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    PONZU00__0

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    🐺🐯と❄🐯です

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    9軸の❄🐯
    直人目線

    #ふゆとら
    Chifuyu ×kazutora

    待ってますよ 「頼みたいことがあります」
     低く、真剣な声だった。

     彼とは、いや彼等とは簡単には言い表せない関係を続けていた。

     ーー「復讐がしたい」

     そう言ったのは自分だ。二人がこの話にのるだろうと確信していた。一方にとっては憧れの人の思いを守るため。一方にとっては最愛の友の宝を救うため。そして、自分にとっては姉の復讐のため。利害が一致しただけの関係。少なくとも自分にとっては、その筈だった。



     雨が降っていた。夏の終わりにしてはやけに涼しい夜だった。昼に見えていた月は既に雨雲に隠され、雨音は音を遮断し、ただ暗闇だけが広がっていた。いつか雨は止むと知っていても、永遠に降り続くような気がしたのを今でも覚えている。
     
     「頼みたいことがあります」
     低く、真剣な声だった。いつになく緊張した面持ちで彼、松野千冬は言った。彼から二人で話がしたいと言われたのは数時間前のこと。彼がこんなに急に訪ねてきたのは初めてだ。それに、彼と二人きりで話すのは初めてかもしれない。彼と話すとき、彼の隣にはいつも羽宮一虎がいるから。
     「珍しいですね。羽宮くんには頼めないことですか。」
     「……ええ」
     常に表情を変えない彼には珍しく、どこか困ったような、悲しそうな顔をしていた。反社という存在を心から嫌悪してはいるが、協力者としての彼自体にさほど嫌悪感があるわけではない。協力者として彼の頼みを聞くことくらい、今さら躊躇するようなことでもない。まあ限度はあるが。
     「一虎くんのことで」
     感情が見えない表情ではっきりと言った。そう、これがいつもの彼だ。感情を圧し殺した表情で必要最低限のことだけをはっきりと言う。流石、東卍の幹部というべきか。あまりの切り換えの速さに先程の表情は見間違えだったような気さえしてくる。
     ー羽宮一虎のことか。
     蜂蜜色の大きな瞳に形の良い唇。人の目を惹く中性的な顔立ちと、白く細い首筋に不釣り合いな黒い虎。
     松野千冬の協力者で、僕のもう一人の協力者。僕にとってはその程度の認識だが、彼には違う。彼等の関係は複雑で、理解され難いものだ。きっと彼等以外、いや場地圭介も含めた彼等三人にしかわからないだろう。
     奪った人間と奪われた人間。加害者と被害者。一言で表せば、これに尽きる。だが彼等には違う。少なくとも松野千冬にとっては。場地圭介は松野千冬にとって全てだったはずだ。その人の最愛の宝。守りたかった人が、命をかけて守り抜いた大切な人。松野千冬の羽宮一虎の認識はおそらくそうだろう。
     「頼みって何ですか。僕にできることなら努力しますが…」
     彼の目に、僕は映っていない。きっと遠くを見ている。ここでも、今でもないどこかを。ふっと彼の目が僕を捉え、そして彼はすぐに視線を外した。彼にしては珍しく、かすかに躊躇しているように見える。
     「俺が死んだ後、一虎くんのことを頼めるのはあなたしかいないんです。」
     まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。彼は真剣な眼差しで、真っ直ぐ僕を見据えている。
     「…僕にどうしろと?」
     ここまで協力してきた二人だ。情がないわけではない。だが、彼等と協力者以上の関係になりたくないのも事実だ。この不健全な関係に、馴れ合いも、必要以上の親しみも情報も必要ない。それに羽宮一虎が彼以外の人間と新たな関係を結ぶとは思えない。実際に協力者として関わっている時間が長いのは松野千冬よりも羽宮一虎のほうだ。それでも、それは羽宮一虎が松野千冬の協力者だからだ。僕と羽宮一虎が松野千冬なしで関われるとは思えない。
     僕が怪訝な顔をしていると彼は困ったように話し出した。
     「別に世話をして欲しいわけじゃないです。ただ、一虎くんが死んだ時に一虎くんの死をわかる人が居て欲しいだけで。誰にも知られず死ぬなんて、一虎くんは気にしないだろうけど、俺は嫌なんです。俺が、巻き込んだせいでそんなことになるのは、っ…すいません。話しすぎました。」
     驚いた。目の前の彼は、いつもの東卍幹部で表情を変えない男には見えない。むしろ年相応の若者の顔をしているように見える。その特徴的な猫のような目には隠しきれない感情が浮かんでいた。自分でも困惑しているようだ。片手で顔を覆って目をつぶっており、眉間に深く刻まれた皺からは自分の発言への後悔が窺える。彼の言った通り、「話しすぎた」のだろう。おそらく誰にも言うつもりのないことだったに違いない。そもそも東卍に羽宮一虎のことを話せる人間はいないだろうが。
     ー死ぬまで抱え込むつもりなのか。
    そう思ったら、無意識に言葉が溢れていた。
     「言葉にしたいことがあるなら、したほうが良いと思いますよ。言う場所がないならここでも良いです。聞かなかったことにしますから。」
     彼自体に嫌悪感は抱いてしない。むしろ、その生き方には惹かれるものがある。憧れた人を追い続ける人生。簡単なことではない。全てが急速に変わりゆく世界で変わることのない思いを抱き続けるなんて、いったいどれほど強い思いが必要なんだろうか。
     「なんで…」
     驚いた様子で僕を見る彼に言った。
     「思いを心に溜め続けるのは心に毒です。」
     姉が死んで、ずっと復讐心を心に宿し続けている。彼等がいなかったら、思いを伝える相手がいなかったら、僕はどうなっていたかわからない。
     彼は何年一人で思いを溜め込んできたんだろう。
     
