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    gohan_oic_chan

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    gohan_oic_chan

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    みかマリ不思議系話

    蛇と苺 空から降り注ぐ雨は風にはためくカーテンのように、地面に軌跡を描いていく。網戸越し、砂が流れるような音の合間、ぴたんぴたんと不規則に雨粒がコンクリートに叩き付けられる音が聞こえてきた。
     ゴールデンウィーク三日目になっても勢いの衰えない雨雲を見上げながら、園芸部の花壇は果たして無事だろうかと男は思いを馳せた。普段はベランダに出しているプランターで手狭になった部屋の中は草花の匂いで充満していた。
     いつも通りの時間に起床したはいいが、こうも天気の悪い日が続くとなるといい加減手持無沙汰だ。テレビをつける習慣もない彼は致し方ないとでも言わんばかりに立ち上がると、キッチンへ足を向けた。
     朝食が最後の一枚になったライ麦パンになることは自然と決まっていた。彼はトースターラックに保管していたそれを取り出す。冷蔵庫の中から生ハムとクリームチーズを手に取り、それから蜂蜜も一緒にカウンターへ並べる。紅茶用の茶葉があったことも思い出すと、電気ケトルの電源も入れた。
     ティーポットを洗いながら、今日は一日どう過ごそうかと思考を巡らせる。たまには水回りを大掃除してもいいし、なかなか読み進めることができていない文献を漁るでも構わない。次の課外授業に向けてのリサーチでも、と案はいくつも湧いてくる。何か作業をしていなければ余計なことを考えてしまいそうな焦燥感が、じんわりと彼のうなじのあたりを熱くさせた。
     プラスチックケースにこびりついたチーズをスプーンでこそぎ落としているところで、ドアが開いたことに気が付いた。
     顔を向けるも、そこには誰もいない。ふと、視線を下に向ける。
    「わっ」
     緩慢に見える動きに反する移動速度に驚くことはこれが初めてではない。既に足に絡みついていた彼女に、彼は「驚かさないでくれよ」と胸を抑えながら話しかけた。
    分かっているのかいないのか、彼女の首をもたげる動作に気の抜けた笑みを零し、ほら、いいからどいたどいた、と冷蔵庫に入っている彼女の食事を取り出した。
    「相変わらず早起きだな。――今日のべっぴんさんは小ぶりだけど、今のお前にはちょうどいいか」
     彼がカラカラと笑いながらそう言うと、彼女はチロチロと舌を出し応えた。
    「なんだかご機嫌だなあ、真面目ちゃん」
     眉間のあたりを指で触れる。くすぐったそうに見えるのは気のせいなのかもしれない。白い鱗を身に纏った蛇は、差し出された苺にゆっくりと牙を立てた。



     蛇。爬虫類有鱗目ヘビ亜目に属する四肢の退化した爬虫類の総称である。
    「かわいらしいお顔をしていますよね」と言ったのは柊だった。ゴールデンウィークが始まる前、最後に四人で昼食を共にした時のことだ。今度みんなで動物園に行くのもいいんじゃないか、という話から、昔は動物園で蛇とふれあい体験ができたらしい、という話題になったのだ。
    「わざわざ触りたいとは思いませんけどね」と氷室が続けざまに言った。
    「そうですか? 僕はちょっと気になります。蛇を題材にした古典作品もいくつかあるわけですし。古来より、人が惹かれてしまう魅力があるんだと思いますよ」
     古典作品、という言葉に氷室は「ああ、遠野物語とか?」と尋ねたが、その名にピンとこなかったらしい柊は頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような顔をした。
    「夜ノ介はそういうとこ真面目ちゃんだよな――本家真面目ちゃんは、爬虫類とか平気なタイプか?」
     そう御影が言って、三人の視線が集まった先、定食を食べていた少女は口元に手を当て、急いで白米を飲み込んだ。間を置いて、「うーん」と困ったように首を捻る。
    「どうでしょう、道端とかで遭遇したらちょっと……」
    「苦手ですか?」と残念そうに柊が尋ねる。
    「ううん、夜ノ介くんじゃないけど、実際に見てみたらかわいいって思うかも」
    「じゃあ二対二だ」と氷室が言った。
    「二対二って、俺は別に嫌いとは言ってないぞ」
    「それなら僕だって別に嫌いとまでは言ってません」
    「なんだよそれ」
     全て食べ終えた御影は麦茶を煽りながら、負けず嫌いな年下の友人をからかうように笑った。
    「でも小次郎先生は哺乳類派でしょう」
    「まあそうなんだけどさ」
     彼の脳裏によぎるのは実家にいる愛しの恋人だった。爬虫類にとりわけこだわりがあるわけではない、というよりは、植物や変温動物とは異なる、直に温もりを感じることのできる哺乳類の魅力は格別だと前置きをしてから、彼は意味ありげに笑う。
    「でもまあ、顔がかわいらしいっていうのは俺も同意見だな。黒くて真ん丸な目なんか特にさ」と言葉を続けたのは、納得いかないような顔をする氷室の表情が見たかっただけだった。



