キス・ザ・おひいさん「うわ……絶対荷物が大変だ……」
「それってジュンの普通では?」
ホールハンズの着信を読んですぐ口から飛び出したのはそれだった。仕事スペースでうるさく打鍵していた茨が口を利き、「うるさい」とも速やかに突っ込んだのだが。
話を聞き出されるハメになって、オレがおひいさんから「キャンプに行ってみたいね!」なんて送られたと知った茨はなぜかナギ先輩と自分も誘って、数ヶ月経って四人で旅行することになった今。荷物を分担できる人がいてくれるのは素直にありがたいが。
おひいさんが身に纏っているのがオレと同じ質素で平凡なハイキング用の服装のくせに、よくもアイドルらしく輝けたものだ。オレを揺らす手は汗の玉すらなくひんやりとしていて、枝先から珠簾のように差し込む木漏れ日が不規則な光の染みで顔を塗り、照らされる痩躯はまるで浮世離れした仙人のように見える。そもそもどうして今回がキャンプなのか聞き忘れたっけ。
周りの自然に鳴り響くのは、鳥や虫の鳴き声と、サクサクと木の葉を踏む二人分の足音だけ。実にひっそりとしている中、オレは静かに思いを馳せていた。
光が射す場所は、触れてしまえば人肌より温かいのだろうか、それとも体温と変わらないのだろうか、と。思うのだけは自由だから。
手を繋いでいるのも、ナギ先輩たちと一緒にいたときもしたことであって、オレたちの「普通」でもある。この人は凪砂くんたちも手を繋ぐといいねと茨を煽りもしたが案の定茨が嫌がってどうにもならなかった。
だからきっと遊びのようなものなのだ。貴族らしく天真爛漫でムカつくが深入りしないほうがよっぽど気楽だと知っている。
オレの視線に気づいたのか、おひいさんは目を細めて元気な声で突然森の静けさを破ってしまった。
「ジュンくん!ついに着いたようだね!向こうを見てほしい〜ねっ!」
「はいはい、声大きいんですもう……あ、見えましたよぉ」
一層光を増した紫色の双眸は既に到着を示していたのだが、見ればちょうど目的地らしき場所が目に留まった。遠くからビシャビシャと水の流れる音も聞こえてきて、近づくほどに青い樹海が薄くなり眩しい日差しを通してくる。
目的の、トレイルの観光名所だ。本来なら茨たちもついて来る予定だったが、ナギ先輩が足を痛めたとか言うから茨が心配してキャンプへと直行してしまった。かたやおひいさんは、まだ見たいと言うから二人きりになったわけで。
「眩しっ」
「うんうん、眩しくて良い日和(ひ・よ・り)!……わ、綺麗!」
阿呆な抑揚を聞き流しながら中に足を踏み入れたかと思うと、途端に視界が青でいっぱいになった。同時に熱気が波のように顔に吹きつけてきて思わず開いたほうの手を額にかざす。
満天の下には、青い岩の上を伝って流れ落ちる清水が水面へと白い泡を巻き上げていて、澄んだ滝壺のほとりは岩場になっていて、その上に生えた苔がつやっとしてさらに水の鮮やかさを強調し、美しくて先ほどまで歩いた道とはまるで異世界のようだ。もっと近づくと滝からかかる霧が涼しく立ち込め、太陽の暑さも跳ねる心臓も静めてきて心地良い。
「最高に素敵だね〜、行こうねジュンくん!」
「ちょ、転んだらどうするんすか、待ってくださいよぉ」
勇み足でオレを引っ張るおひいさんを先に行かせてしまうと、まず荷物を置くことにした。
上半身よりも長いバックパックが肩から滑り落ちるとすぐに一息ついたが、一刻も無駄にしないような勢いで手近の石にもたれさせてから、てきぱきと追いついた。
水辺にしゃがんだ若草色の後ろ姿。岩肌を歩く足音はうるさいのにこちらを振り向きそうにない。
髪をぐしゃぐしゃにしてやろう。
変な煩悩が頭を掠めたけれど、そんなの柄にもないしやめておく。おひいさんの隣にしゃがみ込んで、同じく景色を目に捉える。
太陽を反射してダイヤみたいに細かく光る水面はその表面張力を誰かさんの指先に壊され、仕返しするかのように水しぶきがおひいさんに向かって飛び散ってくる。それでも気にする様子もなく、穏やかな表情を浮かべながら、先ほどオレと繋いだ手で小さな渦を巻いている。水面下が心地良く冷たいということだろうか。
