3月の姫は不機嫌に笑う。初めてリシャールと喧嘩をした。
喧嘩をしたというより「メルティが機嫌を悪くして一人で帰った」が正しいかもしれない。
自分は短気な方ではないと思ったのだが、どうやらそうでもなかったらしい。
しかし、見過ごすことは出来なかったし、あの場で大人らしく感情を抑えたところで、ディナーの場で笑顔でいられるわけはないと思うと、これが最適解だったなと少し冷えた頭で考えた。
少しでも距離を取りたくて、足は自然と早くなる。
コンクリートを踏みしめる7センチヒールの踵が痛むが、それより鼻の奥と胸の奥が痛んで仕方なかった。
腹が立つくせに、『こんな態度を取って、彼はどんなにか傷ついただろう』と思わずにいられなくて、それが余計に癪だった。
―――――
きっかけはついさっきのことだが、まずは今日一日の始まりから振り返る。
リシャールと早くから待ち合わせをしていた。
今日は一日オフだから、長い時間を一緒に過ごそう。と提案してきたのはリシャールの方だった。
「ジャポンはこの時期早く咲くサクラがあるそうです。庭園に行って、メルティさんノお洋服を見て、あっ、観たいと仰っていた映画も行きませんか!それから……」
トレンチコートに、刺繍の施された厚手のストールを巻いたリシャールが、ストール隠れた口元を指で下げて、笑いかける。
「随分と予定が詰まってるわね」
「はい、私は今日メルティさんとやりたいことがたくさんあるノです!」
「ヒールだからあまり歩かせないでちょうだいね」
メルティの格好は、いかにもデートといったワンピースに春物のジャケット、そして細いヒール。
今日が特別な日だと分かっての服装に、リシャールの瞳がベージュのカラーグラス越しに煌めく。
喜びに微笑み、メルティへ腕を差し出した。
「疲れたら仰ってください。今日はたくさん時間があります。ゆっくり過ごしましょう、私ノお姫様」
春先と言えど、昼前はまだ肌寒い。
自分の腕を自分でさすっていたメルティに、リシャールは巻いていたストールを掛けてやり、コートのポケットから手袋を取り出しはめてから、再びメルティへ腕を差し出した。
自分よりもリシャールのほうがずっとはしゃいでいるようで、メルティは苦笑いするも悪い気分ではない。
兎角自分の誕生日にそこまで執着はなかったし、つい前まではせいぜい『いつもより良いプレゼントを貰える日』くらいにしか思えなかったが、リシャールと過ごすようになってから、こういった記念日ごとが楽しく思えた。
心の底から『貴女が生まれてきてくれて良かった』を伝えてくる、リシャールの純粋な好意と思いやりが心地よく、気づけば誰に言われるでもなくオフの日を誕生日に合わせていた。
一ヶ月も前から『何が欲しい』『何をしたい』としきりに聞いてくるのだから、いやでもそうなる。
メルティがリシャールの腕に手を絡め、二人は歩き出す。
「メルティさんは、淡いピンクが似合います。メルティさんにはサクラがぴったりだと思うノです」
「貴方この間は、『メルティさんにはチューリップが似合う』って言ってたじゃない」
「訂正です。サクラ『も』似合うノです」
「都合良いわね」
「本当なんですから仕方ないです」
それからは楽しい時間を過ごした。
静かな庭園に咲く桜の写真を撮ったり、併設の喫茶室で久々にゆったりと語り合ったり。
プラネタリウムのペアシートをとって寝転びながら美しい星を眺め、帰りにはお揃いの星のキーホルダーを買った。
以前メルティが気まぐれに『行ってみたい』と言ったのを覚えていたのだろう、予約していたレストランでアフタヌーンティーを堪能し。
あっという間に過ぎていく時間を、久方ぶりに名残惜しく感じた。
互いに忙しく、最近は長い時間一緒に過ごすことが出来なかった。だからこそ余計に離れ難く、明日は二人して早くから仕事だと分かっていても、リシャールがいないまま誕生日の幕を閉じることが寂しく感じた。
この後はリシャールが誕生日の席を予約したと言っていたが、それから先は何も聞いていない。
「メルティさん、今日はとても楽しかったですね」
隣のリシャールの方はと言うと、さっき買ったお揃いのキーホルダーをいたく気に入ったようで、時々空にかざしてみたりしながら鼻歌を口ずさんでいる。
こっちの寂しさに気づいていないのかと、相変わらずの鈍さに唇を尖らせたが、そんなところも彼らしいと言えば彼らしい。
「メルティさん、少しこちらで待っていてくださいますか?近くに車を停めてますノで、移動させてきます」
駅前の広場のベンチにメルティを座らせ、足取り軽く交差点の方まで走り出そうとした。
その時だった。
「あの……もしかして、リシャール君ですか?」
メルティより少し下か、若い女性が二人。リシャールに声をかけてきた。
「Oui」
とあっさり答えたリシャールに、二人は声なき声を上げる。
そこで「違う」と言えないのが彼だが、今日くらいは躱してくれても良かったのではと、メルティの心はささくれる。
「あ、あの、この間の公演見ました!」
「ありがとう、ともだち」
「また観に行きます!」
「チケット、たかい、とても。うれしい、こんにちは」
たどたどしい日本語で返すリシャールに、ペンとメモ帳が渡される。流れるようにサインして返すその時間の間に、交差点の信号は2回も青になった。
「Passez un merveilleux moment」
リシャールがその挨拶でその場を切り抜けようとするが、その間に周りの人がリシャールに気づき始める。
誰かは分からくとも『見目の良い外人青年』がサインをしているとなれば、何らかの有名人であろうことは察することが出来、周囲の目に晒され居た堪れなくなったリシャールが、交差点待ちはリスクが高いと見て引き返してくる。
メルティのもとまでやってくると、少し考えたのち言いづらそうに告げる。
「メルティさん、申し訳ありません。少し歩かせてしまうのですが、車は諦めて一緒に参りましょう。ここからはそれほど遠くありません」
「私、今日ヒールなのに」
僅かな苛立ちに、少し困らせてやろうという意地悪がつい口に出る。
いつもなら出ない冷ややかな声が出てしまい、リシャールはひどく傷ついた顔をした。
「申し訳ありません、うっかりでした」
しゅん……と項垂れるリシャールに、言い過ぎたなと心が痛んだが、それよりも『この事態を招いたのはリシャールである』というのは事実で、原因のリシャールが随分しょげているのが納得いかず、メルティはますます意固地になり、不機嫌を露にする。
それに気づいたリシャールが放った言葉はこうだ。
「メルティさん……もしかして、怒ってますか?」
その瞬間、さすがのメルティも我慢ならなかった。
怒ってる。
そう、怒ってるわよ。
大人気なく思ってるわよ、悪い?