     ゴールデンウィークが始まると、それまで続いていた晴天が嘘だったかのように、天気は荒れた。東シナ海で発生した低気圧が西日本から北日本に向かって時間をかけて進んでいくそうだ。初日の朝、本降りになる前にと御影は園芸部へ顔を出していた。台風の前のような湿気を含んだ強い風が、レインコートのフードを剥ぎ取り、彼の長い髪をなびかせた。家にあった予備のブルーシートを手に、足早に花壇へ向かう。朝六時前ということもあり、生徒の影一つない。一人で作業を済ませると、背後から「御影先生」と声がかかり、振り返る。
    「――よお、どうしたんだよ、真面目ちゃん」
     そこには見慣れた生徒が立っていた。彼女もまたレインコートを着込んだ姿で立っていた。
    「花壇は大丈夫か心配になって」
    「風強いのに無理するなよ」
     そう話している間も、強い風が二人の間を駆け抜け、自ずと二人の声は大きくなっていた。
    「御影先生だって来てたじゃないですか」
    「そりゃあ俺は先生だからな」
     少女はふふっと笑みを零すと「何か手伝えること、残ってますか?」と尋ねた。
    「ああ、そうだな――風に飛ばされそうなもの片づけるの、手伝ってくれないか」
    「はい」
     手早く進めたこともあるが、もとより外に出しっぱなしの備品もほとんどなかったため、早々に片付け終えると、御影は「御礼に送ってく」と少女に声をかけた。手伝い自体がそのための言い訳づくりなことは傍から見れば一目瞭然だったが、少女は目を丸くすると「はいっ」と嬉し気に応えた。二人でバイクを停めていた校門裏から、彼女の家に向かって歩き出す。
    「にしても、折角の休みなのに、わざわざ学校に来るなんてほんっとに真面目ちゃんだな」
    「花壇のことが気になって目が覚めちゃったんですよ――なんて、本当は受験勉強の息抜きです」
    「はは、そりゃ大事だな」
    「今両親が遠くの親戚の法事に行ってて、家の中が静かすぎてっていうのもあるんですけど」
    「へえ、大変だな。暫くいないのか?」
    「ついでに旅行もしてくるらしいので、一週間はいない予定ですね。期間限定の一人暮らし気分って思えば、少し楽しいんですけど」
     でも流石に一週間ともなると暇じゃないか? と尋ねる。彼女は珍しく気まずそうに「そうでもなくて」と言った。
    「なんだ? 遊びの予定詰め込んでんのか?」
    「まあ、予定が本当に入らなかったらっていう話なんですけど」
    「花椿達か?」
     花椿姉妹の名前を挙げたのは、クラスの中でも一番仲が良さそうに見えるから、以外の理由はなかったが、彼女は御影の問いに、一度言葉を詰まらせた後、意を決したように答えた。
    「玲太君が」
    ――そういえば家が近いんだったな、と言いながら、御影は殊更優しく声を出すよう注意を払った。少女はこれもまた珍しく、御影に目も合わせようともせず、「先生は?」聞き返した。
    「俺はいつも通りべっぴんさんたちのお世話だな」
    「――もし、予定が空いてるなら」
    「気い使うなって。高校生のうちに同級生と遊べるっていうのも今のうちだけだぞ」
     御影は意図して同級生、と言う言葉を使った。
     雨が二人の合間を濡らした。
     彼女は不意に足を止めた。御影もすぐに歩みを止めると、振り返って彼女を見つめた。
    「どうした?」
    「御影先生は――」
     彼女がその先、何を言うつもりなのか、想像ができた。それと同時に、眉を下げ目元を細める御影の表情を見て、彼女が言葉を詰まらせることも、御影は気が付いていた。
     ずっと遠くの空で、雷の気配がした。
    「やばくなる前に急ごうぜ」
     彼の言葉に少女は「はい」と素直に返事をすると、御影のもとに駆け寄る。途中、水たまりに彼女が足を踏み入れると、水しぶきがおきた。きゃあと軽い悲鳴と、御影の飄々とした笑い声が重なった。
     再び歩き始め、御影は自身の胸がざわつく感触を宥めていた。幾度も通ったことのある道筋や、見慣れた横顔を見て湧き上がる感情に、罪悪感と優越感とに挟まれ、慈しみ、と歪に名前をつけると、見ないふりをして取るに足りない会話を続けた。
     間もなくすると、彼女の家にたどり着いた。
    「タオル持ってきますよ」
    「悪いよ。洗濯物増えるだろ」
    「先生と違って溜め込んだりしていないので」
    「――言ったな?」
    「ふふっ、ちょっと待っててください」
     気を取り直したらしい彼女は、レインコートを脱ぐと駆け足で家に入って行く。家の中は暗く、彼女が言っていた通り、家人が誰もいないことが察せられた。少女の足音がおそらく洗面台の方に行くのを聞きながら、御影は通された玄関にある靴箱の上、飾られた写真に目をやった。入学式の頃だろうか。家族三人で笑顔を見せる彼女の姿は、随分と幼く見えた。
     ぼんやりとしていたところで、突然バタンと大きな音が鳴った。何か物を落としたのだろうか。まさか転倒をしていたりするのでは、と御影は慌てて「大丈夫か?」と家の中へ声をかける。暫く聞き耳をたてていたが、返事はなかった。
    「上がるぞ」
     と声をかけ、音が鳴った方へ向かう。入った部屋は思った通り洗面所兼脱衣所だった。しかし居るはずの彼女の姿は見えず、つい先ほどまで彼女が身に着けていたはずの衣服だけが洗面所の前に無造作に落ちていた。持ち出すつもりだったと思われる、バスタオルも投げ捨てられている。
    「おい、どこだ」
     再度声を上げるも、どこからも返事は聞こえない。他の部屋も見て回ったほうが良いかと辺りを見回したところで、床に脱ぎ捨てられた服がもぞもぞと動いていることに気が付いた。咄嗟に服を持ち上げる。その拍子、カップ付きのキャミソールが床に落ち、ぎょっとしたのも束の間、「おわぁ!」と大きな声を出し、御影は後ろのドアに背をぶつけた。
     そこにいたのは体長二十センチほどはありそうな白い蛇だった。
    「……」
     黒く丸い瞳と暫く見つめあう。時計の針の音がやけにゆっくりと聞こえてくる。
    「――美奈子?」
     御影が問いかけたのはほぼ無意識だった。
     白い蛇は頷くように頭を垂れた。
     
