オレだけの天使 誰かが恋をすることは罪だと言った。
あの日、廃墟同然のビルの屋上で見つけたのは何も知らない天使だった。
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「なんでこんなトコにガキが居ンだよ」
真っ昼間の繁華街。全てから逃れるように歩いて、たどり着いた場所は廃墟同然のビルの、手すりのない屋上だった。十数メートル下のノイズから切り離された静かな空間。剥げた塗装とひび割れたコンクリート、覗く鉄骨。そんな場所で齡十四のオレがそんなことを言ったのには、ちゃんと理由がある。
明るすぎる空の下。賑やかすぎる人の群れ。立ち込める煙草の匂い。喧嘩では収まらないような苛立ちを落ち着かせるために、人がいないと践んで来たココに、ソイツは居た。
サラサラの黒髪に、黒い学ランに包まれた白い肌。優等生然とした少年が壁に背を預けて眠っている。
空に溶け込んでしまいそうな儚さを湛えたソイツは、あまりにもこの場所に不釣り合いで、空から落ちてきた天使かと思った。
「…おい」
予想外の出来事に苛立ちも忘れて、眠っているソイツの肩を揺らす。長い睫毛が微かに動いた。 「おい、起きろ」
「ん…」
うっすらと開かれた瞳がオレを捉えた。あどけなさを残した蜂蜜色の瞳がオレの心を捕える。
「オマエさァ、なんで…は?」
次の瞬間、蜂蜜色の瞳が恐怖に染まっていた。
「う、ぁ、と、うさ」
震えた肩から思わず手を離す。オレを誰かと勘違いでもしているのか、蜂蜜色の瞳は最早オレを映してはいない。
あーあ。苛々すンなァ。
「オマエ、こんなトコで何やってンの?」
「…え、?あ、」
混乱しているのか、怯えているのか、マトモな返事は返ってこない。
「こんなトコで寝るとか馬鹿だろ。ユートーセーがよ」
「!…違う!」
少年にしては少し高い声が心地よい。
「何がちげーンだよ」
「…っ、優等生じゃない!俺は、もうあそこには帰らない」
握られた白い華奢な手は細かに震えている。襟や袖から覗く、できたばかりの痛々しい痣は『とうさん』とやらがつけたものだろう。
ふと思い立って、ポケットからくしゃくしゃの煙草の箱を取り出した。一本、箱から出して口に咥える。
「煙草…?」
煙草の先端に火をつけると、ソイツは驚いたような顔をした。オレから距離を取ろうとするソイツの腕を掴む。もう一つの手で煙草を持って、煙を吐いた。
「オマエ、名前は?」
「…一虎」
今この瞬間、怯えた一虎の瞳に映っているのはオレだけ。そのことに苛立ちを掻き消すような感情が沸き上がってくる。一虎の瞳に映るオレの目は愉快そうに笑っていた。
「一虎ァ、家帰ンねーんだろ?」
「…?」
状況を飲み込めていない一虎に、もう一度煙草を吸って煙を吐きかける。どうせこの意味も知らないンだろうけど。
「うわ、ゲホッなにゴホッ…ゲホッ」
まだ吸える煙草を乱暴にコンクリートの地面に擦り付けて、空いた手を一虎の後頭部に回した。
「煙草の味教えてやるよ」
「え…?、っンむ、ん、ふ」
煙草の匂いをつけるように、口の中を細部まで舐める。
「ぁ、ンぅ、っ、んーーっ!」
抵抗するように胸を押されて一虎の口から離れた。
一虎が肩で息をしながら目に涙を浮かべてオレを睨む。唾液でベタベタの一虎の口を拭ってやった。
「なんのつもりだよっ…」
怖さなんて一切感じない精一杯の威嚇がオレの心を刺激する。苛立ちなんて、もう完全に何処かに消えた。目の前の一虎以外、今は全部どうだっていい気さえする。
「オレがオマエのこと、ユートーセーじゃなくしてやるよ」
「え…?」
一虎が目の縁に涙を貯めたままオレの目を見た。指の腹で一虎の目元を拭ってやる。
