風呂に入れば 今日からこの人と暮らすことになった。譲介は、真田の顔をちらりと盗み見る。
「家庭」という場所を与えられるのは、実は初めてではない。幼い頃、「里親」という形で、五十代の夫婦の家に出入りしたことがある。かれらは養子縁組を望んでおり、面会交流を重ねて外泊もした。
都心から離れたS県の静かな住宅地のなかの一軒家。生まれて初めての「家庭」で、パジャマを渡されて、風呂に入った。その夫婦と一緒にテレビを見て、夜になるとベッドに潜り込んで寝た。「これが普通の家なんだな」と、胸がおどったことを今でも覚えている。
譲介は「うまくやった」つもりだった。しかし、理由はわからないまま、その話は途中で頓挫した。最初で最後の「家庭」の記憶だ。
だが、それも遠い記憶だ。こんな立派なマンションに上げられて、自分の部屋も与えられたが、なんの実感もない。それに、真田は「家庭」という言葉が似合わない男だった。
こういうとき、母親的な人物が世話を焼くのだろう。だが、目の前の目つきの悪い男は、母性とはほぼ遠いように見えた。
「おい、風呂に入ったらどうだ?」
そう言われて「あ、はい」と答えたものの、戸惑ってしまう。パジャマは入院中に使っていたものを鞄に詰めて持ってきた。替えの下着もある。こういうものは、施設から支給されていたが、これからはどうやって手に入れればいいのだろう。
「タオルは……どうすればいいですか?」
真田は「そうか、タオルだな」とそそくさと洗面所の棚を開けて顔を突っ込んでいる。
「前に患者が、手術の礼だと言って高級そうなバスタオルをよこしたんだ。あれは、箱のままここに入れてたはずだが」
「まさか、箱入りのタオルを、自分で大切に取っておいたりするんですか……?」
「そんな大袈裟な話じゃねぇだろ。一人だと、そんなもんを出すタイミングがねぇからしまっておいただけだ」
口ぶりは面倒臭そうだが、後ろから覗き込むと棚の中はきちんと整理されていた。患者からもらったものを捨てられないのだろうか。こう見えて、マメなのかもしれない。
「あった、これでいいだろ? そんで、おめぇ、シャンプーはどうすんだ」
「どうって……」
「オレのシャンプーは風呂場に置いてあるが、若いやつは髪がサラサラになるやつなり、なんなり、好きなのが使いてぇだろ? あとでキャッシュカード渡してやるから、それでおめぇの必要なものは自分で買えよ」
髪がサラサラ? そんなこと気にしてくれると思わなかったので、頭の中で反芻してしまう。渡されたタオルは、ローラ・アシュレイの花柄だった。真田に全く似合わない。贈る方も、少しは相手の顔を見て礼を渡すべきだ。でも、彼も「いらない」とは言わないのだろう。
「スーパーか、ドラッグストアか、そういう店で買えばいいだろ」
「あの、あなたはどこでシャンプーを買ってるんですか?」
好奇心に駆られて聞いてみると、「製薬会社だ」と即答された。
「医薬品をまとめて入れるときに、ついでに買うことにしている。それでよけりゃあ、おめぇも使ってもいいが」
「そうしてください。僕はシャンプーの種類なんてわかりませんよ。施設にシャンプーを寄付してもらえるらしくて、それを使ってました。与えられたものを感謝して使う生活が、身に染み付いてます。なんだってありがたく使います」
そう肩をすくめて言うと、真田は「よくねぇよ」と眉をひそめる。
「施設に余裕がねぇのはわかってる。だけど、ここは違う。金はオレが用意するから、自分で好きなシャンプー買って、それを使え」
「たかが、シャンプーですよ? そんなものどうだって……」
「どうでもいいことから、選んでいけ。おめぇ、なんにつけても、自分が何が欲しいのかわかってないだろ?」
その言葉に胸がドキッとして、黙ってしまった。自分が使いたいシャンプーなんて考えたこともなかった。選べることなんて何もない。それが譲介の人生だった。
