アンディーヴと眠って「先生、眠れないの?なら片腕をひと晩貸してやろうか」
先生、と僕を呼ぶ彼は、右腕を肩からはずして、それを参考書のうえに置いた。僕はおもわずあたりをみわたす。旧い喫茶室は昼間でも薄暗く、煙草の煙で視界がわるい。おまけに狭い店内のあちこちによくわからない置物や観葉植物が置かれているせいで、僕らの席は完全に死角になっているようだった。(もっとも、この店の主人も客も、他人に興味を払うような性質ではないのだけれど)
ネロは残ったほうの手で頬杖をつき、僕のほうをじっとみつめた。都内の私立にかよっているという彼は、大抵学校帰りの制服姿でこの店にやって来る。着崩した指定の上着となにかのロゴがはいったTシャツ、フィラのザック、履きつぶしたコンバース。けれども今日はそのシャツの片袖が、萎れた花みたいにうなだれている。僕はテーブルに置かれたものに眼をやった。どこをどうみても、それはやっぱりネロの右腕だった。中指にできたペンだこはみなれたものだったし、手首につけたリストバンドはいつも彼がしているものだ。だというのに、彼の手を離れたそれは、酷く馴染みのない置物のようにみえた。例えば博物館の硝子ケースに飾られた化石や恐竜の骨みたいに。いや、この場合、文字通り手が、離れたのか。ぼんやりとした頭で、つい、くだらないことを考える。
「先生?」
反応のない僕を不思議におもったのか、ネロが首をかしげた。なにか答えなければとおもい、カップにくちをつける。冬の森、と名付けられたブレンドは、冷えても冴え冴えとした深みを残している。これが飲みたくて何十年もこの店にかよう客もいるのだとか。実際僕もそのくちで、恩師につれられて足を踏み入れた学生時代から、もう十年近くこの店に入り浸っている。
「いや、」
とにかくも、僕はくちを開いた。
「きみ、人に手を貸してる場合じゃないだろう」
なんだか酷い冷血漢のようなものいいになってしまった。ネロもおなじことを考えたのだろう、眦をさげて苦笑する。禁煙席なんてあってないような店内で、布ばりのソファまで染み付いた灰の気配に、その姿はいっそ不自然なくらい、あたり前にとけこんでいた。思えば、初めて会ったときからそうだったかも知れない。ラックにかけられた新聞や琥珀色の灰皿、胡蝶蘭の鉢植えとおなじように、彼は最初から、この店によく馴染んでいた。まるで誂えたみたいに。十年前の自分とおなじ年頃の子供を、そんなふうにおもうことが、果たして健全かは分からないけれど。
「大丈夫。試験は一週間後だし。ひと晩くらいあんたにやったってどうってことないよ」
「本当に?」
「……多分?」
それみたことか、と睨めつけると、ネロは慌てたようにソーダフロートをスプーンでかき混ぜた。透き通ったエメラルドの泡に、バニラの乳白色が滲む。
「きみ、進学するつもりなんだろう。ならそちらを最優先にしなさい」
「だけど、先生眠れてないんだろ?」
「きみの手を煩わせるほどじゃない」
「それって冗談?」
「そんな訳ないだろう」
大体、眠りが浅いのはむかしからだ。季節の変わり目や気温の変化、雨や嵐の前後、かすかな変動で眠りはたやすく妨げられる。とはいえ、ここ最近それが顕著であるのも確かだった。仕事が上手くはかどらないせいかも知れない。だからといって、十も年下の子供に甘えようとはおもわない。ましてや、右腕を借りるだなんて。
「別に、俺のことなんか気にしなくていいのに」
融けかけのアイスをスプーンですくって、ネロがいう。
「教え子の進路を気にするなという方が無理だろう」
「進路ねえ」
ネロはちょっと眼をあげると、出窓のほうに視線をやった。車もはいれないような狭い路地裏で、猫が気持ちよさそうに昼寝をしている。午後の日差しがちいさな背をなぞり、まだら模様の毛並みにやわらかなひかりが留まっている。
