ラブホの聡狂 聡実はパイプ椅子に座り、アクリル板を隔てた向かいに座る狂児に向けて白けた表情をしていた。放射線状に穴の空いたそれは、お互いの声だけが通るようになっている。
「聡実くん」
机に肘をついて指を組む狂児は真剣な顔をしていた。
「なんです?」
だらしなく足を投げ出して座る聡実は、面倒臭そうに首を傾ける。もう何回名前を呼ばれたか覚えていない。狭い部屋に入っている狂児を呆れた目で見る。
「ごめんて。もうせんから」
「そう言って、またやったやん」
「もうせん。こっから先は絶対せん」
「信じられへんよ、そないな言葉聞き飽きたわ」
顔の前でひらひらと手を振り、聡実は狂児から目を逸らす。狂児の後ろにいる職員は聡実に背中を向けたまま動かない。
「こないだやって」
そう言って聡実が言葉を切った。組んだ指の上に顎を乗せた狂児の口元がニマァと弧を描く。ちらりと視線を狂児に戻した聡実は、目が合った瞬間すぐに灰色の壁を見た。
打ちっ放しの壁に囲まれたその部屋は面白みも何もない。許された人間が、許された時間だけ、人と会うためだけの小部屋に面白さもオシャレさも必要はない。だからといってこうも何もないと飽きてしまうのではないか。だから職員は壁を向いたまま微動だにしないのではないか。
聡実はそんなことをぼんやり考えながら、同時に「こないだ」のことを思い出していた。
あの時もそうだった。
「聡実くんと行きたいとこあんねん」
といつものように話す狂児に「どこ?」と聞けば「着いてからのお楽しみや」とはぐらかされた。そう言って今まで連れていかれた場所は北から南まで様々だった。とはいえ車で行けるということは突飛な場所ではないだろうと油断していた。
高速道路に入ったところまでは聡実も起きていたが、夜勤バイトからの大学からの狂児とのデートだったため、狂児の話に相槌を適当に打っている間にすこんと寝落ちた。
そうして目覚めたらベッドの上にいた。薄紫色をした天蓋付きのベッドに覚えのない聡実は、体を小さくして辺りを窺う。
「……狂児?」
名前を呼ぶと、ベッドの先にあるソファに座っていた狂児が振り返った。
「聡実くん、おはよ〜う」
「どこ……ここ……」
「ホテルやで〜」
「ほて……?」
ヘッドボードに置かれていた眼鏡をかけると、狂児が立ち上がった。どこに行くのかと目で追っていると、壁際に置かれた赤と黒のギラギラとしたイスに座る。ベッドから滑るように降りた聡実は首を傾げながら狂児に近づいた。
「こっち来て〜」
手招きされるがままに狂児の前に立つ。よく見れば椅子には手枷と足枷がついており、座った者を拘束できるようになっていた。
「これなぁ、留めてほしいねん」
「…………は?」
「なあなあ、聡実くん」
二十五も離れた男が上目遣いで聡実を見てくる。
聡実にそういった趣味はない。今までのセックスだってごく普通の、といっても聡実は他の人と行ったことがないし、そういう本や動画をあまり見ないので比較対象があまりないが、よくある基本的なものをしていると思っていたし、それで聡実は十分満足していた。
狂児自身もそれに不満があるような素振りを見せていなかったように思う。だからこそ聡実はこれからもこういう感じでたまに体を重ねていくものだと信じて疑わなかったし、他のやり方を調べようとも思わなかった。
なのに、突然の、拘束イス。
「足は自分でできるんやけどな、手の方は最後の一個ができひんのよ」
「そら、そうやろ……」
話しながらパチンパチンと足枷を留める狂児を見下ろす。な? と左手首を拘束した狂児が聡実を見る。
「だから、聡実くん」
へらへらと笑いながらまだ自由のきく右手をぷらぷらと振る狂児を見ながら、聡実はふつふつと込み上げる怒りを感じていた。ほんまはこういうのが良かったんかい。じゃあ今までのは物足らんかったっちゅーことか。
「替えの服あるよな?」
質問をしながらパチン、と狂児の右腕から自由を取り上げる。これで狂児は聡実に枷を外してもらわない限り、ずっとイスに座ったままとなった。
「ん? まあ、車の中にある、でェッ!?」