     彼女の服のポケットに入っていた鍵を拝借して扉を閉め、鍵はポストに入れた。口ぶりからして両親が戻ってくるのはゴールデンウィーク最終日だろう。緊急連絡先に登録されているはずの彼女の両親の携帯電話番号は許可を取れば確認できるが、果たしてこの状況をどう伝えれば信じてもらえるのだろう。
     自宅に戻った御影は、連れ帰った蛇が、彼の隣、ソファの上で微動だにせず寝そべっている様子を見ながら、暫く思案に更けていた。
    「なんでこんなことになったんだ」
     直前までの行動を振り返るが、一切の予兆はなかった。突然としか言いようのない現象に深くため息を吐きだした。病院へ、とも考えたが、彼女を病院に連れていくことが適切なのか、自分が病院へ行くことが適切なのかも判断が付かない。暫くすると、彼女が首をもたげた。どうかしたのと見ていたが、オロオロとしたような様子にはっとする。
    「悪い――一番不安なのはお前なのに」
     御影はそう言って、蛇に人差し指を差し出した。蛇は自分の額を押し付け、首を左右に振るような動作をして見せた後、舌を出して見せた。「気にしないでください」と、今にも声が聞こえてきそうだった。
     その瞬間、御影の腹が鳴った。朝食をとるよりも先に家を出たことを思い出す。ははは、と御影は笑って見せると、「とりあえず、飯にするか」と立ち上がった。
     生憎、御影も生物学教師とはいえ、爬虫類の飼育方法に関して明るいわけではない。しかしそれでも肉食性であるという程度は認識しており、まず思いついたのは冷凍のラットやひよこだったが、すぐに準備することは難しい。加えて、実際の蛇のような食生活をして問題がないか、甚だ疑問である。
    「なんか気になるもんとかないか?」
     こうなれば本人に聞いてしまうのが一番だ、と蛇の体を持ち上げ、肩にかけた状態で冷蔵庫の中を見せる。彼女は興味深そうにまじまじと冷蔵庫の中を見ていたが、やがてゆっくりと首を伸ばした。そこにあったのは、先日二人で食べたフルーツサンドを作った時に余った苺だった。
    「……食べれんのか?」
     聞けば、黒く丸い瞳がまじまじと見つめてくる。試しにパックから一粒取り出し、口元へ運んでやれば、彼女は大きく口を開いて噛みついた。やがて関節が外れてしまいそうなほどさらに口を開くと、ゆっくりと苺を飲み込んでいく。御影は思わず息をのんでその様子を眺めた。普段、咀嚼をする際には手で口元を隠す彼女と、今の光景があまりにもかけ離れすぎており、今更ではあるが夢を見ているような気分になった。
     蛇が苺を一つまるまる飲み込んだ後、もう一つ食べるか? と再度口元へ運ぶが、彼女は左右に首を振る仕草をして見せた後、するりと御影の体から降りていく。好きじゃなかったかと聞けば、また首を振って見せ、逃げるようにキッチンとリビングを仕切る扉の裏に回り込んだ。どうかしたのかと見つめていると、おずおずと御影を覗くように顔を出す。
     ああ、と御影は腑に落ちた声を零した。
    「悪い悪い、見られてちゃ食べづらいよな」
     蛇はバツが悪そうに、ちろちろと舌を出した。
     
