💚💛好きな人が猫になりまして「嘘だろ……」
思わず声が出た。
目の前の光景をすぐには理解することができなくて、俺をラウンジまで引っ張ってきた二人を振り返る。
「嘘ならよかったんじゃが……」
「びっくりでしょ?」
どうしたものか、とうろうろして焦ってるパムと肩を竦めて首を振るなのと。二人の声に反応するようにぴくぴく、と動く黒いつやつやした耳を見て、「ああこれ現実なんだ」って認めざるを得なかった。
二人の「どうしよう」って言いたげな視線の先にいるのは、ラウンジのソファに行儀よく座る──と言うよりも、固まってる状態に近い丹恒だ。
「これさ、本物なのか……?」
そんな丹恒の頭には、見慣れてないわけじゃないけど、本来ならそこにはないだろって突っ込みたくなるような、有り得ないものがついてた。
真面目な丹恒に限って、変装してまで俺たちを驚かせようとするとは到底思えない。かと言ってすぐには丹恒の姿が現実のものだと信じていいものなんだろうか。
おそるおそる、髪の毛とは少し違う毛並みの三角の形をしたものに手を近付けると、それまでぴくりとも動かなかった丹恒が不意にぱちりと目を開いた。
「……」
「……」
「……にゃ」
「…………嘘だぁ」
俺とじっくりと見つめ合った丹恒の口からこぼれたのは、猫みたいな声。いや、みたいなんじゃなくて、多分、本物の鳴き声なんだと思う。声は丹恒のいつもの声だから、まるで真似て鳴いてるみたいに聴こえちゃうけど。
ずいぶんといい声の鳴き声で、思わず無言でわしゃわしゃと丹恒の頭を撫でてしまう。嫌がられるかなと思ったけど、目を細めて受け入れてくれたみたいだった。
姫子が言うには、丹恒が飲んでしまったソーダ水に問題があったんじゃないかってことだった。ラウンジのテーブルに置いてあったソーダ水の瓶。それを最初に「喉乾いたから飲んじゃお」と開けたのは、なのだったらしい。
けど、見覚えのない瓶を訝しんだ丹恒が、念の為に毒味を、って一口飲んだ。その途端に呻き出して、慌てたなのが半泣きでパムと姫子を呼びに行ったけど、ラウンジに到着した頃には既にこの姿になってたんだとか。
「そんなことある?」
信じがたい。でも、みんなで結託して俺を騙そうとするメリットなんてどこにもないのも事実だ。成分解析を依頼してるけど、まだ時間がかかりそう、と姫子が言った。
「列車を訪れる人はそれなりにいるから、犯人探しは難しいわね」
「バイタルに影響は?」
「耳と尻尾が生えた以外で、バイタルに問題はないわ、安定はしている。ただ、困ったことが一つだけあるの」
丹恒は耳と尻尾が生えて一部が猫化したと同時に、俺たちのことを仲間と認識出来なくなった。おまけに、コミュニケーションを取ろうにも「にゃあ」って鳴き声と唸り声でしか返せない。
忙しなく耳を動かしてる丹恒と目が合うと、声もなくにゃあって口を動かす。そんなことしたら本当に猫みたいだ、って思いながら耳を触ると、ツヤがあって触り心地がいいなあ、なんて思ってしまう。
「原因が判明して、丹恒を戻せるまではしばらく列車で待機になるわ。その間、あんたに丹恒を任せたいの。丹恒もほら、気を許してるみたいだしね」
話に耳を傾けるのに飽きたのか、はたまた疲れたのか。みんなの視線を一身に受ける丹恒は、少し前から俺の膝に頭を乗せてずっと喉を鳴らしてた。
正直それをみんなに見られるのがすごく恥ずかしいのに、丹恒を退かすのも憚られて、はは、と頬を掻く。普段なら有り得ない甘え方をする丹恒に対して、悪い気がしないのもいけない。
ぴるぴる、と動く耳にもう一度触れると、俺はわかった、と頷くしかなかった。
猫化したって言っても、結局のところ丹恒は外見の耳と尻尾以外はそのままで、ほとんど変わったところはないみたいだった。
不便があると言えば、たまに何か掴もうとして手が丸くなっちゃったり、カトラリーを持つのに苦戦することだ。
