置き手紙には、貴方の香り。手紙を書こうと思った。
きっかけは、リリティニアが置いていった小さなメッセージカードからだ。
「お疲れのようでしたので。
声をかけずに出たことを、
どうかお叱りにならないでくださいね」
やや走り書いたような書き置きに、公務に出るギリギリまで自分が起きるのを待っていたのかと、重たいまぶたを擦りながらため息をつく。
机に突っ伏して、ほんの少しだけの昼寝のつもりだったのに、気づいたら時計の長針は思っていたより先に行っていた。
王都復興のための務めが両肩にのしかかり、その重さにしばらくは耐えていたが、時に体は疲労に勝てず睡魔に負けてこのざまだ。
額にうっすらついた袖のボタンの跡を指で伸ばしながら、ジャックはメッセージカードに唇を寄せる。ふわりと、嗅ぎ慣れた花の香がした気がする。
最近めっきり会えていないのだ。寂しく思うのが自分だけではなかったのだという安堵が、ほんのりと胸を温めた。
彼女はがっかりしただろうか。
どうか叱らないで、だなんて可愛らしい最後の一言は、ジャックの胸の真ん中に突き刺さって、その痛みに項垂れるほどには深い傷を負わせた。
手紙には手紙で返せば良いのだ。
公務の合間に執務室に訪れ、やっと会えると喜んでくれていただろう最愛が、無様に寝こけていたことの落胆は如何ほどだっただろうか。
詫びのしるしの花束に、手紙を添えて贈るのもたまには良いだろうと、ジャックはペンを手にとる。
字は書き慣れている方だし、いくつも書いてきた。
華やかな文字とまではいかないが、公文書のやりとりで鍛えられたジャックの字は、男性のそれにしては美しい部類だ。
工芸品のように洗練された見事な黒漆のペンをインク壺につけ、隅に月見草の押し花がされた紙にさらりと滑らせようとしたジャックだったが。
「――さて……」
意気込んだ割に、筆は一向に動かない。
リリティニアの名前すらも書き出せていない。
まっさらな紙をじっと見つめたまま、ジャックは黒いペンをぎゅっと握っている。
しばし紙と見つめ合ったが、状況は変わらない。
当然だ。ジャックが何も書き出さないのだから。
たった数文字書くだけだ、何を怖気づいているのかと己を嘲笑うが、やはり筆は動かない。
片手で眉間を揉み、ふう、とその場で深呼吸をしてはみたが、革の椅子がぎしりと鳴っただけで、ペンが走る音は聞こえない。
一体全体どうしたものか。
何を書いたら良いかさっぱり分からない。
まず、せっかく会いに来てくれたのに眠ったままだったことを詫びるべきか?
いや、始めにありったけの称賛の言葉と愛をしたためてから――それでは情が薄っぺらく見えないだろうか?
そうだ、最近の様子を聞いてみるのはどうだろうか――リリティニアの最近の様子など、彼女の世話役に聞けばわかることだ。いちいち手紙に頼ることではない。
ならば、何か困ったことはないかと聞いてみるか……いや、彼女のことだ。大丈夫と返ってくるのは容易に想像出来る。
と、ジャックの脳内では己とのやり取りがひたすらに行われていて、故に彼の握ったペンはこの先何を書いたら良いか分からずに、インク壺から顔を出せないままになっている。
何をうじうじと迷うことか。
若者の青臭い恋愛でも無かろう。ただ一言「会いたかった。許してくれ」と書いて、この立派な花束に添えるだけで伝わるだろう。
華奢な彼女が両手で抱えたら埋もれてしまいそうなほどの、季節の花々でたっぷりと彩られた花束に。
それだけでもきっと聡明な彼女には伝わるであろうが、言ってしまえばこの紙切れたった一枚が果たす役割とは――この一枚きりが、彼女を笑顔にも呆れ顔にもさせるのであろうことが、急に怖くなったのかもしれない。
リリティニアにしばらく会えていないジャックは、自分で思っていたよりずっとずっと、彼女を恋しがっていたようで、たった一言二言では足りないほどに思いが溢れてしまいそうだったらしく。
「馬鹿な男だな……」
ペンから手を離し、椅子に背を預けたジャックは顔を両手で覆い空を仰ぐ。
恋慕の情を前にしては、貴族の男も随分落ちぶれるものだ。
「愛しているの一言すら書けないとは、夜青杖の男も大したことないな」
ジャックは苦々しく笑うと、文字一つ無い真っ白な手紙に愛用の香水を軽く吹きつけ、シャツの胸ポケットに畳んでしまうと花束を抱えて執務室を出た。