     先輩から連絡きませんでした?
     そう連絡が氷室から来たのはその日の晩のことだった。
    「いや? 来てないぞ」と御影が飄々と答えられたのは、一紀から連絡が入っていたことは少女の携帯電話も持ってきていたことで把握しており、そのうち状況確認で自分にも連絡が来るかもしれないと予想できたためであった。さらに言えば彼女は御影の家には居るが「連絡が来た」わけではない、と体のいい言い訳も添えながら、彼は平常心を保っていた。
    「そうなんだ」
    「どうかしたのか?」
    「折角だからみんなで動物園に行こうかと思ったんですけど、携帯が繋がらなかったんで。何かあったのかと思って」
    「まあそういう日もあるんじゃないか?」
     そうですね、と答えた彼の返事は多少落ち込んでいるようだった。申し訳なさから何か声をかけてやりたい心持ちになるが、しかし本当のことを言うわけにもいかず、元気出せよ青少年、とわざと明るい声を投げかける。「じゃあまた今度声かけます」と通話は一方的に切られた。
     かわいー奴、とひとりで笑っていると、ソファにいた蛇はピクリと反応したようだった。振り返り、「一紀ってほんっと真面目ちゃんのこと大好きだよな。めちゃくちゃ心配してたぜ? この調子だと、戻ったら着信すごいことになってるかもな」と笑いながら言うと、蛇は緩慢な動きでとぐろを巻き、顔を隠してしまった。
    ――戻れるかどうか確信も得られない状況で、「戻ったら」と口にしたのが悪かっただろうか。御影としてはあえて発したワードではあったものの、急ぎすぎたかと頭を掻いた。しかし、絶対に戻ると自分が信じてやらなければ気落ちするばかりではないか、と思い直すと、「戻ったら遊びに行きたいところ、今のうちにいっぱい考えとこうな。夜ノ介や一紀とでもいいし、二人でもいいし」と明るく声をかけながら、御影もソファへ腰かけた。蛇は顔を出すと、上下に首を振った。


     朝。普段ならカーテンの隙間から差し込んでくる淡い光の代わりに、昨日よりも勢いを増した雨音が頭上から響いてくる。暗い部屋の中で伸びをしながら起き上がる。伸びた髭を摩りながら、洗面所を向かう。身支度を整え、リビングに入ると、ソファで寝たはずの彼女の姿が見えない。
     昨日は悪い夢でも見ていたのだろうか、と思いながらも「おーい、おはよー」と声をかけ、プランターでひしめくリビングダイニングをぐるりと見渡す。すると、緑の隙間を縫うように横たわる白い体に気が付いた。目があいたまま、微動だにしない姿にドキリとして、ローズマリーを掻き分け、その体表に触れる。ざらりとした鱗の感触から、体温は感じない。
    「美奈子?」
    零れた声は、引きつっていた。しかしすぐにゆるりと身じろぎする様子が見えると、胸をなでおろし、椅子に腰かける。ビビらすなよ、と一人静かに呟くが、まだ彼女は夢の中にいるのだろうか、ローズマリーに囲まれたまま、その場から動く様子はなかった。
     雨が強く降っている。二人の知らない遠い空で雷が走った。