     沈黙が続く。彼は何か話すだろうか。
     雨音が響く。彼は何を話すだろうか。
     雷が轟く。沈黙を破るのはどちらか。
     「一虎くんは」
     声が伝わる。きっと声は止まらないだろう。
     

     一虎くんは、場地さんが命をかけて守った人なんです。場地さんはいつも一虎くんを想ってました。場地さんは一虎くんのこと、あんまり教えてくれなかったけどすごく大切なんだって聞かなくてもわかるくらいで。
     だから、一虎くんを今の東卍に近づけたくなかった。場地さんが一虎くんを助けるために作った東卍は、もうその頃の見る影もない。それに、場地さんの願いは、きっと一虎くんが笑ってることなんです。できれば、かつての東卍のメンバーと。でもそれはもう無理だってわかってたから、せめて普通に生きて欲しかった。でも、俺は一虎くんを巻き込んだ。一虎くん以上の適任なんていなかった。あの人は東卍の創設メンバーで、今の東卍でほとんど顔が割れてなくて、それで、かつての東卍を知る唯一の人だった。しかも喧嘩が強くて、あの容姿。否が応でも人の目を惹くあの容姿です。一虎くんが自分の顔が好きじゃないことは薄々気づいてました。俺だって、一虎くんの容姿を使うようなことしたくはないと思ってた。でもあの容姿は喧嘩以上に武器になることもわかってた。一虎くんが俺の頼みを断らないだろうことも。
     俺は、自分の目的のために一虎くんを、場地さんの宝を巻き込んだんです。場地さんの願いに背くことだってわかってたのに。そのことがずっと心に引っ掛かってる。でも、一虎くんは
     ーー俺が自分でお前についていくって決めたんだ。別に場地だって怒んねえよ。きっとお前のこと褒めるぜ。よくやったじゃんって。だから気にすんなって。な?
    いつもそう言うんです。俺は結局一虎くんに甘えてる。場地さんの願いを叶えたかった筈なのに、一虎くんを巻き込んだうえに、いつの間にか俺があの人を必要とするようになってた。一虎くんが隣にいることが当たり前になってたんです。俺は場地さんの願いを叶えられなかった。きっと一虎くんは俺が拒絶しない限り俺の隣に居てくれる。きっと俺も一虎くんを放せない。もう喪いたくないんです。
     最近わからなくなる。一虎くんを喪いたくないと思うのに、もう場地さんは関係ないんじゃないかって、思う。俺の願いなんじゃないかって。一虎くんを恨んだことだってある。殺してやりたいと思ったことがないわけじゃない。でも、今、俺は一虎くんが隣に居ることに安心してる。一虎くんに笑っていて欲しいのも、もう俺の願いかもしれない。場地さんが一虎くんを大切に思ってたことの理由が、最近わかった気がするんです。なんか、放っておけない。笑った顔を見ていたい。隣に居たくなる。でも、きっと一虎くんの願いは俺の隣に居ることじゃない。場地さんの願いも。だから、一虎くんが自分の意思で何かをするとしたら俺が死んだ後です。その時、一虎くんのことを忘れないで欲しいんです。
     俺は、一虎くんがどんな風に生きるのか見てみたかった。でもそんなこともうできない。あなたに変わりに見て欲しいわけじゃないです。そんなこと頼めない。ただ一つだけ俺の代わりにして欲しいことがあるんです。これは俺のエゴです。罪悪感なのかもしれない。でも頼みたいんです。一虎くんが死んだ時に、お墓にいれてあげて欲しいんです。できれば、場地さんのお墓の近くに。一虎くんの遺品を近くに埋めるだけでも良いんです。
     …一虎くんには俺以外に頼れる人も、面倒をみてくれる人もいないから、きっと誰もお墓なんてつくってくれない。死んだことすら知られないと思います。一虎くんは当然の報いだとか言いそうですけど、俺は嫌だ。そんなの当然なんかじゃない。あの人はちゃんと罪を償ってる。その機会を奪ったのは俺だけど、あの人は罪を償って、もう人並みのことを望んだって良いはずでしょう?俺が言えることじゃない。でも、彼にそんな、自分なんてどうでもいいって、思って欲しくない。死んで、一虎くんの身体がゴミみたいに扱われるなんて、耐えられない。
     どうか、お願いできませんか。もう俺が死んだら、一虎くんのことがわかるのはあなたしかいないんです。虫のよすぎる頼みだってわかってます。それでもお願いしたいんです。