さすがに手掴みや皿に口を寄せて食べさせるってわけにはいかなくて、何かを食べる時は俺が食べさせてあげることにしたんだけれど。
最初は気恥ずかしかったそれも続けたら気にならなくなって、「丹恒、あーん」て口にするのが当たり前になった。慣れって怖い。
おまけに、はやく戻るといいなと思ってたのに、数日経つともう少しこのままでもいいかな、なんて考えるようになってしまった。
それは丹恒が調査や依頼で列車を出る事がなくなって、一緒にいられる時間が増えたことが嬉しかったからだ。最初はどう接しようかって緊張感からぎこちなかったり、うまくやって行けるのかと頭を抱えてたくらいなのに。
丹恒と一緒にお風呂に入って、髪を乾かしてあげて、毎晩同じ布団で寝る。膝枕で甘えられるのも頭を撫でることもごく自然に出来るし、気恥ずかしさも感じない。
「こうしてると、何か恋人同士っぽいよな」
「……にゃ」
言葉がわからないのをいいことに、自分の都合の良いことを口にした。鳴き声がまるで「そうだな」って言ってるみたいで、俺は調子に乗って丹恒の頭を撫でる。
落ち着くのかはわからないけど、丹恒は俺を背後から抱き込むようにして肩に頭を擦り付けることが増えた。シャワーを浴びて寝るだけの、ぽかぽかにあたたまった俺の体が気持ち良いのかもしれない。
「ん、ぁ、くすぐった……」
それと時々、丹恒はうなじに鼻をくっつけるようになった。それだけじゃなくて、あむあむと食むようにして甘噛みしてくる。
それを「戯れてるのかなあ」なんて、俺は呑気に考えてたんだけど、猫になった丹恒にとっては、どうやらそうではなかったみたいで。
翌日の夜、お風呂あがりに丹恒に抱えられながらアイスを食べてた時のこと。いつもみたいにうなじに鼻を擦り付けてた丹恒が、俺の唇の端っこを、ぺろって舐めた。
いつもはしない行動。なのに、それを押し退けることもせずに、間近にある丹恒の顔を、驚いてじっと見てしまってた。
反応がないことを受け入れのよしとしたのか、また舐める。今度は唇のまんなかあたりを、ことさらゆっくり。
「……にゃ」
「えっ、ちょっ、と……いまのは、」
何をされたか理解するのに時間がかかったのは、「犬や猫が飼い主の口を舐めるのはよくあること」ってなのが教えてくれたネットの記事がよぎったから。
猫化した丹恒にとってはこれは戯れの一つにすぎない、って頭が勝手に思い込もうとして、それが俺にとってはキスと同じだって認識するのが遅れた。
人間には少し痛く感じるざらついた舌が、二度、三度と繰り返し唇を舐めて。それが首筋や耳の下に移った時に、ようやく体が動いて、「だ、だめだ……!」って丹恒の口を手で押さえた。
止められたことに不満そうな声を出した丹恒は、目を細めると俺を布団に押し倒す。手に持ってたアイスのカップが床を転がって、ほとんど残ってなかったけど溶けかけてたせいか、白い液体が僅かに広がった。
「あっ……!」
「にぁ」
アイスに気を取られた俺の気を引きたかったのか、丹恒は甘えるように小さな声で鳴くと、倒れ込んだ時に捲れ上がった俺の服の裾を歯で咥えた。
あらわになったお腹に呼気が触れて、胸と背中が粟立つ。
ふん、てにおいを確かめながら鼻先で肌をなぞってた丹恒は、お臍のあたりでぴたりと動きを止めた。
「っ、ひ」
丹恒は、まるでおいしいものを味わうようにお臍のあたりをぺろりと舐め上げる。ざりざりした感触となまぬるさに、俺は声を漏らした。
そもそもこんなふうに肌を見せることも触れることも、誰にも許したことがない。なのに、丹恒が触れて、舌を這わせてる。
その事実に頭がくらくらした。
猫にとってはこれも愛情表現の一つであるグルーミングになるんだろうけど、あいにく俺も丹恒も人だ。いやまあ、細かく言ってしまうとちょっと違うんだけど、それは今は置いといて。
丹恒が猫化してるっていうフィルターを取っ払ってしまえば、してることは性交のための前戯と何ら変わりはなかった。
