熾火④ 竈から下ろした薬缶を手に、男は振り返った。
深い皺の刻まれた端正で精悍な面差は、年齢を経たものだけに赦された理知と穏健に厚く覆われているようだった。背丈は見上げる程高く、身体つきは堂々として逞しい。
「ひとり身が長かったゆえ、ひと通りのことはできるつもりだが」
口に合わなかったらすまない、と男は微笑んだ。缶から掬い上げた茶葉の二匙を陶器のポットに入れて、沸騰したばかりの湯を注いでゆく。薬缶に残った分はカップに開け、蓋を閉じたポットには、布で作った覆いを被せる。黙ったまま向けた視線は酷く無遠慮だったかもしれないのに、静かに目を合わせた男はやはり、穏やかに笑うだけだった。
「ナタくん――と、云ったか」
「……はい」
「日頃、客を迎えることもないのでな。不調法は見ぬふりをしてもらえると、ありがたい」
「……いえ」
押しかけたのはこちらで、どんな扱いを受けようと文句など言える筈もない。教官として長く勤め、未だ現役だと云う男の住まいは、こざっぱりとして簡素だった。清潔な厨のよく磨かれた寄せ木の床が、窓から差し込む午後の陽光を眩く反射している。
椅子を引き、腰を降ろしながら、あれの元で見習いをしていたと聞いたが――と男は言った。
「今は、『鳥の隊』を預かっているのだな。ジェマと云う加工屋には、随分昔に一度会ったことがある。若いが腕の立つ娘だった。まだ、きみの隊に?」
「ええ」
「懐かしいな。ああ――アルマとは、先日学術院で会った。優秀な後継に恵まれたと言っていたが、きみの編纂者のことだったのだな」
カップの湯を薬缶に戻し、ポットの覆いを外して、茶を注ぎ分ける。武骨に節くれ立った大きな手の仕草は驚く程繊細で淀みがなく、『ひと通り』がどの程度のことを指すのかは知らないが、身の周りのことは確かに全て自分で片付けてきたのだろう。
やがて目の前に置かれたカップを暫く凝視した後、ナタは顔を上げた。
茶を勧める男の顔を見、卓の上に置いたこぶしを握り締めて――口を開く。
「……あなたは、」
平静を装おうとして失敗し、掠れた声を聞いても、男の眼差しは揺らがなかった。ゆっくりと瞬いた鮮やかな緑の双眸が、途切れた言葉のその先を静かに促している。
「先生の――」
強張った喉をこじ開ければ、迫り上がるもののひとかけらだけが、ことりとこぼれ落ちる。「――先生と、あなたは、」
今にも崩れそうなものを吐き出してしまえば、止められなくなることを知っていた。突然訪ねてきた無礼な若者を咎めるでもなく、茶を供してもてなそうとするような男の前で、醜態を晒してしまうことなどしたくはなかった。けれど。
ほんの子供だった頃から、ずっと――見つめてきた、背中だった。
その隣に立ち、肩を並べることを夢見た。夢を夢のままにはしたくなかったから、骨が軋んでも、手のひらが裂け血が滲んでも、歩みを止めることはなかった。強く、美しく、そして少しだけ不器用な人の、ただ一人になりたかった。
「……先生の傍にいたのは、僕です」
別れの言葉すら告げずに姿を消した人を、そして――捨てられた自分を、憎んだこともあった。価値がないものであれば、穢し尽くしてやろうと思ったこともある。心は疲弊し磨り減りながら、笑顔を貼り付けてみせることばかりが上手くできるようになった。
もういいと囁く声を、聞かなかった訳ではない。
憎むことも想うこともやめて、全て忘れてしまえ、と。
そうすることができたなら、きっと、そのほうがよかった。
「なのに、先生は――今、あなたを……必要としている、と」
――俺がまだ息をしていられるのは、彼がいてくれたからだ。
目もとには時間が轍を刻み、痩せた頬に落ちる影が、覚えているよりも幾分濃い。そして。十二年の歳月を経て漸く向き合った青灰色の双眸の奥に、揺らめき満ちる――その。
――この感情をどう呼べばいいのか……今は、判る。
「なぜ……あなたなんです」
なぜ、僕ではなく、あなたなんですか。
それを問うことの理不尽さなど、とうに知っている。闇雲に突きつける刃のようなそれから、だが、男が目を逸らすことはなかった。穏やかな表情をほぼ変えることのないままひとつ息を吐き――そうして、口を開く。
「……なぜ、か」
きれいに整えられた顎髭を撫でて、男は言った。
「理由を考えたことは、ないが――」
僅かに躊躇った後、最初は、と続ける。
「放っておくことはできないと、思ったのだ。飛び続ける力も残っていないのに、羽根を休める場所を知らぬ――鳥のようだった」
緩々と組まれてゆく大きな手の傍ら、美しい青磁のカップが、白い湯気をふわりと立ち上らせる。