     ぽつぽつと話し始めた彼の言葉はだんだんと勢いを持って、普段の彼からは考えられないほど感情がこもっていた。それに反比例するように雨が勢いを失っている。雨が屋根を伝い、落ちる音がかすかに、だが確かに響いている。いつも距離を感じるような敬語を使う彼が、敬語が疎かになるほど夢中で話していた。いったいどれほどの言葉を、どれほどの間、呑み込んできたんだろう。場地圭介への思いを。羽宮一虎への思いを。彼の羽宮一虎への認識は、もう、場地圭介の最愛の宝というだけではないのだと伝わってくる。そのことを、彼の思いを、羽宮一虎は知ることがあるのだろうか。
     「楽になりました?」
     それ以外の質問はいらない。彼等のことに首を突っ込むつもりはない。彼等もそれを望まないだろう。今、彼が、松野千冬が言葉を吐いて少しでも楽になったのならそれでいい。雨粒が落ちる音が静寂を静かに切り裂いた。
     「…はい。すいません、こんな話、」
     「別に気にしません。言えと言ったのは僕ですし、気にしないで下さい。」
     「ありがとうございます。…助かりました。このままだったら、いつか一虎くんに言ってしまっていたかもしれない。」
     「…」
     彼の思いを知ったら、羽宮一虎はどんな反応をするだろうか。それを想像するには、僕はあまりに彼を知らない。でも、
     「あなたが死んだら悲しむでしょうね。」
     ふいに頭をよぎったことが、思わず口に出てしまった。
     「え?」
     「いや、忘れて下さい。すみません。変なことを言ってしまって。」
     こんなこと、僕が言えるようなことじゃない。僕は彼等を全く知らないのだから。こんなこと、僕が言うべきことじゃない。彼等を必要以上に知りたくないのだから。どうかこのまま聞かなかったことにして欲しい。
     だがその淡い願いは砕かれた。
     「一虎くんが、俺が死んだら悲しむってことですか?」
     「…」
     「そんなこと、あり得ないですよ。」
     「え」
     そう言った彼の顔は笑っていた。心底面白そうに。
     「だって、一虎くんは俺のために生きてはくれない。」
     淡々と言葉を紡ぐ彼の声は、感情が驚くほどない。顔を僕から背けてじっと窓を睨んでいる。
     「きっと俺のために死んでくれるけど、生きるのは場地さんのためだ。」
     表情は見えない。感情を感じない。それなのに、今が一番彼の思いが伝わってくる気がする。
     「わかってたことです。」
     何か言いたいのに声が出ない。音を発しようと開いた口は無様に空気を洩らすだけで音を発することはなかった。表情は見えない。顔を見たところで全くの無表情だろうが。感情を感じない。でも今、こんなにも胸が痛い。自分でも何故そう感じるのかわからない。何故だか胸は早鐘を打つのに思考は妙にクリアだ。全ての答えが出そうなのに出したくない。彼の心の内を知りたいのに知りたくない。
     また雨音が強くなってきた。もう雨音以外何も聞こえない。どこかで雷が鳴る音もする。雨音がもはやこの場になくてはならないもののように感じる。雨音も含めて、この場は静寂に包まれている。