水をいじる仕草は彼らしく、上品ながらも可愛らしい。そのバランスを上手くとれているのは世界で彼だけなのではないだろうか。気を取られていると、隣から嬉しそうな声が耳に入った。
「ねえジュンくん、ジュンくんも海を感じてみるといいね!温かくてさすが夏!……って感じだね☆」
「確かに天気いいっすねここ。というか、大丈夫なんですか?もっと滝から離れていいですよ、ナギ先輩みたいに体調崩しちゃダメですからねぇ」
「ジュンくんの過保護!ぼくは大丈夫だから。ほら、冷たくて良いでしょ?」
「温かいか冷たいかどっちなんすか?」
騒々しい滝の音にやや大きな声を上げて話す必要があるのに、おひいさんはといえばいつもの声量とさほど変わらない。どうでもいいことをぼんやりと考えながら、手を水の中に突っ込んだ。
温かい。
おひいさんの言ったとおりに、水は日差しによって温められ、それでいて夏の空気よりも冷たくて、満遍なく指の周りを流れている。気持ち良くて、同じ感覚をおひいさんと共有し合っていると思うと、なんとも言えない何かが胸に込み上げてきた。彼も、楽しいといいけれど。
「はぁ……ぼくたち二人きりなんてね……楽園みたいだね」
「ああ。茨のやつ、閑散期に行くよう旅行を手配するとかなんとか言ってましたっけ」
「そう」
「そうですよぉ……あクソっ、そういえば向こうに釣竿を持ってかれたんだわ、釣りしたかったのに」
「……じゃあ教えられないね」
声が震えている。
「……はい?釣りのこと……え、急にどうしたんです、」
「だって、せっかくなのに他人の話ばっか」
「……」
見上げれば、おひいさんは、いつの間にか口を尖らせて暗い表情を浮かべていたのだ。手の渦巻きも止まっている。
なぜかは全く分からない。どうしてこんなに、彼のその姿にまた悪戯心が湧くのかと。しぶきでもかけてやろう、なんて。とんだ理屈だがそれで何かを洗い流せそうな、気がしてきて。
だってそんな台詞はどこから出てきたのだとか、オレはこの気分屋さんに何かまずいことでもしたのかとか、全てとばしすぎではないか。
分からない。顔が燃えるように熱い。
突然指の周りを水の流れが攪拌(かくはん)した。手が掻き上げたのはしぶきどころか、いつの間にかオレは水面下で細長くて温かいものと絡み合っている。
そうだ、どうしてか、おひいさんの手をとったのだ。オレは、オレからだろうか、手をとって、こんなに水に浸かっているのになぜか喉まで渇いていて。
おひいさんは突拍子もないことをしてしまったオレに目を瞠っている。そして、気のせいでなければ——頬に微かに赤みさえ出て見える。
他の人が来るかもしれないのに、ずるい。一瞬で警戒心があっけなくどっかへ行ってしまうのもそのままに。
「おひいさん」
「……っ」
「……だったらオレ、何を教えたらいいですか」
言い終えた頃には、言葉を紡ぐ口は既におひいさんの唇をそっと掠めていた。
触れそうで、触れない。上がった呼吸が顔に熱くかかるほど近い距離。期待するようにぎゅっとつぶったつぶらな目が、可愛い。そう思いながら、オレの頭の奥に何かが焼かれたような感覚があった。
蝶々のように儚い距離。欲のままに破られ、しっかりと彼の唇を塞いだ。
「っ、ん……」
ちゅ、ちゅっと水音が鳴って滝の流れと混ざり合う。唇を襲うキスに応えるような呻き声が、耳に入るより先に口を通して何度も喉の奥へと響いている。
そうしてはっと気づいた。
あ、おひいさんとキスしているんだ。
こんなの、オレたちなはずがない、いいわけねぇ、と。
離れようとしたのも束の間、するりとオレの首に片腕を回して抱き寄せてきて、それどころではなくなった。
「んはぁ、っ」
試しに唇を舌でなぞってみては、調子に乗ってしまい口の中へと侵入する。温い口内に舌を熱く包まれ、舌ごと唇を甘噛みするとおひいさんは小さく震えた。その姿に、オレまでつい喉を鳴らしてしまう。
「っ、ぁ、ジュンくん、」
名前を呼ばれると心臓がぎくりと跳ねた。もはや熱いとしか考えられなくなって、未だ水面下で繋いだ手と手を引っ張り出すと、ぱしゃんと水が大きく飛び散って服を濡らしていく。繋いだ手の先は、おひいさんの後ろにある岩であった。
「っはぁ……」
