熾火①「下がれ!」
竦んだまま動けぬ少女の肩を掴み、背後へと押し遣る。
その場でへたり込もうとする子供を編纂者である女が抱き上げ、走り出した。
「周辺地域及び住民の安全確保のため、ギルドはテオ・テスカトルの狩猟を要請します!」
「……拝命した」
大剣を背から引き抜き、紅蓮に燃える魔獣を睨み付ければ、灼熱が頬を炙る。初めて対峙する相手を目の前にした時の緊迫だけは、何年が経とうと変わらなかった。
卑小な人間を睥睨する王の双眼には、黄金色の炎が揺らめいている。
「来るよ!」
オトモのニクスの甲高い警戒声を、耳を劈く咆哮が掻き消した。大気をびりびりと震わせる大音声に、僅か足元が崩れる。額を流れ落ちる汗に視界を遮られ、瞬いた――その時。
「――目を離すな!」
飛鳥に似た影が、傍らを駆け抜けた。
鈍色の刃が魔獣の牙をがつりと受け止め、弾き返す。
長い亜麻色の髪が、鳥の翼めいてはさりと翻る。
――まさか。
嘘だ。
だって、あなたは。
あなたは。
あれから。
なぜ。
思考は停止した場所でぐるぐると巡り続けるばかりで、言葉どころか、声すら発することができない。たたらを踏むように一度後退した炎王龍が、があ、と大きく口を開いた。
「何をしている! 集中しろ!」
炎を防いだ大剣で魔獣の胴を斬り上げ、返す刃を頭へと叩きつける。洗練されていながら力強く無駄のない動きに、隙のないしなやかな身ごなしに、微塵も衰えは見られなかった。
剣の柄を握り直し、脚に力を込めて、その隣へと並ぶ。
乱れる心を、喉を駆け上がりそうになる叫びを押し込めて、深く息を吸い、吐く。
「……ギルド所属、『鳥の隊』隊長、ナタ」
鎖に似た意匠を持つ白い大剣を構えながら、ナタは言った。
「テオ・テスカトルの狩猟及び討伐において、貴殿に助力を依頼したい」
真っ直ぐ前を見つめたままの青灰色の双眸が、その瞬間――微かな笑みを浮かべたようだった。
「――了解した」
◇
「お帰りなさい! よかった、無事で」
駆け寄ってきたノノに手を挙げて応えながら、あの子は、とナタは訊ねた。
「怪我はなかった?」
「少し足を捻ったようだけど、大事はないみたい。周辺の安全が確認でき次第、家に送って行くことになっているわ。ここから北に少し丘を上がったところで、お祖父さんとお兄さんと暮らしているんですって」
何だか他人の気がしないのよねと笑い――そうして、不意にぱちりと大きな目を見開く。
「ねえ……ナタ」
「……うん」
「あちらの――方、って」
ベースキャンプを行き交う人々を茫洋と眺める男を差して、ノノは首を傾げる。
「わたしの勘違い? 他人のそら似……だったり、する?」
答えぬまま唇を結んだナタの視線の先で、やがて、男は振り返った。年齢を重ねても変わらぬ類稀な美貌に、やわらかな笑みが浮かぶ。
「――大きくなったな。ノノ」
「あ……え……じゃあ、」
やっぱり、とノノは叫んだ。
「エルヴェさん……!」
他の隊から一目置かれる程の優秀な編纂者となった今も、出会った頃の小さな子供の面影が時折顔を出すことがある。背の高い男の周囲をぴょんぴょんと飛び跳ねるように巡った後、嘘でしょう! と大仰な声を上げる。
「こんなところで会うなんて、どうして――今まで一体、どこに」
「……ノノ。この方がテオの狩猟に協力してくださったんだ。事後報告になるけど、要請の承認を頼む。それと、報告書はきみに任せていいかな」
「え? あ、それは――もちろん、いいけど、」
訝しげに細められた焦げ茶色の瞳が、問いたがっていることが何であるのかは知っていた。
どうしたの。
嬉しくないの。喜ばないの。
ずっと、探していた人なのに。
「それにしても――」
ノノの戸惑いを知ってか知らずか、男は穏やかに微笑んだ。
