無題リップは常日頃から「知らない人に声をかけられても、無視をしなさい」と教えられていた。
兄弟たちは真剣な目をして口々に言う。
誘拐される。
暗がりに連れ込まれ、二度と帰れなくなる。
狭くて暗い場所にしまわれる。
だからリップは、知らない人について行ってはいけない。
リップは素直で良い子なので、その言いつけを立派に守っていた。
もっとも、ロアルモンドの者には従者がいるので、外に出て危険な目にあう事はそうない。
とは言え、アラディア院ではどうだろう。
広大な学園の中だ、知らない生徒はたくさんいるし、知らない先生だっている。
そして、リップの目の前に現れたのは。
「あノ時助けていただいた孔雀です」
全く知らない、孔雀を自称する青年だった。
「は、あわ……あ、あの……」
「雛鳥ノ君……慈しみノ心を内にて咲かせるひと。貴女ノおかげで、私はどんなに救われたことでしょう」
孔雀を自称する青年……いや、もしかしたら淑女かもしれない赤金の髪の人は、戸惑うリップの前で恭しく跪く。
「理由あって姿をこノ場でお見せすることは出来ないノですが、私はどうしても、貴女がお心を痛めてはいないかと心配で、せめてお礼をと参った次第です」
小さなリップが大の大人を跪かせているのを傍目に見ていた生徒が、訝しげな表情でひそひそと何やら話している。
通り過ぎる生徒もその光景をじっと興味深そうに見ていて、リップは冷や汗をだらだらと流しながら首を振る。
「あ、あの、知らな……ぃです。ごめんなさい」
もし本当に助けた孔雀だったらどうしよう。
そんなことは普通ないのだが、確証はない。
アラディア院には様々な種族がいる。
だが、リップの知る孔雀と言えば、最近逃げ出してしまった、飼育小屋の白い孔雀。
何処かから迷い込んできたものを保護したらしく、餌は食べないし水も飲まないのを皆不思議がっていた。
マナイ先生が『普通の白孔雀』だと言ったのだから間違いはなかろうが、三日三晩何も口にしないのをリップは心配し、仲間とはぐれ寂しくて元気を無くしたのではないかと、羽を櫛で梳いてやったりくちばしを湿らせてやったりと、こっそり甲斐甲斐しく面倒を見ていたのだ。
逃げ出してだいぶ経ったのだが、その孔雀が目の前にいる人の形をしているのか?
いや、やはり先生が『普通の白孔雀』と言ったのだから、今リップの前で傅く麗しくそして一見無害そうな『孔雀を自称する人』は、様子のおかしい人に違いないのだろう。
いわゆる不審者だ。
「暗い場所に……しまっちゃう人ですか?」
じりじりと後ずさりながら声を発したリップの言葉に、相手は傷ついたような表情をし、しゅんと項垂れた。
その様に、リップはますます混乱する。
「ごめんなさい、探してるのはリップじゃない人だと思います……」
「いえ、雛鳥ノ君。貴女は私ノ恩人です。ずっと私に寄り添い甲斐甲斐しくお世話してくださいましたね。窮屈な檻ノ中、貴女ノ優しさが嬉しかったです」
まだ幼い彼女が見目の良い大人を囲って世話をしている。
とおぼしき情報だけが出力されたので、周りはよりざわつき始め、リップは覚えのない体験に感謝をされている状況に青ざめる。
「ひと、ひっ、お世話してません知らないですごめんなさい」
「あっ、待ってくださいお礼を」
立ち去ろうとするリップの小さな手が、掴んで引き止められる。
ヒュ……と恐怖に息を呑んだリップの頭を駆け巡ったのは、大好きな兄からの警告。
背の高い彼は膝をついてリップの視線に合わせ、柔らかい手を自身の大きな手で開かせると、リップの拳の大きさほどのチャームを握らせ、真剣な表情で語りかけた。
『リップ、もし周りに頼れる大人がいない時に何かあったら、この紐を思いっ切り引っ張って助けを呼ぶんだよ』
『はい、お兄様!』
これを使うのはまさに今だ!
と、リップは鞄に引っ掛けていたチャームの紐を素早く握り、震える片手をもう片手で支え、渾身の力を込めて引き抜いた──