ただ、俺がやめろと突き放せば丹恒は行為をやめると思うし、本気で押し退けようと思えば殴りとばすことだってできる。
今の丹恒なら、きっと普段よりも簡単に形勢を逆転させることはできるとはずだ。けど、不快感どころか強く感じる気持ちよさに、俺の体も心も負けてしまってた。
それに、時々俺の反応を確認するみたいに何度も覗き込んで唇を舐める仕草がいじらしくて、どうしてもそっけない態度を取ることができない。
だめ、と、でも、が脳内を巡る。このままじゃだめだ。そう、思うんだけど。
「あんまり……痛くしないでくれよ、丹恒」
丹恒のことが好きって気持ちが、俺を止める全部を取っ払ってしまう。結局、俺は丹恒の欲求を受け入れて、そう言葉をかけた。
そんな俺に、わかってる、とでも言うようにキスを寄越して、丹恒はデリケートな場所を丁寧に舐めていく。
(丹恒、俺、どうなっちゃうんだろう……)
そう思いながら、俺は丹恒のつややかで毛並みのいい耳をそっと撫でた。
朝起きると、丹恒には耳も尻尾もなくなってようやく元に戻ってた。ほっとしたのに、少し残念な気持ちになる。
ひとつの布団で、まるで恋人同士のようにくっついて寝てた丹恒は、寝ぼけ眼だったのに、俺に「おはよう」って言われて訳がわからずにあたふたした。
俺を抱きしめて寝てたことに動揺を隠せなくて頭を抱えてる様がなんだかかわいい。
寝過ごした俺たちの分もちゃんと残しておいてくれた朝食を取りに行って帰ってきたら、丹恒がどんよりした空気を醸して床に座ってた。正座で。
「……俺は、その、穹に……何かしてしまったか?」
手渡したサンドイッチとコーヒーを食べずにずっと考えこんでた丹恒が、俺が食事を終えると同時に訊く。
「……なにかって、なに?」
「それは……」
「具体的には?」
意地悪な言い方だって自覚はあるけど、昨夜の俺の焦りとか、何の心構えも出来ないまま奪われたファーストキスやそれ以上の事を考えたら、このくらい許されると思う。
だってほら、丹恒から「好き」って聞いたわけじゃないし。
なにってそれは……、って言い淀んで唸り続けてた丹恒は自分の髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、
「お前が嫌がることを、してないかって」
俺を窺いながらそう言った。
そういう訊きかたする?って、俺は唇を尖らせる。
さっきまでは少し優位な立場にいたはずなのに、逆に追い込まれそうになってる。丹恒に抱いてる感情を丹恒自身は知らないはずなのに、まるで見透かされてるみたいでちょっと悔しい。
驚いたし戸惑いはしたけど、丹恒にされたことは「嫌なこと」じゃなかったし、俺は嫌がるどころか、受け入れた。
それは「丹恒になら何をされても構わない」って俺の意志に沿ったもので、猫化なんていう信じ難いことが起きて、習性に従っただけの丹恒の過失じゃない。
だから被害でもなんでもないし、俺が返せる答えは一つしかないんだ。
寝起きで少し乱れてたうえに更にぐちゃぐちゃになってる髪に触れると、丹恒の眉が下がる。
そういう表情しないでくれよ。かわいいし、ずるい。
「何もされてないよ。嫌なことは」
これは嘘じゃないし、現に丹恒は、「そこはだめ」って止めたところはそれ以上は舐めようとしなかった。そこは、とてもじゃないけど口にできない場所だったから。
もしも丹恒がやめなかったらきっと流されて「だめ」も言えてなかったし、その先はどうなっていたかわからない。
「ん?嫌なことは……?」
「丹恒が大丈夫だってこと、姫子とヴェルトに言ってくるよ。みんな心配してたんだからな」
気付いちゃいけないものに気付きそうな丹恒の言葉を遮って立ち上がると、何か言いたげな視線に背を向けて俺は部屋を出た。
小走りに廊下を走りながら熱くなる頬に触れる。うなじに残ってる噛み痕と甘い疼きは、しばらくおさまりそうにない。