「そういうのって、どうしても決めなきゃ駄目かな」
「駄目ということはないよ。それに、そんなに仰々しく考える必要もない。少し興味がある、くらいでもいいし」
するとネロは悪戯っぽい顔をして、
「なら俺、先生ん家の猫になりたい」
なんていう。金色の眸が細められ、はにかむようにゆったりと瞬いた。子供らしい甘えと、ぬるま湯のような冗談と、諦念によく似た臆病さ。嘘からも本音からも距離をとろうとする表情は、知りあってから度々眼にしたものだ。けれどそれを指摘しようとはおもわない。僕だってこのくらいの年の頃、他人になんでも打ち明けられた訳じゃない。秘密をアイスのように味わえるのは子供の特権だ。多分、おそらくは。だから僕は彼の冗談に呆れたふりをしてため息を吐く。それからテーブルに置いたネロの右腕を、こつり、とやさしく小突いた。
「馬鹿なことをいうんじゃない」
***
勉強を教えるのは、駅のはずれにあるこの喫茶室と決まっている。自宅だと集中できないと最初にネロがいったからだ。僕の家に招いても良かったけれど、作家という職業がら、部屋は資料が溢れかえっていてそれこそ勉強には不向きだろう。第一、親族でもない十代の子供を自室に招くのは気が引ける。
家庭教師の真似事は恩師――フィガロから頼まれたことだった。ネロの保護者が、どうやら彼の旧い知りあいらしく、そのつてで僕のところに話が回ってきた、というわけだ。どういう関係か、詳しくは知らない。秘密主義、というより、謎かけを寄越すことを一種の愛情表現にしている男だから、訊いたとしてもはぐらかされて仕舞いだろう。
初めて会った時、ネロは窓際でボロネーゼを食べていた。旧い喫茶店にありがちの、おおきなミートボールがごろごろして、黒胡椒の効いたこってりとしたボロネーゼだ。テーブルに置かれた教科書の乱雑さとは裏腹に、ネロは酷く丁寧な手つきでそれをくちに運んだ。胡蝶蘭のあわいから射すひかりが、日に焼けた頬にそっと翳をおとす。
「遅れてすまない」
僕がいうと、彼はナプキンで口元を拭いて、照れくさそうに首を振った。
「いや、時間通りだよ。俺が腹減って早く来ちゃっただけ」
大人びた顔立ちに反して、緩んだ眼もとからは子供っぽい愛嬌が垣間見える。だというのに、その愛嬌には一抹の寂しさがあった。屈託を手放せない子供だけがもつ、一種の防衛本能のような。そのアンバランスさが、気にかかったのかも知れない。
「先生さ、猫が好きなの?」
珈琲を注文し終えたところで、ネロが訊ねる。
「どうして?」
「あんたの書いた話、猫ばっかり出てくるから」
「読んでくれたの?」
「短編集を一冊だけ」
猫が好き、というより人間が苦手なのだが、それはまあ、初対面の彼にいうことでもないだろう。
「まあ、嫌いではないよ。家でも飼ってるし」
そこでネロがぱっと眼を輝かせた。
「飼ってるの?どんなやつ?」
「どうって……保護猫だよ。毛並みが黒くて眼が金縁の」
「魔法使いみたいだな」
彼が楽しげに笑うので、つられて僕もおもわず笑う。隠遁生活を送っているという意味では、作家も魔法使いもさして変わりはないのかも知れない。ネロは綺麗に皿を空にすると、みずを一口飲んでいった。
「今度さ、猫にあわせてよ」
いいよ、と咄嗟にいってしまいそうになったのは何故だろう。初対面の、十も年の違う子供だというのに。骨の隙間にはいりこむような声だった。懐かしくて、心地よくて、どうにも抗えない。ラジオから流れる音楽が、彼の声とあまりによく馴染んでいたせいかも知れない。胸のうちを誤魔化すようにカップに角砂糖を放りこみ、ティースプーンでかき混ぜる。それから、少し甘くなった珈琲にくちをつけていった。