一虎はオレの手が近づく度に肩をびくりと震わせる。オレに怯えているのか、手が迫ってくることにトラウマでもあるのか、どちらにせよ気に食わない。
怯えを隠すようにオレを睨んでくる一虎の顎を片手で掴む。一虎が反射的に目を瞑った。
「おい、目開けろよ」
「っ…」
おそるおそる目を開ける一虎の唇に親指を当てる。逃げようとする一虎の動きが子ども特有の悪戯心を煽った。親指で一虎のカサついた唇を撫でながら話しかける。
「一虎ァ、煙草うまかった?」
「…わかんない」
怯えたような、小さな声。
「ハッ、ガキかよ」
「!ちがっ…うわっ」
何か言おうとした一虎の身体を固いコンクリートに押し倒す。顎を掴んだまま馬乗りになって、使っていない手をワイシャツの下の痣が目立つ白い肌に這わせた。
「ぁ、え…」
「ガキ、卒業させてやろーか?」
「やっ、…ちょっ、待って、ンっ」
一虎が手をバタつかせてか細い声で抵抗する。視界にちらつく一虎の顔は赤かった。
「ハハッ」
やべえ。愉しい。一虎の赤い顔にゾクゾクする。
こんなんで顔赤くするなんてやっぱガキだ。でも今はガキのままがいい。いつか、コイツがオレのトコロに堕ちてくるまで。コイツがオレを選んだら、そん時オレがガキを卒業させてやる。だから今はこれでやめてやるよ。
一虎の身体から離れて、今度は一虎の横に寝っ転がる。最早オレの興味は完全に一虎に向いてしまった。
「オマエ、今いくつ?」
「十五…」
「は?」
「えっ…」
突然の低い声に驚いたのか、一虎が一際大きく肩を揺らした。
いや、それより今十五ってことはオレより年上かよ。今日はまだ十月で、明日から十一月だから、当然オレはまだ十五じゃねえ…。
「おい、オマエ、誕生日は?」
少しの間。
傷ついたような顔で一虎がオレから顔を背け、空に目をやった。
「…知らない」
「ア?知らないってなんだよ」
横顔からわかる一虎の瞳は輝きを完全に失っている。どこか遠くを見るような一虎の表情は、諦めという言葉がよく似合った。
「地獄に誕生日なんて、必要ないだろ」
「地獄だァ?」
「家も、学校も、全部地獄だ」
それが当然だ、と言わんばかりの平然とした声。諦めと軽蔑が曖昧に混ざり合った、朧気な笑顔。
「つっまんねー顔してンなァ、オマエ」
「っ!何が、何がわかんだよ、お前に…!」
初めて一虎が声を荒げた。起き上がって上からオレを見下ろしてくる。今日一番の悲痛な表情を浮かべて。
あーあ。こんなキモチ初めてだよ、クソ。
もう一度顎を掴んで強引にオレの方に引き寄せる。顔と顔が鼻がぶつかるほどに近づく。
「っ、なんだよ…」
コイツのトラウマも、この表情も、全部気に食わない。だから。
「オレが地獄から連れ出してやるよ」
「ー…は?」
トラウマも表情も全部オレが塗り替えたい。
「家も学校も忘れろよ」
全部オレが初めてがいい。
「オレがもっといいモン、全部教えてやる」
煙草も酒も何もかも。
顎を解放して、一虎の頬を撫でる。壊れないように、優しく。
一虎の肩は震えていなかった。
「…ほんと?」
空気が漏れるような、微かな一虎の声。
「おう」
父親のことなんてすぐに忘れさせてやるさ。
「んじゃ、次はバイクだな。どーせ乗ったことねーだろ?」
起き上がって、一虎に手を差し出す。
「バイク、持ってんの?」
一虎がオレの手をとって立ち上がった。
「誰かの奪えばいーだろ!行くぞ!」
一虎の手を握ったまま走り出す。
「え?うそ、わっ」
困惑する一虎をよそに階段を落ちるように駆け降りて、騒がしい繁華街を走る。
「一虎ァ!海行こーぜ!」
繁華街の喧騒に負けないくらいのデカイ声で叫ぶ。
なァ一虎。オマエとなら何処へでも行ってやるよ。家からも学校からも、煩わしい何もかもから逃がしてやるから。
だから、早くオレのトコロまで堕ちてこい。オレだけの天使。