乱暴にワイシャツをスラックスから抜き取る。狂児は驚くことはできても、手足が縛られているので抵抗はできない。この状況を望んだのは彼自身だ。
聡実は何も言わずにワイシャツのボタンを一つずつ外し、胸元を大きく開く。ひらひらと垂れ下がっていては邪魔だと言わんばかりに、ワイシャツの裾を持ち上げて襟の中にねじ込んだ。あらわになった胸には立派な刺青が彫られている。
それから続けて狂児のベルトをガチャガチャ外す。狂児がずっと「え? 聡実くん? 待って? どないしたん?」と話しかけてきていたが、それは全て無視をした。ベルトを抜き取り、スラックスとパンツを足首まで下ろす。
大きく開かれていた足にスラックスとパンツが悲鳴を上げた気もするが、替えはあると狂児本人が言ったのだから聡実は全く意に介さなかった。
次に自身が着ていたカーディガンを脱ぎ、狂児の頭に巻いた。目隠しにしたいだけなのでキツくは縛らなかったが、簡単に解けても困るのでボタンを狂児の頭の後ろで留める。
こんなもんやろか、と聡実は黙ったまま狂児から一歩、二歩と距離を取った。
「聡実くん? おーい、返事してー。おる? そこにおる? 聡実くーん」
「ここってテレビ見れるんでしたっけ」
「え? 見れるんとちゃう? なあ、聡実くんそこにおんねんな? 聡実くん? 狂児さんから聡実くん見えへんのよ、お願いだから返事して〜?」
テレビの電源をつけて、ソファに座り、適当なチャンネルを回す。バラエティ番組を流し見しつつ、友人からの連絡に返信をした。
それとついでに拘束プレイについても調べてみる。最初に開いたページの頭に「双方の同意を得てから始めましょう」と書いてあったので、聡実はスマホをローテーブルの上に置いた。同意て。なかったやん。何やセーフワードて。知らんわ、そんなもん。両手で顔を覆い、深い息を吐く。
「聡実くん? どないした? 具合悪い?」
「別に。呆れてるとこや」
「呆れ? なんかあった?」
あったも何も真っ最中やろが、と言いたくなったのをぐっと飲み込む。返事の代わりにテレビの音量を二つほど上げた。勝手に決めて、勝手に連れ込んで、勝手に始めて。長時間のプレイは危険いうとるで。どんぐらい放置したろか。ソファの上であぐらをかいた聡実は、その膝の上に肘をついて顎を乗せる。
静かになった狂児を眺める。カーディガンが顔に被っているのでどんな表情をしているのかは分からないが、鼻をすする音がするわけではないから泣いてはいなさそうだ。聡実は足音を消しながらそっと狂児に近づいた。
目の前にしゃがみ、下から狂児を見上げる。顎の下まで覆うようにカーディガンを被せていたので隙間から聡実が見えることもなさそうだ。
人差し指を立てる。短く切り揃えられた爪がツヤツヤと輝いているのは、狂児の努力の賜物だ。爪やすりだけでここまでなるんやな、と聡実は感心するだけだった。その指の背を狂児の脛に当てる。
ぴく、と狂児の体が小さく跳ねた。
「聡実くん?」
返事はしないまま、聡実はそのまま膝を抜けるように指を滑らせた。狂児の真ん中にぶら下がっている性器がふるふると震えている。感じるには早すぎちゃう? と思いながら、今度は人差し指と中指で狂児の膝の上でステップを刻む。とんととんとん、ととんとととん。
「聡実くん、それくすぐったいわぁ」
ちらりと狂児を見る。目は合わない。両手を顔の横で縛られている狂児は、カーディガンの下でくすくす笑う。
とん、とん、とん、とん。ゆっくりと指を動かしていく。膝の上で踊っていた二本の指は、いつの間にか狂児の内腿を優しく撫でていた。五本の指と手のひらで、しっとりとしている狂児の腿を感じる。
「こういうん好きなん?」
「え、えぇ? どれ、の、話……」
くるくると円を描きながら足と足の間に近寄っていく。しかしなかなか中央にたどり着かない。焦れた狂児がたまらなくなって腰を揺らすと、それに合わせて熱を持ち始めた性器がぷるぷると跳ねる。聡実はそれを見るのが好きだった。
聡実のものと比べて太さも長さも立派なそれは、恐らく聡実と付き合い出してから誰かの穴の中に入り、その誰かを気持ちよくさせたことがない。下手すると聡実が中学生の頃から使われていない可能性もある。