「君が二十歳になったらね」
ネロはきょとん、と眼をまるくして、それから何それ、と声をたてて笑った。
***
寝室のドアを開けると、絨毯のうえでまるくなっていた猫が不思議そうにこちらをみた。大丈夫、と笑いかけると、そのまま興味をなくしたように部屋を出てゆく。見知らぬ他人の気配を、なんとはなしに感じているのかも知れない。見咎められたように感じてしまうのは、僕が勝手に抱いた後ろめたさのせいだろう。詰めていた息を吐き出して、外套を脱ぐ。それから、ショールにくるんだそれをソファにそっとおろした。
「……」
結局、押し切られるように彼の片腕を連れ帰ってしまった。腕だけといっても、程よく筋肉のついたそれは意外にずっしりとして、花や猫を抱えるようにはいかない。どこか傷でもつけやしないかとおもって、帰り道はとにかく気が気じゃなかった。おまけに、電車を降りた途端、突然の雨だ。(おかげで要らない傘を買う羽目になった)そんな僕の憂鬱など知らぬげに、ネロの腕はソファにおとなしく横たわっている。十分に気をつけていたつもりだったが、その指先がわずかに濡れていた。洗面所からタオルを持ってきて、そっと拭う。
「少しくらい濡れてても平気なのに」
渇いた息を吐くように、ネロの片腕が笑った。僕は一瞬面食らい、それから首を振る。
「君に風邪をひかせるわけにはいかないだろう」
「こんななりでも風邪ってひくとおもう?」
「ひくだろう。腕だってきみなのだし」
皮膚のあつい指先から、雨にまぎれてふと煙の香りがした。
「……きみ、ひょっとして煙草を吸ってる?」
ネロは答えなかったが、それはほとんど答えを白状しているのと変わらなかった。タオルで拭った手を軽くこづくと、痛っ、とわざとらしい声があがる。
「ごめんって、先生」
「きみの体のことだろう、僕に謝ることじゃない」
「そうじゃなくて……、シーツに煙草の匂いがつくだろ」
いわれて僕は、あの子が僕にこの腕をおしやったときのことをおもいだした。(腕を頭にしいて寝てみてよ。多分よく眠れるからーー……)
「別に、洗濯するから気にしなくていいよ。ただ客間の布団はずいぶん使ってないから、少しかび臭いかもしれないな」
「え?嘘でしょ先生、おれを客間に寝かせる気?」
「そのつもりだけど」
「ええ……」
ネロが眼にみえて脱力するのが僕にもわかった。ソファに右腕がぱたりと倒れこむ。投げ出されたてのひらが、枯れる寸前のくちなしの花のよう。僕は彼の拗ねたときの表情をおもいだし、少し笑った。まったく、大人びているのだか子供じみちているのだかわからない。でも、このくらいの年頃というのは、そもそもそういう生き物なのかも知れない。いつだって月の満ちひきのただなかにいる。伸びゆく手足を、軋む骨を、移ろう肉体とこころを持て余しながら生きている。だから不思議だった。どうしてこの子の孤独だけが、こんなふうにひかってみえるのか。
「君、どうしてそんなに僕の家に来たがるの」
そういったなら、ネロはすこし黙りこんだ後、僕の袖口をそっと掴んだ。
それから、
「いっただろ、あんたん家の猫になりたいって」
「……」
「猫だとおもって、おれを寝台にいれてよ、ファウスト」
指先が、シャツの隙間からするりと滑りこむ。そのまま皮膚をなぞり、なにかを確かめるように手首の内側に触れる。その、雨だれのような重み。まったくこんなこと、どこで覚えてくるのやら。僕はおもわず笑う。
「うちの猫は布団に入ってきたりしないけど」
「そうなの?」
「気難しいからね」
「先生にそっくりじゃん」
「きみが物好きなだけだよ」