     ーR R R R R R R R R
     場違いな甲高い音が沈黙の支配を壊すように部屋中に鳴り響いた。
     僕のスマートフォンの着信音だ。一体、誰から…?ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して表示された名前を見る。
     「…え」
     言葉を失う。表示されていた名前は羽宮一虎だった。…何故、今、彼から…?確かに彼からの電話は夜に多い。だが、今このタイミング。動揺するなというほうが無理だ。しかし出ないわけにはいかない。
     「…もしもし。どうかしましたか?」
     「千冬、千冬知らないか?あいつ、いつもの時間もうとっくに過ぎてんのに来なくて。お前のとこに居るか?」
     随分焦った声だ。松野千冬を心配しているんだろう。まさか彼を探して電話を掛けてくるとは思わなかった。だが早くここだと教えたほうがいいだろう。
     「はい、こ」
     「ここに居ます。」
     え?
     答えようとした途端松野千冬の手が僕の手からスマートフォンを奪った。彼は僕から少し距離を取って背を向ける。何かを話しているがよく聞き取れない。数分話した後、彼は電話を切った。
     「すみません。スマホお返しします。」
     「あ、ええ。何か言っていましたか?」
     「こっちに車で向かってるそうです。すみませんでした。急に来て、話を聞いてもらって。本当に助かりました。ありがとうございます。」
     「いえ…。」
     彼の行動に文句をつけることもできるが、そんな気にはならない。彼の行動の答えをきっと僕はわかっている。でも、わからないふりをしている。いつか、すべての答えを理解する日が来るのだろうか。その時、彼等の関係は、彼等との関係は、どうなっているのだろう。

     雨音が沈黙を満たす。

     雨音に紛れてかすかに車の走行音が聞こえた。

     「一虎くん、来たみたいなので帰りますね。あのこと、忘れないでください。お願いします。では。」
     「…ええ。」
     松野千冬は僕の返事を聞き終えると、踵を返し、一度も振り返ることなく去っていった。

     羽宮一虎に、どんな顔をして会うのだろうか。
     松野千冬を、どんな言葉で迎えるのだろうか。
     彼等は何を話すのだろうか。

     車の走行音は雨音にかき消され、二人は夜に溶けていった。



     松野千冬が死んだ。秋が深まる頃だった。あの夜から、あまり遠くない日だった。

     彼が死んだ日、以前の世界の記憶が戻ってきた。

     二人には感謝してもしきれない。武道くんは再び過去に行った。もし松野千冬が武道くんを庇って証拠を隠さなかったら、もしあの時羽宮一虎が武道くんを助け出してくれなかったら、もう武道くんは過去に行くことができなかったかもしれない。
     でもこの感謝を彼等に伝えることはできない。だからこそ、あの夜の松野千冬の頼みを、願いを、叶えたい。だが武道くんと再開したあの日以来羽宮一虎は僕の前から姿を消した。当たり前だ。彼からしたら僕は裏切り者なのだ。今どこで何をしているのか、全く見当がつかない。連絡を取りたいが、もし彼が思うままに生きているのだとしたら連絡を取ることは彼を再び縛りつけることになりかねない。それでは松野千冬の願いは叶えられない。そう思うと連絡を取るのを躊躇してしまう。だがこのまま彼の行方がわからないままでは彼の死を知って欲しいという松野千冬の頼みを無下にすることになる。一体どうすればいい?