一度そのことを聞こうと思ったことがあるが、どう切り出せばいいのか分からず、またそんなに重要とも思えなかったので今の今まで確認したことがなかったし、そんなことを疑問に思ったことも忘れていた。
そんな立派なものが、だらしなく揺れるしか出来ない様を見ると、聡実は薄暗い感情が満たされるのを感じる。見る人によってはきっと喉から手が出るほど欲しくなるような一物だというのに、聡実とのセックスではぷらぷらびたびたと揺れるしか出来ない。今度オナホでも買うたろか。
「さと、みく……」
「縛られんのや」
「これ、ン……ど、やろ……初めてやるわ……」
「そうなん?」
パッと顔を上げる。狂児の呼吸が荒い。カーディガンが邪魔になって苦しそうにしているようだが、聡実はそのまま両手で狂児の内腿を掴んだ。
「なんで? 急に」
「やぁ……たまたま見つけてェ……ッ、聡実くん、ちょお待って」
「んー?」
力が入り硬くなった腿を揉む。身を乗り出して顔を近づける。ぺろりと狂児の腿を舐めると上からも下からも鎖のぶつかる音がした。
「なぁ! 聡実くん怒っとる? 待って、てぇ……エッ!」
れえーっと舌を足の付け根まで滑らせると、狂児の体がビクビクと跳ねる。その度にがちゃがちゃと鎖がうるさい。聡実が何をしても狂児から力ずくで止められることがないのはいいとして、その代わりがっちゃっんがっちゃんと騒がしいのは考えものだ。
「静かにしぃや」
かぷりと狂児の内腿に歯を立てる。
「んぅっ♡」
大きい肉にかぶりつくように、聡実は角度を変えて何度も狂児の腿をかぷかぷと噛み付いた。痛いことをしたいわけではないので甘噛みだが、それがいいのか、それでもいいのか、狂児の性器はどんどん上を向く。
「さと、みくん! ンッ♡待って、待って」
聡実の顔のすぐ横でぷるぷると震える狂児の性器の口からは、じわじわと我慢汁が漏れている。人差し指でそれを掬い、そのまま先っぽを口の中に入れた。
「んむ……」
「さと! みく!」
叫ぶような声を上げた狂児がバタバタと暴れる。いつも狂児がやってるやつやん。聡実はちろちろと舌を動かし、穴や谷間を舐める。
「まぁ……♡アカン、アカンってぇ♡♡」
イくんならイけ。そう思って雁首を口に含んで竿を手でしごく。聡実の口の中で狂児の我慢汁と涎が混ざり合い、そのままだらだらとこぼれていった。ローション出せばよかったな、あ、せっかくやったら顔見えた方がええかも、と思った聡実が口を離した瞬間、ぴゅっと狂児が精を放つ。
「わ」
あまり勢いのなかったそれは聡実の手首を汚すだけで終わった。はふはふとカーディガンの下で呼吸を整える狂児を見る。
「狂児?」
「ごめんなぁ……」
汚れていないもう片方の手で狂児の顔を覆っていたカーディガンを剥がす。口の端から涎を垂らしている狂児を見て、聡実はなるほど、と心の中で納得した。拘束しとるとこういうんも見れんのか。
先ほどのフェラだってそうだ。普段であれば聡実がやると言っても狂児が頑なに断る。しかし今回の狂児は抵抗できない。その結果、聡実はほんの少しだけではあったが狂児のものを口に入れることができた。
今のこの涎も、片手でも空いていればすぐに拭われていただろう。
「ええよ、でもほら、狂児のせいで汚れてんねん」
「ん……」
口の前に狂児の精液がかかった手首を出す。暗に舐めろ、と伝えれば、狂児は体を伸ばした。それでも少し距離が遠く、今度は必死になって舌を伸ばす。やっと届いたそれをぺろぺろと舐めとろうとするも、聡実の手首の位置がやや遠いので、すぐにキレイにならない。どころか聡実の肌の上を滑ってより遠くなったものもある。
「聡実くぅん」
「何?」
「もっと手ぇこっち来て?」
そう言われて聡実は、じっと狂児の目を見る。長時間の拘束は負担になると書いてあったが、その長時間とはどれぐらいのことを指すのだろうか。
「聡実くん?」
手首や手の甲に飛んでいる狂児の精液を舌で掬った。それを飲み込むことはせず、狂児の顔を両手で押さえる。
「んあ」