     蛇の出る作品と言えば、古くは古今著文集にも記録があるらしい。中世以降でいえば、安珍・清姫伝説や、雨月物語といった現代でも親しまれている作品もある。中国の四大民間説話である白蛇伝も、幾度も映像化をされており有名だと言えるだろう。ここ最近では、芥川賞を取った小説でタイトルに蛇がついていたものもあったな、と珍しくスマートホンで調べものをしながら御影は頭を捻っていた。
     蛇という生き物から連想される執念深さや大酒のみ、果ては気味悪さといったイメージと、どうにも小波美奈子と言う人物の共通点が思い浮かばず、ますます何故このような状況になったのか皆目見当がつかなかった。
     彼女は今日の朝もひとつ苺を食べただけで満足をしたらしく、しばらくは「気にいったんなら、ちょっとくらい触っていいぞ」と御影が勧めたシュロチクやパキラに機嫌よさげに登ったりもしていたが、今はまた寝ているのかリビングの椅子の上でじっとしていた。
     水やりをしながら、横目で彼女の様子を見ていた御影は体調でも悪いのかと声をかけるが、彼女は左右に首を振るばかりだった。
     普段から我慢する節があるのであまり信用はできないが、調べてみると蛇に触る行為――ハンドリングと呼ぶらしい――もストレスになることがあるらしく、思えば昨日は遠慮もなしにべたべたと触ってしまったなと頭を掻いた。そもそも、体長二十センチほどで細身の真っ白な体、黒い瞳の蛇という条件で調べても該当する種類を見つけることができておらず、何を好み嫌うのかすら予想が立てられない。
    「あのさ、美奈子」
     いい加減、名前で呼びかけることも抵抗がなくなってきたなと御影は苦笑いをしながら、ソファに座って声をかける。
    「もしお前が嫌だなってことを俺がした時は、首を振って合図してくれよ。逆に良いなって時には舌を出してくれたらさ、俺も少しは望んだようにしてやれるし――いいか?」
     彼女は間を置かずに、ちろりと舌を出した。そこで思わず額を撫でようとして、手の動きを止めた。御影の頭の中では「過剰なハンドリングはやめましょう!」と大きくポップな字体で記載されていたホームページが思い出されていた。しかし蛇は自分の体を伸ばし、自ら彼の掌に頭を擦り付けると、舌を出した。

     彼女と二人でスマートホンの画面を見ながら今度はどこに出かけようか、とほぼ一方的に御影が話しかけているうちに、夕飯の時間になっていた。
     ゴールデンウィーク前に冷凍しておいた鶏肉の残りがあることを改めて確認すると、中華麺と、キュウリやトマトや卵、それ以外にもオクラやレタスを並べ、冷やし中華を作る準備を始めた。タレも、酢とごま油と砂糖で時間をかけずに作り上げる。
     蒸し鶏を作り終えたところで、ふと思い付きで「蒸しちまったけど、鶏肉はどうだ?」と傍で待機していた蛇に一欠けらさしだしたが、彼女は首を横に振った。ふうん、と御影は苺を取り出し差し出してやる。蛇は舌をちらりと出して、苺に噛みついた後、そそくさとその場を離れた。やはり、初日に食べているところを見られたのがよほど嫌だったらしい。
    ――分かっていたことではあったが、改めて調べてみても蛇が苺を食べるという習性は全くなく、ヘビ苺も迷信からつけられた名称だそうだ。だからこそ、この蛇として異様な食事が、彼女が人である、という証明となっていた。
     きっかけは分からないとはいえ、状況が改善する可能性はまだ残っているのだ。
     御影は器に乗りきらなかったトマトの半分を手に取り、口に入れた。うん、うまい。彼女は部屋からじっとその様子を見ていた。



     三日目の昼頃、朝の元気はどこかに消えてしまったかのように、動く様子のない彼女の額を指で撫でながら、御影は蛇の生態を引き続き調べていた。時折視線を向けると、彼女はちろちろと舌を出しサインを送ってくる。考えてみれば、こんな状況になる前は不用意に触れたりすることなど絶対になかった。当たり前だ、と内心思いながらも、しかし不思議と今の奇妙な関係に対する抵抗感が薄れている自分もいる。不謹慎と言われてしまうかもしれないが、言葉や立場に靄がかかってしまっている今の距離感の方が、ゴールデンウィーク前の二人の距離よりもずっと近くに感じられた。手ずから餌を与え、ちらりと舌を出し喜ぶ姿に、愛らしさがないと言えばウソになる。
     目と目が合った、そんな気がして御影は不意に視線を逸らした。
    「馬鹿か、俺は」
     ぽたりと血のように落ちた言葉は雨音に消えていった。

     夜、彼女は苺すら口にせず、早々にレモングラスの床についた。もしかしたら、と調べているうちに思い当たることはあったものの、通常の蛇の常識が通じないことは食事からも明らかだ。心配のしすぎかもしれないが、明日以降も動きが少ないようであれば病院に行くよう提案してもいいかもしれない。そんなことを考えながら、部屋の電気を消した。雨音が静かに部屋の中を満たしていく。

