーくんって言ってんの?」
「違うよ、母さんの覚え間違い」
「……だろうな」
普段より覇気のない友人の返事を聴きながら、七ツ森は食器を洗い始める。本多はぼんやりとクイズ番組に視線を向けてはいるが、内容は頭に入っていないらしく、何も発言する様子はない。電話を終えたタイミングで差し出したノンカフェインの紅茶を口にすることもなく、両手でマグカップを持ったまま、微動だにしなかった。
七ツ森が家事を終え、ハンドクリームを塗りながら、本多の隣に座った。本多の視線がゆっくりと動く。
「ミーくん、ほんとごめん」
「いいって」
それから二人は会話を交わすこともなく、時間だけが過ぎていった。
一昨日の晩、突然現れた本多を家に招き入れてから、二人はずっとこの調子であった。事のあらましは、初めて本多の母が電話をかけてきた折、みゃーくんに電話代わってと強請られた際、彼女から七ツ森に話したようだ。しかしそれから、本多には何も聞いていない。高校の頃では考えられないほど、静かな空気が部屋の中を満たしていた。
気が付けば夕飯の時間になった。七ツ森の家に来てからろくに食事をとっていない本多のためにゆでたうどんを食卓に出す。
「ちょっとは食べないと」と言いながらも、量は七ツ森の半分程度に抑えられている食事を、
「ありがとう」と受け取って本多は食べ始めた。
「高校の頃は食べても食べても太らなかったのにここにきて怪しくなってきたんだよな。ほらさ、最近講義もオンラインが多いから外に出る時間がめっきり減っちゃって。っていっても、新作アイテムだけは店舗に行くんだけど」
七ツ森の話を聞いているのかいないのか、反応の薄い本多相手に語り掛け続ける。
しかし、突然本多がびたりと動きを止め、七ツ森も口をつぐんだ。
「どうした?」と尋ねるが、本多は返事をせずに立ち上がると、箸を投げ出しトイレへと駆け込んだ。ドアも開けたまま、便器を抱え込むようにして食べたものを吐き出す。次いで席を立った七ツ森は、そんな彼の様子を暫く見ていた。波が収まったのだろう、カヒュッカヒューと細い息を吐き出した本多の隣にしゃがみ込むと、七ツ森は背に手を当てた。掌に当たる骨の感触が固く冷たかった。
「ダーホンがさ、俺や風真に相談できない理由はなんとなく、分かってるつもりなんだけどさ」
七ツ森の声は静かに震えていた。
「――距離、とっても良いんじゃないか」
七ツ森の言葉に、本多は暫く何も反応を見せなかったが、やがて静かに頷いた。
翌日から、本多は徐々に食事をとれるようになった。年末年始はもう目の前だ。二人で実家に帰るかどうかを相談し、夜の八時が過ぎた頃、七ツ森の家のチャイムが鳴った。ネットで頼んだ荷物かな、と言って七ツ森がインターホンに出る。
「はい?」
と、カメラに映った人物を見て、七ツ森は首を傾げた。インターホン越し、漏れ聞こえる声には聞き覚えがあった。
ドアを開ければ、花椿ひかるが立っており、その後ろには小波も居た。
「こんな時間にどうしたんですか」
「どうしたもこうしたも、こっちが聞きたいんだけど」とひかるは眉間に皺を寄せて言う。
「久々にマリィに連絡したら家がないとか言い出すし、一緒に居るはずのダーホンは実クンの家に居るっていうし、どうなってんの?」
「いやそれは……」
曰く、小波は今日まで花椿の家に泊めてもらっていたようで、連絡の来ない本多に業を煮やし、彼女たちは訪れたのだという。勢いよく話し始める彼女をじっと見つめながら、本多は何も言わなかった。小波は視線をずっと地面に落としたまま、顔を上げる様子もない。その様子に花椿は訝しむような表情をしてみせた。
「ひかるさん。ちょっとその話は後日改めてできないかな」と仲裁に入ったのは七ツ森だった。
「でも、このままじゃ二人も落としどころが付けられないんじゃない?」
「それはそうかもしんないけどさ」
花椿は視線を七ツ森から外すと、本多を見つめた。
「ダーホンも、好きな人の失敗くらい、受け入れてあげなきゃ」
本多は、彼女の言葉を咀嚼するように、ゆっくりと瞬きをした。
「――なにそれ」
玄関先の空気がぴたりと止まる。普段、彼の口からは聞いたことのない冷たい温度を孕んだ言葉に、全員の視線が本多へ向いた。
「それは、俺は好きじゃなかったってこと? ――それってすっごくバカみたい」
そういうわけじゃ、と花椿は、しかしそれを言葉にすることはできなかった。
本多の大きな瞳は揺らめき、やがて小波へ視線を向けた。
彼女は顔を伏せたまま、ひゅっと息を飲みこむと、くるりと背を向けてしまった。「ちょっと、マリィ」とひかるが追いかける。
冷たい空気は冬の夜に深く沈んでいく。星の見えない夜だった。
ビュリダンのロバを知っているか? とマイク越し、教授の声が聞こえてくる。有名な思考実験のことだけど、知っている人は手を挙げて、と促されるまま手を挙げた。そしてそのタイミングで、これが夢だと気が付いた。間もなくして、手を下ろすよう指示が出る。
