瞬き さてどれがいいか、と彷徨う指先を追う視線を感じ取りながら、早く決めてしまわないとと焦りだす。けれどそんな心中も見透かしたように「ゆっくりでいいぞ」と言われると、なんだか子ども扱いをされているようで居心地が悪く、無作為に選んだ扉を開けた。
赤、緑、黄、白。なかには果たしてこれはどんな味がするのだろうかと想像もつかないような柄もある。多種多様なアルミ缶達がひしめく冷蔵ショーケースの中、最終的に選んだのは桃が描かれたピンク色のチューハイだった。
「チューハイって何と何が混ざってるんですか?」
「蒸留酒とソフドリだな」
「蒸留酒ってよく聞きますけど、種類か何かですか?」
聞けば嬉し気に話し出す彼の口ぶりが耳に心地良い。今まで触れることのなかった知識も彼が口にすれば不思議と理解が進む。以前授業で聞いていた時もそうだったが、歌うような軽さに、独特な声の質。どれだけ聞いても飽きが来ない。付け加えるとするならば、アルコールについての彼の造詣の深さから、今まで見たことのない表情を垣間見た嬉しさが、彼女の足取りを軽くする。
けれども、果たして彼が良い教師だったのかどうか、色眼鏡をかけてしまった今、自分は適切な判断はできないだろう、と小波美奈子は彼の横顔を見つめながら、どこか後ろめたさも感じていた。
「これでいよいよお酒を飲めなくなったのはイノリだけか」
「そうですね」
「四人で飲めるようになるのが待ち遠しいよ」
繰り返すそうですね、の声に感情が滲んでいないことを願いながら、おつまみはどうしましょうかと小波が言って、おつまみコーナーへ向かった。スルメや燻製された卵をカゴに入れながら、しゃがみ込んで蜂蜜を絡めたナッツを手に取った時、ふといつかの言葉を思い出す。
「そういえば、養蜂はどうでしたか?」
振り返り、あの日四人で迎えた卒業式で、彼が口にしていた言葉をなぞって出た言葉に、意外にも「失敗したよ」とバツの悪そうな顔が返ってきた。
「やっぱり難しいんですね」
「そうだなあ」
これが悪かったのか、あれが悪かったのかと口にしながら、彼女の隣にしゃがみ込む彼の姿は、どこか肩身が狭そうで、なのに高校在学時代と変わらない広い背中に、胸が苦しくなった。
「それで結局」
憶測を一通り語り終えた彼が手に取ったのは、枝豆を模したスナック菓子だった。
「女王蜂が逃げて、終わり」
懐かしむ彼の瞳の色を見て思い出す。フリージア、ライラック、カンパニュラ。高校生の頃、馬鹿の一つ覚えのように調べた花の名前は、あの頃確かに存在していた気持ちの証明だった。
***
一通り買い物を終え、歩き出したタイミングで、柊から氷室と一緒に乗ったタクシーが渋滞に巻き込まれたと連絡が来た。どうしようかと声をかける前に「じゃあ先にふたりで待っておくから気をつけて来いよ」とメッセージが続く。スマートフォンを見つめていた視線が、隣にいる彼に向く。空はもう夜に近づいており、星の明かりが遠くに見える。
「こっちだから」と、格段気にした様子もなく歩き始めた彼の両腕には、飲食物が詰め込まれたビニール袋が下げられていた。
徒歩十分もしないマンションに着くと、荷物を抱えた状態で器用にパスコードを打ちこみ、オートロックを解除し、エレベーターに乗りこみ、音が鳴る。それからあるフロアで降り、歩いていくと、一つの部屋の前で止まった。
「どうぞ」
ドアを開けて、そう言われた瞬間、心臓が変な跳ね方をしているなと自覚しながらも、彼女はなるべく平静を装いながら「お邪魔します」と足を踏み入れた。
部屋の中に入ると草花と土の独特な香りが鼻を掠めた。さっき買ってきた奴だけどと差し出されたスリッパに足を通し、奥へ進んでいく。丁寧に並べられた植物達とはうってかわって、部屋の隅にはまだ開けられていない段ボールが積まれていた。
「お前らが来ると思ってとりあえず必要なものは出して置いたんだが、あんまり期待しないでくれ」と恥ずかしそうに笑う彼の表情は、先生ではなくなってから、初めて見る表情だった。
「御影先生」
彼女がそう呼ぶと、どうした? と彼は尋ね返した。
乳白色の明かりがふたりの影を作る。外は既に夜の帳が下りていた。
「私、彼氏ができたんです」
口にした瞬間、時が止まったのかと思ったが、彼が「そうか」と返事をするまでに、時計はまだ秒針を刻んですらおらず、気が付けば、指先は痛いほどに冷たくなっていた。
期待と恐怖とがないまぜになり、薄紫色の瞳に映る自分の表情はまるで知らない他人のようだった。
「おめでとう、よかったじゃないか。っていうか、それなら今日はその彼氏に悪かったな」
御影小次郎は殊更嬉しそうにそう言うと、俺の引っ越し祝いどころじゃないなあと、まるで生徒の卒業を見守る教師のような口ぶりで笑顔を綻ばせた。
部屋の中、白い花が咲き綻び、外では星が瞬いている。彼は彼女を祝福し、そして彼女は高校生の頃自分が死んでいく様を、微笑みながら見送ることしかできなかった。
(了)