「好きなだけここにいてよいと言ったら、随分と戸惑っていたが、留まることに決めたらしい。それで――共に過ごすうち、『いても構わない』が『いて欲しい』になってしまった」
それだけだ、と結んで、男は目を上げた。鮮やかな緑の双眸は、凪いだ海に似ている。
「――きみのことは、聞いた」
声は深く、優しかった。
「赦してやれなどと、言うつもりはない。きみとあれの間にあった経緯について、俺は口を挟む立場にはないからな。ただ――どうすることもできなかったのだと、云うことだけは」
理解してやってくれぬか、と男は言った。
「『求められれば返す』ものだと、思っていたのだそうだ」
「求められて――返す」
「ハンターとしての能力を求められるから、助ける。信頼を寄せられれば、応える。好きも嫌いも、否もない。元来が善良な性質であったがゆえに、破綻することもなかったのだろうが――それしか、知らなかったのだと」
怯える子供を探し出してくれた人の、手の温かさを覚えている。庇われた胸の広さを、力強い鼓動を、覚えている。視線が合えば微笑み返してくれた、美しい目を。名を呼んでくれる、低くなめらかな声を。だから――恋をした。けれど。
ならば。それは。
「僕が、求めた――から、ですか」
「それは、俺には判らぬことだ。だが、」
湯気の色が淡くなってゆくカップを見下ろして、男は言った。
「きみが求めているのだろうものを、返したかった――と、言っていた」
拒まれたのだと、捨てられたのだと、思った日があった。
憎み、恨み、泣き叫んだ夜もあった。
消すことのできぬ火に焼かれながら、いつか倒れ伏す瞬間まで、歩み続けることしかできないのだと――思っていた。
「きみの求めるものを探そうとして、自分の中には何もないのだと云うことに気づいたと」
「……先生は、」
喉に詰まったものがざらりと崩れ、溢れ出す。
拒んだのでも、捨てたのでもない。
一度も受け取ったことのないものに、未知の感情に、応え得る限り真摯に向き合おうとして――そうして初めて、『何もない』ことを知ったのだろう。自己を見失い、おそらくは存在の空虚に絶望し、それでも応えようとした――だから、その手にあってたったひとつ形ある、確かなものを残した。
「僕が、求めた……から」
「……これは、俺の想像に過ぎぬが」
男の声は深く、ただ穏やかで優しかった。
「そのことだけでも――あれにとって、きみは『特別』だったのだと……思う」
傾いてゆく日の光の落とす影が、素朴な一枚板の卓の上を斜めに切り取っている。
輪郭が滲み、曖昧に溶けてゆく視界の中で、男はただ――冷えかけたカップを、そっとこちらに押し遣ったようだった。
「――ナタ! どこ行ってたの?!」
いたよ! と手を振り回すニクスの背後、切迫した表情でこちらに駆け寄るノノの姿が見えた。
「大変なんだよ! 集落の近くで暴れてるモンスターがいるって!」
「先に向かった隊からの救難要請があったの! 討伐対象はティガレックス」
「ティガが? 生息区域からかなり外れている筈だけど――」
「だから大変だって言ってるの! 地形の変動の影響が思ったより大きいみたいね。とにかく支度して!」
ノノが放り投げて寄越したポーチを開け、回復薬の数を確認してから、ベルトを留めつける。指笛を鳴らしてセクレトを呼び背に跨がると、すかさずニクスが尾のあたりに飛び乗った。
「慣れない場所を度々走らせて悪いが、頼んだぞ。フォス」
つややかに白い首筋の羽毛を叩いてやれば、侮るなとでも言うようにひと声鳴いて走り出す。
「ねえ――ナタくん」
少し遅れて隣に並んだセクレトの鞍の上で、耳もとを過ぎてゆく風に負けじとノノが声を張り上げた。
「どこ行ってたの? なんか目が赤いけど、もしかして泣いてた?」
「――今は、狩りのことに集中させてくれないか」
「集中できるかどうかが心配だから、訊いてるの」
手綱を引き、崖を駆け上がる。舌を噛まぬようにかそれ以降は沈黙したノノを肩越しに振り返って、ナタはスピードを上げた。あそこ! と叫ぶなり飛び降りたニクスが、前方へと駆け出してゆく。
「――ノノ!」
「はい! 周辺地域と住民の安全確保、及び調査隊員の救援のため、ティガレックスの狩猟を要請します!」
応えようとした声は、轟音――咆哮に掻き消された。
びりびりと痺れるような震動が、皮膚を逆撫でる。
偵察から一度戻ってきたニクスが、耳を塞いで立ち竦んだ。
「……ナタ、気をつけて! 普通より大きいみたい!」
「――判った」
疾走するセクレトから反動を付けて跳躍し、慣性のまま走り出す。翼脚で地を掴み首を伸ばしたその姿を視認すると同時、ナタは、抜刀した大剣を振りかぶった。鈍い手ごたえと共に、轟竜が後方へと飛び退る。