     繰り返されるその思考を終わらせたのは、他でもない羽宮一虎からの電話だった。

     松野千冬の死から十日後の夜明け前のことだった。

     ー今日の夜、俺の言う場所に来てくれー

     それだけの短い電話。だが、それがあまりにも、松野千冬という存在を失くした僕たちらしくて、彼を思い出さずにはいられなかった。

     
     羽宮一虎が僕を呼んだのは郊外に近い高台だった。ほとんど人の出入りがないのだろうか。街灯すらろくにない、暗闇に辛うじて細い道があることがわかるような場所だ。
     車から降りると、彼は少し開けた場所に僕に背を向けるようにして立っていた。艶やかな黒い後ろ髪を風が乱している。鈴が鳴った。
     「よお、久しぶりだな。」
     彼は顔を少しだけ此方に向けた。冷ややかな目だ。黒と金の髪に隠されて口が見えない。
     彼の近くにはバイクが停めてあった。
     「お久しぶりです。」
     ゆったりと振り返った彼の目は、真っ直ぐに僕を捉えていた。
     「あの時はすみませんでした。あなたに何も言わずに、裏切る形になってしまって…」
     「別にいいよ。あんたにはあんたの理由があったんだろ。」
     押し黙ることしか出来ない。できれば彼に事情を説明したいが、それは不可能に近い。
     「ここさ、よく千冬と会うのに使ったんだ。」
     彼は僕から空に視線を動かした。何もない空だ。重い雲が夜空を占拠している。
     「千冬がここ教えてくれたんだ。人が全然来ないから、密会には丁度いい場所だって。」
     今度は視線を地面に落として、聞こえるか聞こえないかわからないくらいの声で、ここで煙草を吸う千冬が好きだった、と呟いた。ような気がした。口が髪に隠されて、口の動きは見えなかった。
     「今日、黒龍の隠し口座を止めた。」
     感情のない声が淡々と告げた。風が勢いよく吹きつける。彼の表情は、もはや全く窺えない。
     鈴が急かすように踊って音を鳴らした。
     「本当ですか?」
     「ああ。そのうち混乱が表沙汰になる筈だ。」
     そうか。彼はこの十日間ずっとそれに奔走していたのか。全くその可能性を考えていなかった。だが当然か。彼の目的は佐野万次郎を救うこと。そして場地圭介の守りたかった東卍を取り戻すこと。それは松野千冬が死のうと変わらないだろう。結果的に無理に連絡を取らなくて良かったかもしれない。彼の邪魔をしなくて良かった。
     「…これからどうするつもりなんですか。」
     「俺に出来ることはもうない。俺には稀咲を追い詰められない。それはもうあんたら警察の仕事だろ。」
     確かに松野千冬が隠した証拠には稀咲をひっぱれる内容が含まれていた。それに、彼のお陰で今東卍は混乱している。今ならいけるかもしれない。だが、訊きたかったことはそれじゃない。
     「稀咲は必ず捕まえます。でも、今訊いてるのは貴方がこれからどう生きるかです。」
     目の前の彼は何も答えない。風が彼の表情を見せてくれない。
     「羽宮くん…」
     なにかが嫌だ。彼は生きている筈なのに、まるで死人と向かい合っているようだ。心がざわつく。無意識に拳を握っていた。風が彼の髪の毛を弄ぶ。その一本一本から目が離せない。鈴だけが軽やかな音を立てている。
     「今日あんたを呼んだのはさ」
     風がザワザワと五月蝿いのに、彼の声ははっきりと聞こえる。
     「渡したいものがあったからなんだ。」
     「え…」
     彼はポケットから何かを取り出しながら僕の方に静かに歩いてきた。
     「これ、受け取ってくれるか?」
     「ブレスレット…?」