     夢を見た。
     見たことのあるシチュエーションだったが、すぐに夢だと気が付いたのは、彼女が「小次郎さん」と普段では呼ぶことのない呼び方で、彼の名を呼んだからだった。人の姿をした彼女と自分はピンク色に波打つ浜辺を二人で歩いていた。時折、飛沫が足元を濡らすが、冷たさは感じない。夕焼けが二人の輪郭を赤く照らし出す。
    「小次郎さん」
     再度名を呼びながら、駆け寄ってきた彼女は手を伸ばし、そっと御影の胸に手を触れてくる。普段の彼女であれば決してすることのない行動に見開かれた薄紫色の瞳の表面を覗き込むようにして、少女はふふっと笑いかける。その笑顔だけは普段通りの彼女だった。
    「私、好きな人ができました」
     途端、どろり水の中に引き込まれる感覚に、息を止める。彼女もまた、御影と共に落ちた。咄嗟に手を伸ばすも、彼女はするりとその手を躱すと、一人で光さす水面へ向かって泳ぎだす。目で追うが、眩しさに目を細めている間に、彼女の背中は遠くなってしまった。
     御影は口を開こうとするが、何を言えるわけでもなく、ただ一人沈んでいった。

    ――目が覚めると、そこには見慣れた天井があった。
     なんて夢を見てんだ、と汗で濡れてしまった額を拭う。衣類がへばりついた感触が全身を覆っていた。体を起こす。手をついた際、何かが指先に触れた。視線をやり、ひゅっと御影は息を飲んだ。いつの間に潜り込んだのか、彼女がそこにいた。レモングラスのプランターに暫くいたせいだろうか、レモンに似た香りが鼻先を掠めた。
     一瞬跳ねた心臓が落ち着いた頃には、もう彼女を移動させようとも思えず、タオルケットを彼女の体にもかけてやり、再度床につく。男女で一緒の布団に寝る状況に対する躊躇いもあったが、こんな状況では下心も何もない。額を指先で触れる。舌先が嬉し気に揺れた。御影は、くつくつと笑い、再度まどろみに身を委ねた。



     久しぶりに、カーテンから差し込む陽の光の眩しさに目が覚めた。起きると既に彼女の姿は無かった。
     リビングへ行くと、彼女は珍しく部屋の真ん中にいた。輪郭が陽光に照らされ、真っ白な体から光を放っているかのようだった。もぞもぞと動く様子に、何をしているのかとのぞき込む。彼女が先ほどまで居たであろう場所に、体表を覆っていた皮が残っていた。淡く黄色い、向こう側が透けて見えそうなほど薄いそれを、彼女は口にしていた。
     動きの鈍い原因の一つに脱皮の可能性があることも、脱皮後の皮を蛇が食べることがあることも分かっていたが、実際に目の当たりにすると得も言えぬ感覚があった。彼女だったものを、口にする彼女。
    脈絡もなく、久しく聞いていない気のする彼女の声の輪郭を思い出そうとする。しかし間もなく、それが叶わないと気が付くと、苦笑を零した。
    「――名前で呼んでもらっておけば、よかったなあ」
     御影は独り言を言うように、すべてを食べ終えた彼女の額を指で撫でた。
     蛇は舌を出さなかった。

     苺を三つほど飲み込んでから、いつになく機嫌よくプランターに潜り込んでは器用に移動する白蛇を見ながら、御影は焦りを感じていた。ゴールデンウィークも残すところ今日を含めてあと二日である。果たして本当に彼女が元に戻ることはできるのだろうか、という危機感が、うなじのあたりを熱くさせる。いい加減震えるスマートホンをこのまま放置していてもいいものかと思案しながら、溜め込んでいた洗濯物の処理に取り掛かった。ガンコ汚れ用の洗剤の残りが少なくなってきていた。
     途中、蛇がうろうろと御影の傍に寄ってこようとしたため「危ないぞ」と声をかけたが、離れようとする素振りは見えなかった。一旦作業を中断すると、片手で捕まえて、高さのあるパキラの上に乗せた。蛇は首を左右に振りはしたが、すぐにその場が落ち着いたらしく、するすると体を幹に絡みつかせ始めた。不安が募る。明確に口に出してしまうことを憚れるような、足先から体温を奪っていく気配を払うように、御影はぶんぶんと頭を左右に振った。

