無花果の葉 ふたりは結ばれて、その後仲良く暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
目を覚ますと、タタン、タタン、タタン、と規則的な音と揺れが続いていることに気が付いた。
手をつき、身体を起こせば壁にはめ込まれた電子時計が、今、朝の6時48分だと教えてくれた。見慣れない、SOSと書かれた赤いボタンを暫く見つめた後、一畳程しかない部屋の出入り口付近にコンセントに刺されたままのスマートフォンを確認した。通知がチカチカと光っているのを横目に、窓のブラインドを開ける。
外は濃い青色のサテン生地の上にスパンコールをまぶしたような風景が広がっていた。船が自分のいる真下を通り抜けていくのを見て、自分の乗った電車が橋を渡っているのだと気が付いた。
そうして外の風景を眺めていると、ドアをノックされた。「はい」と返事をして間もなく、見慣れた顔が見えた。おはよう、と小声で呼びかけられてすぐ、彼女は布団を手繰り寄せる。
「何隠してんだよ」
「いや今絶対見られたくない顔してるの忘れてました」
くつくつと笑ったあと、「眠れたか?」と尋ねる彼の声は気だるげな車内の空気よりも優しい温度をしていた。
「ぐっすりと」と毛布で顔を隠したまま、彼女は答えた。
「そりゃ大いに結構。――で、だ。あと30分もすれば駅につくから、そのあたりで軽く食べて、それからフェリーに向かうのでいいか?」
「大丈夫です。あ、私折角ならうどん食べたいです。」
「ああ。朝からやってるところあるかな。まあ調べとくよ。」
徐々に布団を握る手を緩め、顔を覗かせ始めた彼女に、「どうだった? 初めて乗った寝台列車の感想は?」と彼が聞けば、彼女はんーと斜め上を見る。
「電車の中で靴をぬぐのって変な感じですね」
「そこかよ」
御影が教師を辞めて、1年が経ち、もう間もなく7月を迎えようとしていた。
駅の南口を出てすぐ、朝7時から営業しているうどん屋をちょうど見つけると、すぐに食べ終えた。想像以上に満たされた胃袋を宥めようと、港まで歩くことにした二人の頭上を、潮風が撫でていく。もうすぐ夏だなあと見上げる横顔に、小波は「今年の夏は何が採れるんですか」と尋ねた。
「今年はいつもどおり、キュウリに南瓜にゴーヤだろ? トマトも順調だし、ああでも梅雨が短かったからな。ちょっと育ちは心配だけど」
「ご実家に帰ってお仕事も大変だろうに、相変わらずですね」
「趣味だからな。土地だけはあるし」
「あはは、御曹司だ」
「やめろよ、その言い方」と御影はわざとらしく拗ねたような口ぶりでそう言うと、悪戯をする子供のように笑う彼女の頭を両手で包み、動物を撫でるように手を動かす。「髪が!」という彼女の悲鳴も笑い交じりだ。しかしすぐに道を挟んで二人を見た通りすがりの男性が、怪訝そうな顔をしているのに気が付き、二人はぱっと距離をとると、顔を見合わせ、くすくすと笑った。
それから他愛もない話をしながら歩いていると、
「あ、船が見えますよ。結構近いですね」
と小波は言うと、駈け出していく。御影もその背を追いかけるようにしてついていく。
「小次郎さん! 海、綺麗ですよ!」
「ああ、そうだなあ」
空から降ってくる海猫の鳴き声は、二人を出迎えているようだった。
揺れる船から降りると、蝉の鳴き声がけたたましく、思わず耳を塞ぎたくなるほどだった。
小波は心配そうによろめきながら歩く御影の背中をさすった。
「大丈夫ですか?」
「面目ない……」
「酔いが収まるまで、しばらく風に当たっていましょうか」
手を引かれてゆっくりと歩き出す。やっぱり自分は土の上が性に合う。そんな風に零す恋人に、小波はふふっと笑って見せた。
しばらく歩いたところにあった、砂浜を見渡せる場所に建てられた東屋を見つけると、設置されているベンチに二人で座った。海の向こう、遠くには今朝電車で渡った橋がかすかに見える。
「なあんにもないな」
「そうですね。 あ、お茶ありますよ。飲みますか?」
差し出されたペットボトルを「ありがとうな」と言いながら受け取ると、口に含む。飲み込んでから、海を見つめながら「ごめんな」と言う声はいつになく元気がない。
「折角なら美術館とか行きたかったろ」
「いえいえ、今日来たのもいきなりでしたし。それにはばたき市にも作品巡回とかありましたし」
「そっか」
沈黙の合間を波の音が通り過ぎていく。間を取り繕うように、「そういや、今年の夏は新メンバーも収穫予定だよ」と御影が徐に話し始めた。
「新メンバー? 何ですか?」
「無花果。去年から植えててさ」
「へえ、無花果って夏に食べられるんですね」
育てるのが結構大変でさ、と続く言葉に小波が耳を傾けながら、静かに時間は流れていった。けれどその時間もほどなくして終わりを迎えると、彼はまた、「ごめんな」と言った。
「なんで謝るんですか」
――昨日、と御影が言いかけてすぐ、小波は彼の口を両手で覆う。
言わないで、と震える目が切実なまでに彼に訴えかける。化粧で隠しているが、目元はまだ赤く腫れたままだ。
御影は何も言わず、彼女の手をとる。視線が交じり合った後、ふっとそらしたのは彼女の方で、そのまま御影を力いっぱい抱き締めた。彼はその背に手を置くと、なだめるように静かに撫でる。
木々が揺れる音と蝉の声が二人の背後から聞こえてくる。
「私、知らないふりなんてできないって、分かってるんです」と、ひねり出すように彼女は言った。御影は、そうだな、と言って、彼女をそっと抱きしめ返した。はるか向こうで汽笛が鳴った。
夕暮れになり、帰りの船に揺られて港に着く頃、またしても具合の悪くなった御影の肩を彼女が支えながら、二人はゆっくりと駅へ向かった。
「夕飯はもう少し後のほうが良いですよね」
「ほんっとうに、すまない」
「私も考えなしに島に行きたいなんて言っちゃってすみませんでした」
駅にある大手カフェチェーンに入り、漸く一息ついたところで、「次はゆっくり旅行したいですね。船はなしで」と小波はいつもの様子で笑った。御影も「そうだな」と力なく笑った後、手元のアイスティーの氷をストローでゆっくりと回しながら、静かに視線を落とした。
「俺さ、また、行くから」
彼の言葉に、彼女は何処に、とは言わなかった。
静かに揺れる、薄紫色の瞳がゆっくりと彼女を捉えた瞬間、不意に心臓が冷たくなった。
「はじめから、そうすんなりと受け入れてもらえるなんて、思ってなかったしさ」
「でも」
「もう、戻れないって、言ったろ」
店内に、部活帰りらしい制服姿の集団が入ってくる。まだあどけなさの残る、けれど身に着けている物やしっかりとした体躯から、高校生だろうと想像がつく彼女たちを、何処か目の端で追いながらも、二人は視線を交わし続ける。
「またちゃんと、ご両親にはご挨拶しに行くから、だから、あんまり不安そうにするなよ」
冷たくなった彼女の指先に、ジワリと熱がともる。そうか私は、この人と愛し合って生きていくのか。いつか教会で聞いた言葉を反芻しながら、小波はただ静かに頷くことしかできなかった。
(了)