「どうやって、選べばいいんですか?」
「一人で店に行って見比べて、考えて、選べ。心配するな、日本で売ってるシャンプーはどれも高性能で、体に害もない。どれを選んでも問題は起きない」
淡々と真田がいうのに対して、「はい」と小さな声で答えた。自分が緊張しているのがわかる。シャンプーを買うことに? いや、選ぶことに。
ポンと頭の上に手を置かれ、「難しく考えるな」と言われた。
「とりあえず、今日はオレのシャンプー使え。明日からな」
くしゃりと髪を撫でられて、「え」と思う。見上げると「すぐに慣れる」と言われた。
その顔は笑っていなかった。でも、怒ってもいなければ、無表情でもなかった。ただ、淡々と「こうやって見ると、お前はただのガキだな」と彼は言った。
ぽちゃんと湯船に浸かる。ひとりで風呂に入るのは久しぶりだ。施設によって、入浴施設は異なっているが、この前までいたあさひ学園では年齢別に順番に風呂に入ることになっていた。三〜四人で十分から十五分ほど。くつろぐ時間はない。
胸のひきつれた傷跡を見る。医者は風呂に入っても問題ないと言っていた。それでも、まだ見慣れない傷が肌の上に走っているのをみると、目を逸らしてしまう。そのうち慣れるのだろうが。
ここに、ナイフが刺さった時のことはまだ鮮明に覚えている。真田に迫られて、自分でそれを引き抜いたことも。あのときは無我夢中で、なんでそんなことをしたのかよくわからない。その結果として、ここに引き取られた。
「あの人は、何を考えているんだろうか」
鼻のあたりまで湯船に浸かってみる。体がぽかぽかして暖かかった。
髪を洗うために、浴場に並んでいるシャンプーのボトルをプッシュした。手の上に白いソープが広がり、泡立てるとモコモコになった。病院で使う業務用のリンスインシャンプーらしい。爽やかな匂いがした。
「あの人も、同じシャンプーを使うのか。同じ匂いがするのか」
妙に長い前髪を思い出し、「ふっ」と笑ってしまった。あのニワトリのとさかのような髪は、濡らすとへしゃげてしまうのだろうか。想像するとおかしかった。
風呂から上がると、パジャマになってリビングルームでぼんやりしていた。自室で眠ってしまってもいいのだろうが、まだベッドに入る気がしなかった
「おやすみなさい、って言ったほうがいいのかな」
施設では職員に、わざわざそう挨拶して微笑んでいた。そのほうが覚えがめでたいとわかっているからだ。真田にもそうしたほうがいいのだろうか。
「あまり喜んでもらえなさそうだ」
もうそんなことは、だんだんとわかってきている。でも、「あの人には、おやすみなさいと言いたい」と思っている自分がいる。それが今の「自分が欲しいもの」かもしれない。「おやすみなさい」をいう相手。
つらつらと考えていると、がちゃりとリビングルームの扉が開いた。
「おぅ、おめぇ、ここにいたのか」
立っていたのは、腰にバスタオルを巻いただけの真田だった。譲介は言葉を失って呆然とした。
がん患者にしては、体つきはしっかりしている。それでも痛々しい手術痕が腹の辺りに走っている。それは、若い譲介の胸の小さな傷とは違う。病と闘うために刻み込まれた、戦いの記録のような傷だった。
なによりも、彼はタオル一枚で彼は平気な顔をしていた。長い手足がむき出しになり、湯上がりの肌は少し紅潮していた。
自分の頬が熱くなるのがわかる。「ひぁ」と喉の奥が鳴った。
「服を! 着てください!!」
拳を握りしめて、思いっきり声を出して言った。ひたいに汗が滲んでいる。胸がトトトトと早鐘を打ち始める。彼の姿は目に毒だった。
「風呂上がりはマッパに限るぞ」
彼が平然と言った。毎日、この男のほとんど裸になった姿を見ることになるのか? そう思うと、譲介はクラクラした。