     夜になり、気を紛らわせようと調理を始めた頃、蛇もまたキッチンへと入ってきた。
    「今日はたくさん動いたから腹減ったよな」
     そう言って苺を差し出すが、蛇は口を開くそぶりもない。暫く待ってみたが、反応がないまま時間は過ぎた。けれども、じっと見つめてくる瞳は食事を求めている様子である。
     御影は、解凍し終えたばかりの鶏肉を手に取った。ゆっくりと口元へ運ぶ。蛇はおもむろに口を開き、鶏肉に牙を立てた。それから時間をかけ飲み込んでいく。御影はしゃがみ込んだまま、じっと蛇を見つめていた。
    「美奈子」
     名を呼んだ。幾ら待てども、蛇が反応を返してくることはなかった。

     その夜、御影はまた夢を見た。波打ち際に立つ二人。そこにいる彼女は二本足で立ち、笑いながら、御影へ歩み寄ってくる。小次郎さん、と名を呼ぶ彼女が御影の体に触れるその前に、御影は彼女の手を掴むとその細身の体を引き寄せ、力いっぱい抱き締めた。もっと早くこうしていればよかった。そう言ったのは彼女の方で、御影は溢れ出てくる感情が一体何なのか、分からないふりをして、ただただ腕に込める力を強める。抱きしめた彼女の体は、体温がなかった。夕日に影が溶けていく。覚めなければいいのに、と御影は夢の中でただ祈ることしかできなかった。



     ゴールデンウィーク最後の朝が来た。例のごとく、ローズマリーのプランターで朝を迎えた蛇を確認してから、御影は明日の出勤に備えシャツにアイロンを当て始めた。時折視界の角にも意識をやりながら、蛇が近づいてこないように注意を払っていた。
     この生活は果たしていつまで続くのだろうか。御影は、内心自分自身の思考の変化に戸惑っていた。より正しく言えば、この生活を続ける方法を探そうとしている自分に驚いた。
     その時、バイブレーション音が部屋に響いた。一度アイロンを置いてリビングテーブルに置いてあるスマートホンを手に取った。画面には風真の名前が表示されている。わざわざ休みの日の午前中に電話をしてきたということは何か急用だろうか、と慌てて電話に出た。
    「はい、もしもし――」
    「え?」
    「あ? え、わ」
     風間の反応に、御影はすぐに手に取ったスマートホンが御影の物ではなく、彼女の物だと気が付いた。
    「――何で御影先生があいつのスマホに出るんですか」
     声のトーンがいつもより数段低いように聞こえるのは気のせいではないだろう。
    「悪い、驚かせたな。部室に忘れてたのを俺が預かってるんだよ」と咄嗟に口をついて出た嘘に、ちくりと御影自身の胸が痛む。「はあ」と応える風真の声は訝しんでいる様子だった。
    「そういうわけでスマン、俺も部活で会う予定がないわけじゃないけど、何か伝えておくか?」
    「いや、いいです。美奈子に直接言うんで」
    「そっか」
     じゃあまた明日、と電話を切ろうとしたところで、「御影先生」と風真が引き留めた。
    「なんだ?」
    「――家にも帰っていないみたいなんですけど、部活には来てたんですか?」
     御影は思わず息を止めたが、それは一瞬のことだった。すぐに飄々とした声で「ああ、初日に会ったきりだけどな。ご家族も旅行に出られるって言ってたし、どっか友達の家にでも泊まってんのかもな」と言葉を続けた。
    「家に届けに行ってないんですか?」
    「家には行ったけど、居ないみたいだったぜ」
    「いつですか?」
    「だから、初日だって。なんだよお前、怖えよ」
    「――先生が牽制するみたいなマネ、するからじゃないですか?」
    「何がだよ?」
    「誤魔化さないでください」
    「誤魔化すったって、何の話をしてんだよ」
     風真が今の状況を知っているはずもないが、あたかもばれているのではないかと思うほど、深刻な声だった。
    「先生はあいつのこと、どう思ってるんですか」
     風真は苛立ちを隠そうともしない声色でそう続けた。
    「どうってそりゃあ、一人の生徒として――」
    「そうじゃなくて」と遮られ、まさに藪をつついて蛇を出す、の状況になってしまったと御影は冷や汗を流す。とはいえ、果たして御影の心からの回答で風真が納得するのかもわからない。ただ分かっていることは、風真が、小波美奈子に抱いている熱のこもった激情を、御影は持ち合わせていないということだけだった。また、少なくとも、御影にとっては風真もまた一人の大切な生徒だという前提が、彼の舌先に理性を宿す。
     丁度その時、蛇が目を覚まし、プランターから降りてくるのが見えた。するりするりと御影の元まで近づいてくると、ちろりと舌をみせた。
     黒い瞳が、御影を捉えた。
    「お前さ、自分の望んだ答えが欲しいだけなんだったら、何て言ってほしいのか、言ってみろよ」
     御影がそう言うと、重みのある静けさが広がっていった。足元に影が落ちる。日が昇ってきたのだ、と気がついたところで、すみませんでした、と風真は言うと、不自然な間をあけて通話は切れた。
     再び部屋の中に静謐が訪れた。御影はソファに腰を掛けると深くため息を吐いた。
     高校生相手に何を熱くなっているんだ、という落胆と、沸き立つ感情の消化方法がわからず、意味のない声を絞り出す。
     どこかで、今の選択が誤っていることは気が付いていたはずだった。下手に痕跡を消さず、警察になり病院になり、自分が異常者と思われようとも、連絡を入れるべきだった。もっと言えば、周囲にヘルプを出せばよかったのにもかかわらず、今、この部屋にいるのは、御影と蛇だけだった。
     足をつたう白蛇が、彼の思考を止めた。首を持ち上げ、御影の瞳を覗き込む。
    「腹減ったか?」
     尋ねながら、指先で額に触れる。何を考えているのか一切わからない蛇は、舌先を覗かせた。

