熾火「下がれ!」
竦んだまま動けぬ少女の肩を掴んで背後へと押しやれば、逃げることすらできずにその場でへたり込もうとする子供を、編纂者である女が抱き上げ、走り出す。
「周辺地域及び住民の安全確保のため、ギルドはテオ・テスカトルの狩猟を要請します!」
「……拝命した」
大剣を背から引き抜き、紅蓮に燃える魔獣を睨み付ければ、灼熱が頬を炙る。初めて対峙する相手を目の前にした時の緊迫だけは、何年が経とうと変わらなかった。
卑小な人間を睥睨する王の双眼には、黄金色の炎が揺らめいている。
「来るよ!」
オトモのニクスの甲高い警戒声を、耳を劈く咆哮が掻き消した。大気をびりびりと震わせる大音声に、僅か足元が崩れる。額を流れ落ちる汗に視界を遮られ、瞬いた――その時。
「――目を離すな!」
飛鳥に似た影が、傍らを駆け抜けた。
鈍色の刃が魔獣の牙をがつりと受け止め、弾き返す。
長い亜麻色の髪が、鳥の翼めいてはさりと翻る。
――まさか。
嘘だ。
嘘だ。嘘だ。
だって。
あなたは。
あなた、は。
あれから。
なぜ。
思考は停止した場所でぐるぐると巡り続けるばかりで、言葉どころか、声すら発することができない。たたらを踏むように一度後退した炎王龍が、があ、と大きく口を開いた。
「何をしている! 集中しろ!」
炎を防いだ大剣で魔獣の胴を斬り上げ、返す刃を頭へと叩きつける。洗練された無駄のない動きに、隙のないしなやかな身ごなしに、微塵も衰えは見られなかった。
剣の柄を握り直し、脚に力を込めて、その隣へと並ぶ。
乱れる心を、喉を駆け上がりそうになる叫びを押し込めて、深く息を吸い、吐く。
「……ギルド所属、『鳥の隊』隊長、ナタ」
鎖に似た意匠を持つ白い大剣を構えながら、ナタは言った。
「テオ・テスカトルの狩猟及び討伐において、貴殿に助力を依頼したい」
真っ直ぐ前を見つめたままの青灰色の双眸が、その瞬間――微かな笑みを浮かべたようだった。
「――了解した」
◇
「お帰りなさい! よかった、無事で」
駆け寄ってきたノノに手を挙げて応えながら、あの子は、とナタは訊ねた。
「怪我はなかった?」
「少し足を捻ったようだけど、大事はないみたい。周辺の安全が確認でき次第、家に送って行くことになっているわ。ここから北に少し丘を上がったところで、お祖父さんとお兄さんと暮らしているんですって」
何だか他人の気がしないのよねと笑い――そうして、不意にぱちりと大きな目を見開く。
「ねえ……ナタ」
「……うん」
「この――方、」
ベースキャンプを行き交う人々を茫洋と眺めていた男が、やがてこちらを振り返った。年齢を重ねても変わらぬ類稀な美貌に、やわらかな笑みが浮かぶ。
「随分と、大きくなったな。ノノ」
「あ……え……じゃあ、」
やっぱり、とノノは叫んだ。他の隊から一目置かれる程の優秀な編纂者となった今も、時折出会った頃の小さな子供の面影が顔を出すことがある。男の周囲をぴょんぴょんと飛び跳ねるように巡った後、嘘でしょう! と大仰な声を上げる。
「信じられない! えっと、どうして――って云うか、今まで一体、どこに」
「……ノノ。こちらの方がテオの狩猟に協力してくれたんだ。報告書は任せてもいいかな」
「え? あ、それは――もちろん、いいけど、」
その、もの問いたげな目の言わんとすることは判っていた。
どうしたの。
嬉しくないの。
喜ばないの。
ずっと、ずっと、探していた人なのに。
「それにしても――」
ノノの戸惑いを知ってか知らずか、男はどこかのんびりと笑ってみせる。
「あの小さかった子供が、編纂者になったとは」
こちらを気にしながらも、大変だったわよとノノは笑ってみせた。
「特にお兄ちゃんがね。絶対赦さないー! って、大騒ぎ。ザトーさんが説得してくれて、渋々納得したんだけど」
「イサイは、息災にしているか」
「ええ。子供は四人になったわ。全員女の子。で――一番上の子、会ったことあるでしょ。あの子、去年から『鳥の隊』の見習いなの」
「……まさか」
さすがに驚いた様子で、男は長い睫毛を瞬いた。
青みを帯びた灰色の目と、やがて、視線が出会った。
「ハンターを、志してしていると云うことか」
「……はい」
「それは――おまえにとっては、昔の自分を見るようなものだろうな」
懐かしげに目を細める男の横顔から視線を逸らせて、そうですね、とナタは呟いた。
――先生の先生って、どんな人だったの。
無邪気な少女の問いに、何と答えればいいのか判らなかった。
強くて、優しい人だった。そして、遠い人だった。
美しく、不器用で、そして――
そして。
前触れも、言葉もなかった。
突然の別離を呑み込んでしまえる程自分は大人ではなく、泣き喚くことができる程子供ではなかった。残されたひと振りの大剣だけが、共に過ごした日々の、ただひとつの形見だった。
「……あの」
手袋の革が鳴る程握り締めていたこぶしを解いて、そうして、顔を上げる。
沈めた筈の深い深い淵の底で、じりじりと音を立てるものがある。
忘れることもできず、なかったことにもできず、ついに消すことのできなかった感情が、息づくような熱を帯び始める。
「少し――お時間をいただいても、よろしいでしょうか」
「……構わないが」
僅かに小首を傾げて、男は微笑んだ。
強張った表情に、硬い声色に、気づいているのかどうかさえ判らない。十二年と云う短からぬ歳月がそこにあったことすら、忘れているかのように。
「よろしければ、あちらで」
心配そうに眉を寄せるノノにはどうにか笑顔を向けておいて、テントのある方角を指し示す。
「お茶でも、淹れさせてください。先程の――お礼に」
先に立って歩き出せば、拒むことも異を唱えることもなく付いてくる足音に、心をきりきりと掻き毟られるようだった。それは未だに少しゆっくりとした歩調の、革のブーツの踵が刻む、聞き慣れた足音だった。ベースキャンプの片隅に設えた天幕の下で、その足音が聞こえる瞬間をいつも待っていた。真っ先に出迎えられることが、それだけで嬉しかった。
それが敬慕でも、親愛でもなかったことに気づいたのは、男が去った後だった。
「……おまえの茶は、美味かった」
ぽつりと呟いた男の声が、背中を叩く。
「ナタ。俺は――」
テントの前で足を止め、そうして、ナタは振り返った。
「――僕からも、あなたにお話したいことがあります」
天幕を開けて促すと、何も言わぬまま、男は従った。
忘れることなどできなかった。
なかったことにもできなかった。
そして――これ以上、押し込めておくことなど、きっとできはしない。
微かに、けれど確かに燃え続けるこの炎の名を、今は知っている。