TOXIC「御託は良いからとっとと探せ!!」
錦山は携帯電話越しの部下を怒鳴り付けた。その後も続く弁解を遮り、切電する。手元の端末を叩きつけたくなるのを、危うく堪えた。全くこれだけ手を尽くして探し出せないなんて大概どうかしている。桐生は間違いなく神室町近辺に潜伏しているはずなのだ。なのにどうして見つからない。クソ、どいつもこいつも、使えない奴ばかりだ。
苛ついた気持ちを鎮めるべく、事務所を飛び出す。部下の静止は聞かなかったこととした。煙草に火を付け、紫煙を纏いながら、夜の街を彷徨う。一人で街を出歩くのは久しぶりだった。夜風が心地良いような気もする。だが頭の中は依然、沸騰しそうなほどに茹だっていた。
足早に駆け抜ける歓楽街。雑踏と、ネオンの対比に暗む闇。そこに溶け込むような何の変哲もない路地。錦山が注意を向けたのは単なる偶然としか言えなかった。もしくは、何かの直感があったのか。ふと見つけた暗がりの奥に、あの見知ったグレースーツを捉える。背中を丸めて、どうやら逃げに逃げて走った後の一休みとでも言いたげだった。錦山はにやりと笑う。こんな偶然ってあるか。全く馬鹿げている。だが存外こんなものなのかもしれない。懐を弄ると、ずしりと重く、冷たい金属の感触が手に馴染む。足早に路地へと向かう。そしてそのままがら空きの背中に銃口を突きつけてやると、う、と小さく声を出した。
「こんな接近されるまで気が付かねえなんて、らしくねえな」
錦山の嘲笑に桐生が振り向く。その顔に、息を呑んだのは錦山の方だった。
「ありえない、」
少しダブついたスーツに、髭のない顔。皺一つないつるりとした顔は、精悍とはいえ酷く幼く見えた。錦山にとってはよく見知った顔だ。しかし最もそれは、20年以上前に、という但し書きがつくが。
「おっさん、誰だ」
呆気にとられた錦山に、少し上ずったような、たどたどしい口調で、年若い桐生によく似た男が言う。
「…まさか、俺の顔を忘れたのか?」
錦山は呟く。声も、見た目も、何もかもが昔の桐生そっくりだ。最も、そんなことは非現実的で有り得た話ではない。至極当然に分かっていながら、思わず漏れ出た言葉だった。しかしそれには、目の前の青年も少し困惑した表情を浮かべた。
「すまねえが、おっさんの事は知らねえ。…親っさんの知り合いか?」
「…、お前、いくつだ」
「…?…、15、」
まさか。そんなこと。ありえない
「よく、分かんねえけど、気付いたらここにいたんだ。そんで、よく分かんねえけど、ヤクザに追っかけられて、やっと逃げてきて、」
「…その手に持ってるの、何だ」
「…え?ああ、なんだろうな、これ、俺にもよく分からない」
男が握り締めている薬瓶を手に取る。スタミナンの文字が見えるが、錦山には見たこともない怪しいパッケージだった。蓋は無く、中身は空っぽだ。この男が飲んだのだろうか?本人にはさっぱり記憶がなさそうだが。
…薬品で桐生本人が若返っている?しかし、そんな馬鹿な。
と、胸の携帯のバイブレーションが鳴り、銃を片手に据えたまま、錦山は端末を操作する。部下から一件メールが来ていた。つい先程桐生の姿を発見したが、追跡したところ取り逃したとのことだった。遠目だったが、まるで呆けたように神室町のど真ん中を歩いていたと。
本当にこいつは15歳に戻ってしまったのか。
非科学的な話だ。しかし、目の前の男と、部下のメールと、そして自身の直感が、それを確信めいたものにしている。だがそうであるなら、肉体のみならず記憶も引きずられているらしい。目の前の俺を見て、本当に錦山だと分からないようなのだ。最も遥の事も、100億の事も、綺麗サッパリ忘れてしまっているなら、最早この男には何の価値もない。堂島の龍ならいざ知らず、15歳の桐生なんて今の俺なら簡単にのせるはずだ。赤子の手をひねるように容易い。錦山は笑う。その様子を見て、男は少し疑るような視線を向けた。
「…おっさんも俺を追ってきたのか」
桐生の声は一見落ち着いて聞こえたが、しかしどこか、か細く聞こえた。まだ15歳だ。いくら桐生と言えど、子供だ。恐ろしいのだろう。この俺が、桐生に怯えられる日が来るとはな。今までのこともあるし、少しいたぶってやってもいいが、と銃口を振り向いた腹にぐり、とめり込ませる。その身体が少し震えている。
「…錦には手を出さないでくれ、」
男の言葉に、錦山の手がピクリと止まった。
「おっさん。おっさん達は、俺達が極道に入りてえとか言うから、ナメられたと思って来たんだろ。俺は親っさんみたいになりたかった。それは親っさんに止められてでも、俺が選んだことだ。だからあんたにどうこうされたって仕方がねえ。でも、錦には妹がいるし、俺が誘ったからついてきただけだ。あいつは何にも悪くない。俺が死んだら、きっと組入りだって考え直す。だからどうか、手を出さねえでやってほしい」
若い桐生は、何か勘違いしているようだった。だがその言葉は、錦山には面白く響いた。
「…錦山に手を出すな、だと?」
頼む、と項垂れて返す桐生は、酷く好ましい。それはその従順さゆえか、自身を庇う言動ゆえか。無論殺してやってもいいのだが、少し低いその背、上から見下ろすその様のなんと痛快なこと。今の桐生は俺に縋るしか手が無いのだ。そう、この何も知らない青年を、生かすも殺すも、俺次第だ。そう考えると、何だかとても愉快だった。充足を感じる。殺してやってもいいのだ。殺してやってもいいのだが、ならば少し遊んでも構わないだろう、と、錦山は思った。
「なら、俺の所に来い」
目の前の男の言葉に桐生は怪訝そうな顔をした。
「錦山に会わせてやる。だからついてこい。大体このままじゃ、俺でなくても誰かがお前を殺す」
少しの間があって、桐生は頷いた。その様子に錦山は目を細める。馬鹿な子供を言いくるめるのは、とても容易い。もはや逃げることもないだろうと、錦山は銃をしまう。そして自分の停めている車の所まで連れて行こうとして、流石に他の奴らに見られたら面倒だと思い直す。
「少し見た目を変えたほうがいいな」
桐生からグレーのジャケットを剥ぎ取って、投げ捨てる。これは捨てていけ、というと、桐生は少し名残惜しそうな目を向けた。それだけでは何なので、自身のジャケットを脱いで渡してやる。きょとんとする桐生に、それを着ろ、と言うと、いいのか?と不躾な物言いで問が返ってくる。
「お前にやるよ」
何気なく言ったそれに、あんた良い奴だな、と返事が返ってくる。
「この白も悪くないな」
「そうか」
「…おっさん、どこかで会ってたか?何だかすげえ、懐かしいような、知り合いなような、気がする、ような―…、」
そう言いながら、もたもたと少し苦戦しながらジャケットに袖を通す。その様を、錦山はただじっと見ていた。
「さあな、」
そう呟きながら、桐生が纏った目の覚めるような白と、投げ捨てられて地面に淀む灰色を見比べる。胸がすく。堪らない心地がする。
ああ、そうか。
本当はずっとこうしてやりたかったんだ。
錦山は満足気に煙草に火を付けた。
やっぱりお前には白が似合うよ、そう笑いながら。