「ここはいい! 負傷者を避難させろ!」
「そんな――幾らあんたでも、一人じゃ無理だ!」
ハンマーを構えた壮年の男の傍ら、頭から血を流して蹲る双剣使いは、若い女のようだった。怪我の程度はともかく、まだ実戦経験が少ないのか、おそらくは完全に呑まれてしまっている。
「――危ない!」
ニクスが叫ぶよりやや早く、刃を身体の前に引き寄せていた。衝撃。翼脚を支点に一回転したティガレックスの強靱な尾の直撃を受け、咄嗟に防ぎはしたものの、身体ごと僅かに後方へと弾かれる。即座に体勢を整え、構え直し振り下ろした刃は、だが、あと少しのところで翼脚に防がれた。固い骨とまともに打ち合った剣から伝わる振動が、背筋を駆け下りる。
「こいつ、けっこう強いよ!」
「判ってる……!」
影蜘蛛の鎌を構えるニクスの声を聞いて、ナタは、柄を握る手に力を込めた。油断なくこちらを伺う黄色の目が、ぎらりと光を放つ。後脚が、ぐ、としなる。思わず息を呑んだ女の声を聞いたものか、瞬間――轟竜が向きを変えた。
「――伏せろ!」
頭蓋を目がけて斜めに斬り上げた筈の剣が、固い尾の付け根を打つ。
がつり、と――厭な感触がした。
辛くも攻撃を逃れた二人を背に庇い、二度目の跳躍を躱しざま、渾身の力を込めて斬り上げる。翼脚を砕かれて大きく蹌踉めいた轟竜の目が、真っ赤に血走るのが見えた。
「……ナタ、剣が!」
「――ああ」
言われるまでもない。片時も手放したことのない武器だ。柄を握る手の感覚が、重みが、滲むような違和感を伝えてくる。
轟、と、ティガレックスが咆えた。大気を震わせる震動をまともに受けた刃が、ぴしりと亀裂を走らせる。牙を剥き出して突進する巨体を弾き、怯んだ隙を突いて頭部へと剣を叩きつける。一撃。二撃。
三撃目を食らってのたうつ巨体を見下ろしたまま、ナタは指笛を吹いた。駆け寄ってくるセクレトを視界の端に捉えながら、背後の二人へと声を掛ける。
「――今のうちに、西の高台へ。俺の編纂者が待機している」
「だが、あんた……剣が、」
「予備があるんだ。悪いが、武器鞄を外して行ってくれると助かる」
負傷した女を抱えた男が、片手にハンマーを構えながらじりじりと退避してゆく。
「……判った。他の救援が到着するまで、無茶するなよ……!」
セクレトの足音が遠ざかると同時、頭を振ったティガレックスが蹌踉めきながら立ち上がった。向けた大剣の白い刃は大きく欠けていて、その部分を中心に刻まれた亀裂が、徐々に広がってゆく。
――目の前のことから、集中を切らせるな。
低く、厳しい師の声が、不意に鮮やかに蘇るようだった。
教わったことは、決して多くない。
俺と同じようにはしなくていい。そう言って苦笑した横顔を、覚えている。
――無理に大剣を使う必要はない。おまえの体格なら、もう少し軽い武器のほうが上手く立ち回れる。
「……違う」
振り上げる。振り下ろす。
怒りと苦痛の声を上げる轟竜の攻撃を刃で防ぎ、追撃。
「僕は、ただ、」
ざくり、と翼が裂ける。
切れた尾が落ちる。
白刃が割れる。
砕けてゆく。剥がれてゆく。
「……ナタ! ナタ、もういいよ……!」
は、と瞬いた目の前には、どこか苦しげな顔をしたニクスの、つややかな漆黒の顔があった。
「もう――終わったよ。ナタ」
茫洋と向けた視線の先には、切り刻まれた轟竜の死骸があった。どのくらいの間詰めていたのかも判らない息を吐き出し、ゆっくりと吸い込めば、夕暮れの岩地のどこか懐かしい乾いた大気が、胸に空いた空洞をひやりと吹き抜けた。
「他の場所でもモンスターが出現して、救援がこっちに来られなかったみたい」
大丈夫、と見上げるニクスの紺碧の目を見下ろして、ああ、とナタは言った。
「――大丈夫だ」
「研究員の人たちが、後で調査に来るって言ってたよ。護衛もいるみたいだから、ボクたちは一旦戻って構わないって」
気遣わしげに手に触れてくるニクスを見下ろして、うん、とナタは頷いた。
「――帰ろう」
強く握り締めていたこぶしを開き、漸く柄を離して――割れて破損した白い大剣の残骸を胸に抱え込む。大きな目を瞬いたニクスは、だが、何も言わなかった。
駆けてゆくそのちいさな影を追って、歩き出す。
道の先でこちらに向かって手を振るノノの背後、暮れかけた空に、ちいさな星がひとつ瞬いていた。
武器鞄を拾い上げ、予備として携行していたアーティア剣を背負う。
砕けた白い大剣を丁寧に布で包んで、抱き締める。
もう二度と、取り戻せない。
そして――こうならなければきっと、手放すことはできなかった。
「……僕は、ただ」
――あなたが、好きだったんです。
「先生、」