開かれた狂児の足の間に立ち、口を開けて舌を出す。聡実の舌の上に乗っている精液が重力に従って滑り落ちてきた。狂児も口を開けて舌を伸ばす。くちゃりと舌先が触れ、とろりとしたものが移動する。その後を追うように聡実の舌も狂児の口の中に入ってきた。
ぐちゃぐちゃとお互いの舌と体液を絡ませて、聡実は「ふ」と笑いながら顔を離した。顔を上向きのまま固定されている狂児は、口内に残された自身の欲を飲み込む。
「いい子やね」
「聡実くん……」
「もう終わりやで。外すわ」
「えー、やっぱ嫌やった?」
「嫌っていうか、勝手に始められたんが腹立った」
「ごめーん」
自由になった狂児の手首を見ると、やはり擦れて若干赤くなっている。優しく撫でてから軽くキスをした。カバンん中に絆創膏あるから、と聡実が言ったが、狂児はそれを断りベッドに移動する。そこからはいつものように体を重ねた。
やっぱこっちの方がええわ。ああいうんはよう知らん。
聡実はそう思っていたし、もうこういうことはないと思っていた。
だというのに。
またや。だまし討ちやん。
御殿場のアウトレット行こ〜、と連れ出され、楽しく買い物をした。聡実は初めて来たアウトレットに少なからず興奮したし、新幹線の中から以外で見た富士山にも感動した。歩き疲れたせいか、夕飯をしっかり食べたせいか、またそのどちらものせいか、帰りの車中で聡実は眠ってしまった。
同じように狂児も疲れているのだから、自分だけが寝るわけにはいかないとしばらく睡魔と戦っていたが、狂児の「ええよ、寝てて。おやすみ、聡実くん」の声に止めを刺された。途中、狂児にお姫様抱っこをされているようなふわふわとした感覚があったが、聡実は眠気には抗えなかった。
そうしてようやく目覚めたとき、聡実はベッドの上にいた。ぼやけた視界の中、手探りで狂児を探す。いつもであれば聡実の手の届く範囲にいる狂児がいない。
「きょおじ……?」
働かない頭をどうにか動かして愛しい恋人の名前を呼べば「はあい」と嬉しそうな返事とともにどすんっとすぐ横に狂児が座る。その重みで跳ねる体を感じながら、聡実はここが自宅ではないことだけは分かった。壁は見慣れない灰色で、ベッドもアホみたいに大きい。
機嫌が良さそうな狂児は優しく聡実の頭を撫でながら「まだ寝るん?」と尋ねてくる。その声音は「まだ寝ててええよ」にも「そろそろ起きよっか」にも聞こえて、聡実は狂児の手に頭をすり寄せながら「もう少し」と小さく返事をした。
「ええよ」
「ん……」
「いっぱい歩いて疲れたもんなぁ」
「うん……」
「お腹空いたら言うてな〜。ここチャーハン頼めるで」
「……うん」
メニュー表をひらひらとさせる狂児に、聡実はのそのそと起き上がる。チャーハンの言葉に反応し、自分が空腹なことを自覚する。そのついでに「寝ててもええんやけど相手して欲しいな〜」と言いたそうな狂児に付き合うのだ。
狂児の腕に自身の腕を絡ませて横からメニューを見る。チャーハンの他にもカツカレーやオムライスなどの写真が並び、二十四時間ご注文承ります、と書かれたそれに「ここどこ?」と聡実は尋ねた。
見上げた狂児はニマ〜ッと笑い、聡実の視線に合わせるように背中を丸めてベッドの斜め前を指差す。その先を見れば、置かれていたのは事務机とパイプ椅子だ。事務机の上にはデスクライトだけが置かれていて、聡実は「取調室みたいやな」と思った。
「ラブホ♡」
「趣味悪ない?」
「面会室もあんねんで」
すいっと狂児の指が横に振られたので、聡実はそれを目で追う。ベッドの横には狂児の言う通り面会室のようなセットがあり、「アホちゃう?」と頭の中で思ったはずの言葉が口からそのまま滑り落ちていた。
「おもろいやろ」
「おもんないわ」
「ええやん? たまには」
「たまにはってこの前も連れてこられたし」
「そやったっけ?」
「狂児」
「ごめんって。ちょっと入ってみたかってん」
ふーん、と聡実は言いながらベッドから降りる。そのままフロントへ電話をかけてチャーハンと唐揚げを注文した。受話器を置いて、部屋の中を見渡す。前髪を掻き上げた聡実は大きく息を吐きながら、もう一度
「アホちゃう?」
と声に出して言った。