「あの小さかった子供が、編纂者になったとはな」
「あ――うん。それはもう、大変だったわよ」
こちらを気にしながらも、ノノは苦笑してみせる。
「特にお兄ちゃんがね。絶対赦さないー! って、大騒ぎ。ザトーさんが説得してくれて、渋々納得したのよ」
「イサイは、息災にしているか」
「ええ。四人子供がいるわ。全員女の子。一番上の子には、確か会ったことあるわよね。あの子、今『鳥の隊』の見習いなの」
「……まさか」
さすがに驚いた様子で、男は長い睫毛を瞬いた。
「ハンターを、志していると云うことか」
「そうなのよ。びっくりするでしょう。わたしも一応反対したのよ。生半可な覚悟でなれるものじゃないんだし。でも、絶対に諦めないって言い張るから、結局根負けしちゃった。今回は同行しなかったけど、頑張ってるわよ。ナタくんの弟子としてね」
「それは――」
灰色を帯びた青い双眸と、視線が出会う。
「おまえにとっては、昔の自分を見るようなものだろうな」
懐かしげに唇を綻ばせた男の美貌から緩々と目を逸らせて、そうですね、とナタは呟いた。
――先生の先生って、どんな人だったの。
無邪気な少女の問いに、何と答えるべきなのか判らなかった。
強く、優しい人だった。そして、遠い人だった。
美しく、不器用で、そして――。
そして。
前触れも、言葉もなかった。
突然の別離を呑み込める程大人ではなく、泣き喚くことができる程子供ではなかった。
残されたひと振りの大剣だけが、共に過ごした日々の、ただひとつの形見だった。
「……あの」
手袋の革が鳴る程握り締めていたこぶしを解いて、ナタは顔を上げた。
全てを沈めた深い深い淵の底で、音を立てるものがある。
忘れることはできず、なかったことにもできなかった。
消すことの叶わぬままただ押し込め押し遣った感情が、じりじりと熱を帯び始める。
「少し――お時間をいただいても、よろしいでしょうか」
「……構わないが」
僅かに小首を傾げて、男は言った。
強張った表情に、硬い声色に、気づいているのかどうかさえ判らない。
十二年と云う――短からぬ歳月がそこにあったことすら、忘れているかのように。
「よろしければ、あちらで」
気遣わしげに眉を寄せるノノにどうにか笑顔を向けておいてから、テントのある方角を指し示す。
「お茶でも、淹れさせてください。先程の――お礼に」
先に立って歩き出せば、拒むことも意を唱えることもなく付いてくる足音に、心を掻き毟られるようだった。それは未だに少しゆっくりとした歩調の、革のブーツの踵が刻む、聞き慣れた足音だった。ベースキャンプの片隅に設えた天幕の下で、その足音が聞こえる瞬間をいつも待っていた。真っ先に出迎えられることが、それだけで嬉しかった。
それが敬慕でも、親愛でもなかったことに気づいたのは、男が去った後だった。
「……おまえの茶は、美味かった」
ぽつりと呟いた男の声が、背中を叩く。
「ナタ。俺は――」
テントの前で足を止め、そうして、ナタは振り返った。
「――僕からも、あなたにお話したいことがあります」
天幕を開けて促すと、何も言わぬまま、男は従った。
忘れることなどできなかった。
なかったことにもできなかった。
そして――これ以上、押し込めておくことなど、きっとできはしない。
微かに、けれど確かに燃え続ける炎の名を、今は知っている。
◇
促されるまま、小さな椅子に腰を降ろす。
天幕を潜って以来、青年は何も言わなかった。棚から取り上げた缶を開け、きっちり二匙分の茶葉を掬い上げ、清水を注ぐ。
――先生のお茶は、僕が淹れますから。
豪雨に閉ざされたテントで二人きり過ごした時に、かつての少年は――そう言ったのだったと思う。その言葉が滲ませた、微かな熱。