     夜が来た。結局、明日からのことなど一切不鮮明なままに、時間だけが過ぎていった。夕飯を食べ終えた後も、眠気が訪れる気配はない。何度も寝返りを繰り返したところで、ため息をついて立ち上がる。結局彼女の両親からも彼女宛に連絡が入ることはなかった。明日くらいまで休みを取っているのかもしれないな、と思いながら、飲み物を取りにキッチンに向かった。廊下に出たところで、ふと、風が吹き込んできていることに気が付いた。戸締りを忘れていただろうか。リビングに入ると、初夏の風が頬を撫でた。月明りの差し込む部屋の窓際に、蛇の影が見えた。
     あ、と御影は気が付けば駆け寄っていた。
    「美奈子」
     声をかけても反応を見せることをしなくなっていた蛇は、不意に御影の方へ振り返る。手を伸ばす。それは蛇が首を伸ばしたタイミングとほぼ同時だった。
    「――った!?」
     親指と人差し指の間の肉に、深く鋭い痛みが走った。噛まれたのだ、と気が付く前に、御影は手を振り払い、蛇は床に叩き付けられていた。
     御影は蛇を見た。痛みはジンジンと熱を持つ。
     蛇は御影を見なかった。その瞳は月明りに照らされ、赤々と光った。
    「逃げるのか」
     御影は、無自覚にその言葉を口にしていた。蛇は知ってか知らずか、口元から舌を出す。
     喪失する実感よりも、まだ彼女の意志がそこに存在するのかもしれない可能性が、彼の胸を酷く締め付けた。強いアルコールを飲み込んだかのような、喉の奥から熱が広がる感触はすぐに引き、急速に体温が失われていく。
     湿気の籠る空気の中に、レモングラスとローズマリーの香りが滲んでいる。蛇は、それから御影へ一瞥もくれずに、窓からするすると抜け出すと、闇夜に消えた。暫くして、御影は堰を切ったように駆け出し、ベランダから身を乗り出した。
    湿度を孕んだ夜が、ただ辺りを包み込んでいた。風が吹く。御影だけがそこに居た。



     朝、差し込む陽の光に起こされ、髭を剃り、歯を磨き、顔を洗う。その際、右手の親指のあたりに鋭い痛みを感じ、手を翳す。うっ血したらしく、紫色の花弁が散ったような噛み跡が、静かに広がっていた。薄暗い部屋の中、掌越し、鏡に映る自分の目元には隈ができてしまっている。慌ててオーガニックの化粧水を顔に塗りこんだ。絆創膏を貼り、植物達に水をやった後は、コーンフレークにヨーグルトと苺の残りを乗せて腹を拵えた。
     日付表示機能付きの時計は何度見ても、ゴールデンウィークの終わり、月曜日になっていた。
     つなぎに着替え、スーツに皺が付かないよう袋に詰めると、机の上に置かれていた二つのスマートホンをポケットに入れ、部屋を出た。バイクに跨り道を走り出せば、水平線の向こう側から昇ってきた日は既に空に浮かび、水面は粉砂糖をまぶしたようにきらきらと光った。手に汗がにじむ。
     車の通りも少ない道をひたすら道なりに走り続け、前を歩いていたひとりを追い越したところで、御影は急ブレーキを踏んだ。コンクリートとタイヤの摩擦音は悲鳴のように鳴り響いた。
     恐る恐る振り返る。文字通り、頭のてっぺんからつま先まで、視線をすべらせる。当たり前だが、少女は二本足で立っていた。彼女は丸くした眼を細め、ゆっくりと笑ってみせた。朝日が二人の影を濃く縁取った。
    「おはようございます、小次郎さん」
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