     彼の手に載せられていたのはシルバーのブレスレットだった。細い銀糸が絡まりあっているかのような繊細な造りで、控え目に四つ葉のクローバーの飾りがついている。
     「千冬がくれたんだ。いつだったか、もう思い出せねえけど。」
     相変わらず彼からは生気を感じない。それでも彼の表情は穏やかで、何かを慈しむようだった。
     「松野くんが、貴方に?」
     「うん。笑えるだろ?俺に四つ葉のクローバーなんて、アイツ何考えてたんだろうな…」
     「花言葉のこと、ですか。」
     「あんたも知ってんだろ。約束と、幸運。馬鹿だよな。俺にそんなこと願ってどうするつもりだったんだろうな、ホントに…」
     目の前の男は、悲しげに唇を噛んだ。
     ほら、やっぱり貴方が死んだら、この人は悲しむじゃないですか。あの夜の松野千冬との会話が思い出される。あの時の彼の笑った顔が忘れられない。彼の表情とともにもう一つの花言葉を思い出す。確かーー。
     「…これ、場地の墓に供えてやってくんねえかな。アイツから場地を奪ったのは俺だけど、せめて死んだ後くらい一緒にいさせてやりたくてさ。でも千冬の遺品なんて、これくらいしか持ってないから。」
     自嘲的な笑みが乱れ舞う髪の毛の間から覗く。後悔を纏った声が風に乗って伝わってきた。
     「貴方は、行かないんですか?」
     「うん。もう俺はアイツらの邪魔したくないからさ、頼むよ。」
     彼は僕の手にブレスレットをそっと握らせた。
     あぁ、嫌だ。目を細めて、口角を上げて、からりと笑う彼の顔は、あまりにあの夜の松野千冬に似ている。
     ーー一虎くんが、俺が死んだら悲しむってことですか?
     ーーそんなこと、あり得ないですよ。
     あの時の松野千冬の心情を今になって理解させられるなんて。あの夜の彼も、目の前の彼も、笑みの下に諦めを隠している。
     「なんで…」
     そんな顔してるんですか、なんて訊けるわけがない。
     「来てくれてありがとな。もう帰った方がいいぜ。そのうちここにも東卍の追手がくる。」
     そうだ。この人は今、明確に東卍の敵だ。
     彼が東卍の敵になるのはこれで二度目か。一度目は佐野万次郎を殺すために、二度目は佐野万次郎を救うために。なんて皮肉なことだろう、と思う。彼は何を思っているのか。僕に知る術はない。
     彼の目は一体何を映しているのか。彼の心は、今どこにあるのか。その答えを知ることは、きっとないのだろう。
     言うべき言葉が出てこない。目の前の彼はそのことに気づいているのかいないのか、かすかに見えるネオンの光を見つめながら続けた。
     「帰るときは郊外の方から帰った方がいい。」
     「わかりました。」
     そう答えることしかできなかった。
     きっと、僕にこの場に居ることは許されない。
     貴方は?とは訊かなかった。訊く必要もないことだ。
     車に乗り込んで、エンジンをかける。彼から受け取ったブレスレットはハンカチに包んで胸ポケットに仕舞った。
     羽宮一虎はただ此方を見つめている。
     じゃあな
     彼の唇がそう動いた気がした。
     一瞬彼を見つめ返して、車を出した。もう言葉は必要ない。お互いにそんなことはわかっていた。ヘッドミラーに映る彼は鏡面に彼が映らなくなるまで、ずっと此方を見つめていた。乱れ踊る金と黒の髪の毛は、いつまでも彼の表情を隠し続ける。もう聞こえない筈の鈴の音が耳の奥で高く響いた。
     もう、生きている彼と会うことはない。そんな予感がした。もしもう一度彼と話せるなら、彼に四つ葉のクローバーの花言葉を知ってもらいたい。それを聞いたら、彼はまた悲しげに唇を噛むだろうか。