――ずっと、あなたの隣にいたい。
涙のきらめきを纏うはしばみ色の瞳が、真っ直ぐに射貫くようだった。
そこにあるものの名を知った時には既に、逃げることも、気づかぬふりを押し通すこともできなかった。だから、去った。
自分の選択が正しかったと、それ以外にはなかったのだと、思ったことはない。
ただ――あの時はまだ、他に道を知らなかった。
頃合いを見計らって薬缶を火から下ろし、中身を均等に注ぎ分けながら、青年はやはり無言だった。やがて簡易テーブルの上に一方を押し遣られたカップの中には、美しい琥珀色の茶がゆらゆらと揺れている。
いただこう、と頭を下げれば、あるかなきかの黙礼が返された。
ひと口嚥下すれば花に似た香りがふわりと解け、温かな湯気が頬を包む。
「やはり――おまえの茶は、美味いな」
こちらには横顔を向けたまま、そうですか、と青年は呟いた。
短からぬ歳月はほんの子供だった少年を大人にし、懸命に後ろを着いてきた歩幅は広く、背丈も今ではほぼ変わらない。無垢なきらめきを、はにかむような微笑みを失った面差しは硬質の美さえ湛えて、酷く遠い。
「……ナタ」
「――先生」
口を開いたのは、同時だった。
向けられる呼称は変わらないのに、そこに含まれるものの形は違う。一度強く結んだ唇をふと解いて、もう一度、先生――とナタは言った。
「助けていただいて、ありがとうございました」
淡々と吐き出されるありふれた言葉の裏に、感じ取れるだけの感情はない。
「テオの生息区域から外れた場所でしたし、不意を突かれました」
「――先月の豪雨で、地形が大幅に変動した地域がある。それだけが原因かどうか、断じてしまうことはできないが」
「私もノノも、その調査のために呼ばれたんです」
ことりとカップを置き、やがて、ナタは顔を上げた。
「……先生」
はしばみ色の目が、真っ直ぐに射貫くようだった。
「あの剣に、見覚えは――おありですか」
壁際に立てかけられた大剣を、今更確かめるまでもない。応えぬまま受け止めた視線の先で、覚えていてくださったんですね、と青年は言った。
「もう……とっくに、忘れられてしまったのかと」
「ナタ――」
「忘れられていたなら、それはそれで構いません。何せ、もう十二年も経ちますし」
唇の端が、僅かに歪んだようだった。笑ったのかもしれない。
「柄は何度巻き直したか判りませんし、刃が脆くなる度に打ち直してもらっています。そろそろ持ち替える頃合いだと、この間とうとうジェマにも言われました」
強く組み合わされた指先は、微かに震えていた。
「俺が、いつか――」
「……ナタ」
「これを、捨てられると……思って、いましたか」
先生、とナタは言った。
「あなたを――忘れられると、」
軋るような言葉の裏、厚い氷壁を溶かし始める――燃えるようなその色彩。遠い昔、ひたむきに向けられる感情の眩しさと鮮やかさを知り、それを記すための地図すら持たぬ自らの空虚を知った。空を惑うだけの鳥の影に、囚われてほしくはなかった。選んだ道が正しかったと思ったことはない。けれど――それでも。
あのまま進み続けることが正しかったとも、決して思ってはいなかった。
「一度だって、忘れたことは――ありませんでした」
溶けた氷が、水となって揺らぎ始める。
雲母に似た輝きを湛えた目を上げて、先生、とナタは囁いた。
「――俺は、あなたが好きです」
かつてきらきらと輝くような無垢を纏っていた筈のそれは、今や鈍く光る鋭い刃だった。
逃げることも、目を逸らすことも赦されない。
今度こそ、決して。
深く息を吸い、吐き出して、そうして――ナタ、とエルヴェは言った。
「おまえに、話しておかなければならないことが――ある」