「では自分はロバと同じ選択をするだろうと思う者は?」
先ほど手を挙げていた生徒達も、この問いかけには手を挙げることはなかった。優秀な学生が多いんだな、という教授の言葉は、決して褒め言葉で無いことだけが伝わってくる。
「君達は選んで今この場に立っていると思っているだろう。大抵、思考実験が好きな奴はそういうきらいがある。しかし、子供は恐ろしく純粋で、自由だ」
本多は、肯定も否定もしないような顔をして、教授が頭を掻く姿を見ていた。
「教師とは彼らの純粋さと自由を殺すことの多い職業です。そしてそれは君たちの選択が原因なこともあるだろう。後悔し続ける覚悟を持ちなさい。そうすればロバにならずにすむ」
さて、では今日の内容は、と漸く講義が始まった。ペンの走る音が聞こえてくる。本多は暫くの間、ペンを握ったまま、板書されていく癖字を見つめていた。
あの卒業式の日、一度は断られた告白を、引き留めたのは本多だった。
朝が来たのだ、と気が付いた時、日付は1月1日になっていた。結局帰省は叶わず、七ツ森が心配そうに本多を見つめていた。
「起きるか?」
「うん」
「飯は?」
「食べるよ」
あの日の晩から死んだように眠り続ける本多の体はさらに肉が削がれてしまったようだった。しかしながら、以前よりもはっきりとしている受け答えに七ツ森は胸をなでおろす。
「ダーホンちって味噌汁何味噌?」
「合わせだったかなあ」
「なんもわからん。まいっか、どうせレトルトだし」
即席カップみそ汁のもとを用いて雑煮を作ると、二人で食卓を囲む。本年もよろしくお願いします、と二人で手を合わせてからは、テレビを見ながらひたすらに時間を過ごした。
「ねね、宇宙誕生見てもいい?」
「今っすか?」
「だってやってるからさあ」
そんな話をしながら、気が付けば日が傾き始めていた。スマートホンを片手に、夕飯どうする? と七ツ森が尋ねた。
「ミーくん」
「ん?」
「ありがとうね」
七ツ森が視線を本多へ向ける。それから、何も言わず二人は視線を交わし合った後、「もういいのか」と七ツ森は眉を下げ、へらりと笑った。
本多は「うん」と答えた。
窓の外、寂し気に雪が降り始めた。
曇りがちだった空が久方ぶりに見せた陽光に、道端に積もった雪が解け始めていた。年始休みを終えたサラリーマン達の波に紛れて、本多は目的の場所に向かっていた。溶けた雪が彼の足元を冷たくしていく。
一駅分程度の距離を歩いたところで、目当てのファミレスチェーンにたどり着く。家を出る前まで、なんかあったら呼べよ、と言った友人を思い出し、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。もう片方のポケットには、暇つぶし用の文庫本が入っていた。
ドアを開ければ、カラランとベルが音を立てた。すぐに店員が駆け寄ってくる。
「おひとり様ですか?」
「いいえ、二人です」
「空いてる席にどうぞ」
促され、店内をぐるりと見渡す。けれども、ソファ席に目を向けたところで、視線が止まった。
窓側の奥の席、彼女は、ストローの入っていた袋を両手に持ち、肩身狭そうに座っていた。グラスには何も入っていない。間もなくして、店員に声をかけられると、慌てたように何かを告げ、そしてまた、肩身狭そうに、ストローの袋へ視線を落とした。
「お客様?」
声をかけられ、本多ははっとして、既に連れが来ていたことを伝えると、彼女の座る席へ向かった。しかし、席に近づくにつれ、彼の歩みは段々と遅くなり、彼女を目の前にして、ついには立ち止まってしまった。
「いっくん」
視線をあげた彼女が、名前を呼ぶと、彼はゆっくりと席に着き、窓の外を見つめた。口を開くことはなかった。店員が近づくと、ホットコーヒーを、と伝えると、再度口をつぐんだ。去っていく。窓の外は陽の光を雪が反射し、目に痛いほど、まばゆく光っていた。
「いっくん、あのね」
天気を話しだしそうな、羽が舞うようなかろやかさを感じる声に、ぴくりと本多の睫毛が揺れる。
「私……こんなのでごめんね」
店内はまだ客もまばらで、彼女の小さな声は、ぽつんぽつんと落ちていく。
「いろいろ考えてたんだけど、いろいろ考えても、もうダメなんだなってどこかで気が付いてたのに、私、私のことばっかりだったね」
コーヒーから湯気がゆらりと立ち上り、空気の中に霧散していく。
外の雪はどんどんと溶けていく。その様を、ただ静かに見つめている。
「私、いっくんのことが好きだから、――だから、別れよっか」
小波は笑った。
カランカランとドアを開ける音、窓から差し込む陽光、外を歩く人の流れ、木々が揺れる、すべてがゆっくりと消えていく。本多は窓の外を見続ける。
「それでも、俺、君のこと好きみたい」
言葉と共に、落ちた涙は、いつか見た春の色をしていた。
了