小指の花に小さな勇気を。「ケーキ屋さんいきたい」
三人掛けの円テーブルに二人。
頬杖をつきながら唇を尖らせる不機嫌なサザを斜向かいに、アシェルは食後のコーヒーに口をつけた。
カップの金縁に、薄くリップを引いた形の良い唇がそっと合わさる姿に、隣の卓の女子学生が、ほうっとため息をついたが、もっと盛大なため息がサザの口からこぼれて、アシェルは伊達眼鏡の奥にあっても静かに輝く瞳で視線を流し、『続けて?』と合図する。
サザは項垂れながら、すっかり空になったケーキ皿の、ベリーソースで描かれたハートの模様をフォークでなぞった。
右手小指に咲いたピンキーリングの花、中央の石がちかちかと照明の明かりを拾って光る。
「フルーツいっぱいのカラフルなタルト食べたい。クリームがこれでもかと乗ったシフォンでも良い。ケーキ屋さんじゃなくてもいい。パンケーキのお店とか、アフタヌーンティー出来るとことか、そういう雰囲気のある場所がいい」
「……例えば、今日みたいな?」
「そうです、今日みたいな。マゼは連れてってくれないですもん」
片頬を膨らませるサザに、アシェルはカップから離れた唇の片端を持ち上げる。
はらりと垂れた長い前髪を耳にかけ、今度はアシェルがわざとらしくため息をついてみせた。
「私とデートしておきながら、他の男の事考えるなんて、罪作りな子だなあサザちゃんって……」
「あっ、エッ、そ、それはだって」
「ハハッ、冗談だよ!誘ったのは私だから、気にしないで」
とは言え、アシェルが今日サザを誘ったのは、前々から約束していてのことではない。
久々に何も予定がない休日だった。
出かけた先で、町をとぼとぼと歩くサザを偶然見つけ、纏った負のオーラの濃さに声をかけずにいられなかったからだ。
聞けば『今日日直の同僚が体調不良になったため、自分が代わることにした』と、待ち合わせの前にマゼから連絡があり、約束はお預けになったと。
マゼのそういうところは好ましいが、決める前にこちらに一言くれればよかったのにとか、自分の存在はその同僚より優先順位が下なのか……などと、不意に頭をよぎってしまったことが悲しく、そしてそんなことを一瞬でも考えてしまったことに自己嫌悪していたと聞き、アシェルは『あの男のことなんて、私が忘れさせてあげる』と、サザの肩を優しく抱き、半ば引きずるようにして、町に新しく出来たパンケーキ屋へ連れて行った。
レースのカーテン、ピンクとミントグリーンの壁紙、壁に飾られたたくさんのぬいぐるみ。と、メルヘンチックに染まった店内はほとんど若い女性しかいない。
「慰めに甘いもの、なんてちょっと安易だったかな?何でも好きなの頼んで」
と、優しい眼差しでメニュー表を寄越してくるアシェルに、サザは潤んだ目で『アシェルさんが今日もかっこいい……』と呟いて、受け取ったメニュー表をめくっていた。
季節のフルーツとアイスをふんだんに盛りつけた2枚重ねのパンケーキが目の前に現れる頃には、さんざん愚痴を吐いたせいかサザの気持ちはすっかり浮上しており、きらきらと瞳を輝かせるサザに安堵したアシェルは、クレープシュゼットにナイフを入れて運び、一人で訪れるには少しばかり勇気がいるこの店にすんなり入れた事に幸運を思った。
「ほんっとに美味しかったです!ありがとうございました!」
「そ、なら良かった」
「見た目も綺麗でしたけど、パンケーキふわっふわだし、アイスもさっぱりしててフルーツに合うし、あともう一皿いけちゃうかもです!」
「そっかそっか」
ティーカップを両手で持ち、ほんのり頬を染めにこにこ満面の笑みを浮かべていたサザだったが、何を思い出したか急に表情を暗くし、アシェルはその落差にきょとんとする。
「マゼと一緒だったら……絶対入れませんもん、こういうお店……」
「絶対?」
「絶対ですよぉ!マゼと行くお店、肉肉肉肉肉ばっかですから!」
「まあ、体力勝負の世界だし、日頃馴染みのある店で選んでんだろうなあ」
マゼが選ぶ店に特に不満があった訳では無いが、昼に約束すれば定食屋、夜に約束すれば大衆酒場と、マゼは自分が気に入った場所……何度聞いたかわからない『過去一ウメェ』がある場所にサザを連れて行く。
つけたばかりのリップティントが負けるほどの油脂と肉汁がたっぷりのスペアリブを頬張ったり、申し訳程度のサラダの上に溢れんばかりの唐揚げの山と樽のビールに大興奮したり、と……つまりは色気の一切ない店ばかり。
確かに美味しい。
確かに美味しいのだ、が。