ぱっと唇を離し、おひいさんの様子を捉えてみる。彼は息を整えながら驚いたように目を大きくしており、白昼の太陽に晒された顔は違う理由で赤面している。
これはまずい。こんなふうに見つめられたことはない。オレは——
ああ本当にここは二人だけの楽園だな、なんて錯覚に陥るのは容易いことだった。
「おひいさん、オレ」
何か言わないと。ごめんなさいとか、その類の台詞を言い損ねているような不安を覚えているが。頭が真っ白なせいで思考がどうにもならない。
「ジュンくん、キスだとこんな獣だったとはね!」
「……は」
先ほどまで息切れしていたくせに、いきなりどうしたというのだ。
そう元気を取り戻したようであるおひいさんは、ニッと笑ってから上目遣いでオレを見上げてくる。
やべ、上目遣いもクソずるいんですよぉ。
「ぁんんっ」
というとなんだか煩わしく思えてきて。
どれほど経ったか分からない。壁ドンならぬ石ドンをし滝との距離を縮めたせいで先ほどより水しぶきをかけられ、岩にぶつからないようにおひいさんの頭を抱えている。髪も岩もびっしょ濡れだがどうでもいい。
バクバクと互い違いの鼓動で響き合う二人分の心臓、きつく抱きしめてくる腕、滝の水と混ざったよだれ、腫れた唇——全てが甘い刺激となって、もう止められそうにない。
こんなことは、あってはならないのに、この人は、おひいさんは応えてくれていて、しかも体をオレに委ねてくれているのだ。どういうことかと考えるのは無理に近いから、もうやめる。代わりにオレは何度もキスを落としていき、溺れていくのだ。
いつまでも慣れない眩しさは、本当に太陽なのではないかと思うほどに温かい笑顔で応えるだけである。
︵‿︵‿୨⚪︎୧‿︵‿︵
「二人とも滝を楽しめたようですね!あっはっは、自分も拝見したかったものです!」
「まぁ、まだ明日があるんですしねぇ。みんなで行けたらよか……っ」
「凪砂くん!足はどうなの?」
「治った。茨のおかげでね」
キャンプ場で、焚き火の火の粉が夜空に舞い上がるのを皆で座って眺めていた。オレがおひいさんと一本の流木に座って、ナギ先輩たちが別の流木に座ってと、やはり四人で静かな場所を独占できていて、改めて茨に感謝せざるを得ない。嬉しそうにマシュマロを串に刺して焼いているナギ先輩に対して、やや疲れたような視線を向けながら茨が口を開いた。
「閣下に、いつも手を煩わされて光栄であります☆まぁそんなことは置いときまして……ジュンたちは天気を良いことにがっつり水泳してたんですね、水の具合はどうでしたか?」
「ふん?ぼくたちは泳いでいないけどね!」
「どういうことかな、日和くん」
「おひいさん……」
キャンプに辿り着いて他の二人と合流したときには服の下の肌まで濡れそぼっており、二人から、特に茨に呆れられてすぐ着替えるよう説教された。少しノリで夢中になって我を忘れたため気づいていなかったが実際には結構オレたちは水を滝にかけられていたのだ。
顔の赤みは焚き火の光が誤魔化してくれと心の中で祈る。すると閃いたようにナギ先輩が眉を跳ね上げたから、次に発せられる言葉に思わず不安がこみ上げてきた。彼のその洞察力はいつも厄介なほどに鋭いのだ。
「楽しそう。私も滝を浴びてみたいな」
「……そっすね。明日行きましょうか」
「うんうん!四人で明日、釣りもしようね☆」
「それが、日和がキャンプに行きたかった理由?」
「うーん、そうだね。いろんな理由があるけど、要は四人と楽しい旅行がしたかったんだよね」
その瞬間どきりと心臓が大きく跳ねた。冷静に考えるふりとは裏腹に、おひいさんはぎゅっとオレの手を握り締めてきたのだ。それも、焚き火の光が届かない影がかき消してくれている。
そう言えば、オレはずっと聞き忘れているのだ。どうしてなのかということを。けれど、その先に続く言葉がわからず、質問が成り立たない気がした。
本当は聞きたいことが山ほどあるのに、聞いたらこのままの関係で終わるんじゃないかと思って、とっくにそこには突っ込むのをやめていた。
まぁ、今度二人きりになったときに聞いてみよう。そう決めてオレは、おひいさんの手を握り返しながら胸にとても柔らかな何かが芽生える感覚を密やかに受け入れるのだった。