私の誕生日なのに他の子ににこにこしてファンサービスして、どういう事かしら。
余りにも鈍すぎない?
お姫様扱いはどうなったの?
貴方が可愛いって言ってくれると思ってお洒落して、貴方がお祝いしたいって言うから無理やり今日を空けたのに。
私ばっかり、私ばっかり…………
「貴方には失望したわ」
山のように言いたいことを飲み込んでたった一言。
氷の如き視線を投げ、メルティはリシャールに背を向けた。
―――――
「メルティさん!!」
後ろからの声が聞こえたかと思うと、直ぐに肩に手が置かれ振り向かされた。
はあはあと息を切らすリシャールに、ほのかに心が軽くなるが、メルティは努めて平坦な表情を貼り付かせる。
「メルティさん」
「なあに」
「申し訳、ありません。私、あノ、つい嬉しくて……」
「嬉しい!?」
どれだけ謝り倒すかと思いきや、リシャールは額の汗を拭いながら困ったように笑っていて、わけのわからないメルティはわなわなと震えたものの。
「メルティさん、私に、やきもち、焼いてくれたんです?」
押し込めていた感情を言い当てられ、メルティは肩に掛かったままのストールを握って黙り込む。
「メルティさん、初めてですね、私に、やきもち」
「何回も言わないで」
「ふふっ……メルティさん、可愛いです」
「ふざけないで」
「ふふっ、申し訳ありません、でも、つい」
すっかり毒気を抜かれて肩の力が抜けたメルティの手を、リシャールが取る。
「メルティさん。宜しければ、こちらを」
リシャールがポケットから取り出しメルティに握らせたのは、さっきの星のキーホルダーに――
「メルティさん。今日は私ノアパルトマンに一緒に帰りませんか」
「……」
「とは言え、こちらは仮住まいノ鍵なノで、ほんとノ合鍵は帰国してからになりますが……」
夜はまだ冷える季節だ。なのに、リシャールはよほど必死に走ったのだろう。
鼻の頭の汗をメルティはハンカチで拭ってやる。
「――レストランにケーキはあるんでしょうね?」
「もちろん、お誕生日ですから」
「プレゼントって、この鍵だけ?」
「まさか」
「予約時間過ぎてないの?」
「電話してから走ってきました。私、足は早いノで、メルティさんに追いつく自信がありました」
「――可愛くないわね」
まだ許してない、の態度を取ろうとしたものの、嬉しい気持ちのほうが先に立って上手くいかず、メルティの表情を見てリシャールはまた嬉しそうに笑う。
「私ノ思い違いでなくて良かったです」
「そう」
「メルティさん、私ノフレジェ。お許しいただけますか?」
「この後次第よ」
「はい」
リシャールと付き合いだしてからというもの、どうにも『周りの求める大人らしい女性』でいられないことばかりで、それもこれも年下のくせに何かと可愛い可愛いと言ってくるリシャールのせいではないかと、エスコートの手を取りながらメルティはむくれる。
「メルティさん」
「何よ」
「楽しいですね」
「――それ貴方だけよ」
「えぇ~……」
汗が冷えたのだろう、寒さに身をちぢこめるリシャールに、今度はメルティが、巻いていたストールをリシャールの肩に掛けてやる。
「メルティさんは大丈夫ですか?」
「もう十分暖かいわよ」
メルティは知っている。
リシャールがこのストールを巻いてきたのは、朝夕がまだ冷えるのを分かっていて、自分が万が一寒いと言い出したときのため用意したものであると。
「ありがとう」
女性らしい薔薇の刺繍が入ったストールをリシャールに巻きつけ、ついでに頬にキスをくれてやる。
姫たるもの、仕える騎士に褒美をやるのは当然のことだからだった。