「悪気がないのはわかってます。マゼが美味しいと思ったものを、私にも教えてくれてる。美味しい楽しいって気持ちを共有したい、って思いでいてくれるのは嬉しいです。けど」
「まあ、率直にデートではないよなあ」
「う、ぅ……」
フリルのスカートで行く場所でもないし、気合いの入ったメイクが合う場所でもない。
個室で恋人らしい甘い空気になるようなところでもないし、薄暗い照明はただの節約だし、静けさなんかこれっぽっちもなく何なら酔っ払いの野次が飛ぶし、『よう、兄ちゃん!彼女かい!』の店主の言葉に『いや!幼馴染ッス!!』というとびきり元気な即答に心を袈裟斬りされることもある。
その鮮やかな手腕に、もはや乾いた笑いしか出てこない。
腕の良い剣士に斬られた者は、痛みを感じることがないとかなんとか。
「たまにはこういう『女の子のため』って感じのお店に二人で行きたいな、とか思ってるんですよ。私だって」
「あ、気に入った?思いつきで入ったんだけど、サザちゃん好きそうだなあって前から思ってたんだ」
「ジざ」
喜びに抱きつくサザを受け止めたアシェルは、サザの髪のゆるく巻いた先に指を絡める。
陽の光がようやっと届くかという深い深い海の色をした髪は艶やかで、ほんのりと甘い香りがするのはきっとヘアオイルだろう。
手入れされた美しい髪が、一日で生まれるものではないことは、アシェルにだって分かる。
「──可愛いねぇ、サザちゃんは」
想う人のために自分の時間を惜しまず、少しでも可愛い自分を見て欲しいと思う一途さ、健気さ。
そう言ったいわゆる『女の子らしさ』が、アシェルにはとても好ましく見えたが、サザはアシェルの言葉に、瞳を伏せる。
「……アシェルさんは綺麗です」
「ありがと」
言われ慣れている言葉にさらりと返したアシェルは、鞄からハンカチを取り出してサザの顔を拭ってやる。
マゼがドキドキするであろう女性は、こんな『綺麗な』人なんだろうと、サザは認識している。が故に、アシェルの『可愛い』が素直に受け取れなかった。
「じゃあさ、今度はサザちゃんが教えてあげなよ」
「え?」
「サザちゃんがマゼにさあ、『過去一美味しいパンケーキだった』って、ここに連れてってあげな」
アシェルの提案に2度ほど瞬きしたサザが、椅子に座り直し、メニュー表をもう一度ぱらぱらめくり、少し考えてから眉間にシワを寄せる。
「来ると思いますぅ……?」
「あははははははは!」
いくつかの脳内シュミレーションの後の反応に、YESともNOともつかぬ笑いで返すアシェルだったが。
「案外あっさり来るかもよ?」
「うーん……」
「まずは言わなきゃ始まらない。やだっていっても連れてくくらいの根性なきゃ、ねぇ?」
鞄を片手に『失礼』と席を立ったアシェルの背を見てから、サザはもう一度メニュー表をめくってみる。
店内には静かなBGMが流れ、女性のささやかな会話に満ちているものの、心地よいざわめきであって気にはならない。
ほんのり甘い香りに包まれた空間、優しく入り込む陽の光。
こんな場所に二人きりでパンケーキを食べたら、少しいつもと違う何かが生まれるだろうかなんていう、泡沫みたいな夢。
けれど、夢を叶えられるのはいつだって、勇気を灯し行動を起こした者だけだ。
「明日、行けるか聞いてみようかな……」
右手のピンキーリングを左に付け替え、ショルダーバッグの中にあるスクリーネを取り出そうとしたところで、肩を叩かれる。
「外、列出来てるみたいだし、そろそろ出よっか。行ける?」
「あ、はい」
化粧室にしてはやけに早かったな……と思いながらも席を立ち、バッグを開けて財布を取り出しつつレジに向かおうとするも、アシェルはサザの背を押しレジの女性に「ごちそうさま、ありがとう」と声をかけて素通りする。
慌てて引き返そうとするサザの手を取り「もう済んでるよ、次どこ行きたい?」と覗き込んで笑うアシェルの低い声。
レンズ越しにもまばゆい、夜色の瞳の光を間近にしたサザは、スクリーネにかけようとしていた指を離し『ま、今はいっかあ』と、つかの間の「デート」を楽しむことに決めたのだった。
後にマゼは、アシェルとサザの「デート」の様子をアシェルから事細かに教えられた。
あの日は随分と落ち込んでいたのではないかと思いきや、マゼが想像している以上に全力で楽しんでいたらしいことに、何だかもやもやと晴れない心持ちになったんだかならないんだか……彼のその時の表情は、アシェルのみが知ることとなる。