牧場主夏と乳牛尾のボツ 羊牧場の朝は早い。
日の出とともに起床した夏太郎は、羊たちを羊舎から放牧地に移動させるため家のドアを開けた。正しくは、開けようとした。したのだが、ドアの前に何かがあるのか、鈍い音がして少ししか開かない。
昨晩のうちに何か置かれたのか、それとも何かが飛んできたのか? 隙間から顔を出そうとしたが、頭も通らない。仕方ないのでスマホを出して、カメラを起動させる。腕を伸ばしてカメラでドアの前を映すと、そこには一匹の乳牛が倒れていた。
「ええ⁉︎ だ、大丈夫⁉︎」
夏太郎の声に乳牛の足がピクリと動く。しかし起き上がる気配はない。
もしかして弱ってる?
ドアを閉めて、夏太郎はリビングの窓から外に出る。玄関前に走ると、そこには見知らぬ乳牛が倒れていた。
「君、大丈夫⁉︎」
肩に触れると、少し冷えているように感じた。昨日一昨日と八月の割には気温が上がらなかった。過ごしやすくていいなぁ、と夏太郎は寝ていたが、それは屋根の下でタオルケットにくるまっていたからだ。軒下では寒かっただろう。
自分よりも大きい乳牛を、どうにか家の中に運ぼうと思う。しかし意識のない乳牛は想像以上に重い。羊であればまだ抱えられるのに。
「んん〜〜〜〜〜〜!」
全身の力を振り絞って立ち上がる。顔の横にきた乳は、今にもミルクがこぼれそうなぐらいパンパンに張っていた。どうして夏太郎の家の前で倒れていたのかは分からないが、耳標もついていないことを考えると退っ引きならない事情がありそうだ。
乳牛を家の中に運んで、布団にくるんだ後に水を飲ませて、一回羊たちを放牧させてからまた家に戻ってこよう。羊舎の掃除は後回しだ。
リビングのカーペットの上に乳牛を静かに寝させる。
水を注いだコップを口の近くに持ってきたが、乳牛は飲もうとしなかった。仕方ないのでテーブルにコップを置いて、乳牛の肩を毛布越しに優しく撫でた。
「ごめんね、ちょっと待っててね。すぐ戻るから」
急いで羊舎に向かい、羊たちを放牧地に移動させる。そこからまた走って家に戻ってきた。リビングの乳牛はドアの大きい開閉音に反応したのか、よろよろと体を起こして振り返る。
「わ、起きた! 大丈夫? 水飲める?」
隣に座ると、乳牛は困った顔をして夏太郎とコップの水を見比べる。自分が何故ここにいるのか分からない上に、知らない人に突然水を差し出されれば怖いだろう。もしかしたら元々いた牧場での扱いが悪かったのかもしれない。でなければわざわざ耳標を外されることなんてない。乳牛の耳たぶには耳標がつけられていたであろう穴が開いている。
夏太郎はコップの水を半分ほど飲んでから、もう一度乳牛に差し出した。おずおずしながら乳牛はコップを受け取り、夏太郎から目を離さずに残った水を飲み干した。
「もう少し飲む? それとも何か食べるかな」
「ん……」
乳牛は空になったコップを夏太郎に返した。毛布の中に腕をしまい、じぃと夏太郎を見る。
「もう少し水飲もうか」
「ん……」
こくりと頷いたのを見て、夏太郎は立ち上がった。キッチンに入りながら、搾乳のことを考える。ここは羊牧場なので搾乳器はない。あったところで、学生時代の実習で行ったきりだ。やり方なんてほとんど覚えていない。
近所に乳牛がいる牧場もあるが、車で一時間近くかかる。そういえば搾乳器なしで、応急処置的な方法があった気がする……と夏太郎は遠い記憶を頼りにスマホで検索した。