     もう一度は永遠に来なかった。
     そんなこと、わかりきっていたことだ。


     身元の確認をお願いしたい、所轄の刑事にそう言われた。それだけで、もうわかってしまった。誰の死体かなんて、わかりきった答えだ。

     「こちらです。」
     連れてこられた部屋は無機質で、ただ冷たかった。
     刑事が人型の膨らみに掛けられた布を静かにどけた。
     特徴的なサイドに分けられた金の前髪。長い睫毛。片耳に、ピアスホール。
     「羽宮くん…」
     刑事は身元を確認した後、いくつか話をして部屋から出ていった。
     彼のスマートフォンに僕の連絡先しかなかったこと、死体の側に血の付いた煙草が落ちていたこと、死顔が穏やかだったこと。
     耳をすり抜けていく音は、全て予想通りの音だった。
     胸に一発、それが致命傷だったらしい。死体の発見が早かったから彼の顔は綺麗なままだ。あそこの管理人が見つけたと言っていた。彼は、そのことも想定済みだったのだろうか。それとも、あそこで朽ち果てることを望んだのだろうか。松野千冬が彼に教えた、あの場所で。
     まるで眠っているかのような彼は、何も答えてはくれない。
     涙は出ない。そんな関係じゃない。僕も、目の前に横たわる彼も、あの夜の松野千冬も、きっとそう思ってしまった。
     ーここなら、彼の死体がゴミのように扱われることはないだろう。
     扉を開ける。
     さっきの刑事が、遺品だと言って小さな袋を渡してきた。袋が手に当たった瞬間、あの鈴の音が聞こえた。
     ああ、まだやるべきことがある。彼等の願いを叶えなくてはいけない。



     穏やかな風が髪を撫でる。澄んだ空は無機質さと聖母のような慈しみの両方を湛えている。
     全てを見てきた筈の空は、今日も素知らぬ顔で全てを見守っている。
     「こんにちは。場地圭介さん。」
     墓石に名を刻まれた人物に会ったことはない。それでも初めて会った気がしないのは、あの二人の間にある溝に、ずっとこの人が居たからだろう。

     花立に供えられた花は少し色褪せている。
     秋の終わりを告げるような、冬の寒さを孕んだ風が木々を揺らす。手の中ではブレスレットが金属特有の音を立て、鈴が一つ二つ音を溢した。
     幹が揺れ、葉が擦れる音が空間を支配する。
     「…あの高台、密会に向いてないじゃないですか。」
     穏やかな光に誘われて、不意に呟いてしまった。
     あの高台には、よく管理人が来るそうだ。それを、松野千冬が知らなかった筈がない。
     松野千冬は、羽宮一虎があの場所で死ぬことを望んでいたのかもしれない。自分が教え、二人が同じ時間を共有したあの場所で。
     「…浅はかな詮索かな」
     事実は、松野千冬が僕に羽宮一虎の死を認知することを望み、僕は羽宮一虎があの場所で死んだことでそれができたというだけだ。
     でもきっと、彼等の関係はただの利害が一致しただけの関係ではなかった。
     恋。
     そんな陳腐な言葉が頭に浮かぶ。これも愚かで浅はかな詮索だろう。彼等の関係は彼等だけが知っていればいい。知ることを望まなかった僕に、今さら知る権利なんてないだろう。
     あの夜松野千冬が滲ませた感情も、松野千冬が僕からスマートフォンを奪ったのも、あの時僕が知らない振りをした答えも、松野千冬の願いも。

     鈴のピアスと銀のブレスレットを供物台にそっと置いた。

     あの夜松野千冬が滲ませた感情。松野千冬が僕からスマートフォンを奪った理由。あの時僕が知らない振りをした答え。松野千冬の願い。きっとその全てを、このブレスレットは知っている。
     控えめに付いた四つ葉のクローバーが、太陽光を反射してキラリと光った。

     ー私のものになってー

     口から溢れた四つ葉のクローバーの花言葉は、風に呑まれて空に消えた。

     彼の願いは叶っただろうか。

     弱くなった風が、また僕の髪を撫でた。

     僕と彼等の関係を表す言葉を、僕はもう見つけられない。

     
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    💙
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