じゃれつく腕をてのひらで撫でると、ネロがおもわずといったように喉を鳴らしてみせた。それこそ猫みたいだ、とは、調子に乗るからいわないでおく。
「寝台にはいれないけど」
僕はいった。
「きみの話を聞かせて」
「俺の?」
「そう。きみの好きな猫の話とか、昨日みたテレビの話とか」
「……好きなやつの話とか?」
「そうそう、そういうの」
「……意地が悪いな……」
「そう?」
窓の外から、さあさあと静かな音がした。夜がふけて、雨は少しずつ強さを増してゆく。蛍光灯の白いひかりに照らされて、彼の右腕のつけねにまるい翳ができるのがわかった。触れた肌は少し冷たい。籠に畳んであった毛布をかけてやって、その腕をそっと抱える。猫を抱くよりもやさしく。
「なんでもいいんだ。きみの話なら」
きみの欲しがるものがただの甘い菓子なら、きっと何のためらいもなく与えてやれただろうけれど。そうではないから酷く難しい。僕の手の中にきみの望むものはない。それでも、きみが寂しさの為にその身を砕くことがなくて済むのなら、なんだってしてやりたい。そう、おもっているよ。だから、きみのなかで一等ひかる孤独の話を、僕に聞かせて欲しい。勿論、それ以外のどんなことだって。
「……先生ってさあ……」
「うん?」
「いや……」
毛布からはみ出したネロの手が、僕の頬を撫でる。それから少し拗ねた調子で「ずるいなあ」といった。
「そんなこといわれたら、ますます好きになっちゃうじゃんか」
***
その夜、ゆめをみた。
そこは誰かの居室で、ちいさなキッチンがついており、窓辺にはハーブが吊るしてあった。キッチンはよく使いこまれて銀色にひかっている。壁につけられた棚には不思議な文字で書かれた小瓶(スパイスラックだろうか?)がいくつも並び、コンロにかけた厚手の鍋からは、まだ温かな湯気が立ち上っていた。テーブルに並んだ料理をつまみながら、僕はネロと酒を酌み交わしていた。料理はどれも美味しく、調和がとれていて、気配りといたわりの気配に満ちていた。それが彼の作った料理だと、夢のなかの僕はすぐ気づいた。
「可笑しなゆめをみたよ」
夢のなかの僕が、そんなことをいった。
「へえ、どんな?」
「年下のきみになつかれる夢」
「俺が年下なの?」
どうやらその夢のなかでは、ネロのほうが僕より年上らしい。グラスを飲み干して彼が笑った。その眼もとには不思議な落ち着きがあり、確かに流れた歳月の長さをおもわせた。それでも、酒で赤らんだ頬や、すこし緩んだ口もとや、はにかむような笑みは、僕の知るものと少しも変わらない。
夢のなかの僕らは、ずいぶん気安い仲のようだった。飲んでいる合間も好きなときに黙りこんだり、微睡んだり、かとおもえば子供のように軽口をいいあったり。自由で、屈託がなく、なのに遠慮がちで取り留めがない。まるでお互いの鍵盤の一番心地よい音色を、お互いが一番心得ているというみたいに。
「きみ、僕の猫になりたいって、ずいぶんごねていたよ」
「ええ?それ、先生の願望じゃないの」
「まあ、否定はしないけど」
「……」
「ちょっと、なんで君が黙るんだ」
口ごもったのを誤魔化すように、ネロが慌てて席を立った。「先生、デザート食べる?フルーツシャーベット作ったんだけど」シャツの襟元をパタパタとやりながら、冷蔵庫を開けていう。夢の中でも僕は先生なのか。そうおもうと、すこし可笑しかった。
「けど、そうだな」
デザート皿をテーブルに並べて、ネロがいった。
「先生の猫になら、なってもいいかも」
そうしてオレンジの切れ端を僕のくちにほうりこむので、僕はおもわず笑った。
「嘘ばっかり」
***
待ち合わせの時間に着くと、いつもの窓際で彼が本を読んでいた。僕に気づくと、こちらをみてちいさく手を振る。
「花束でも抱えてきたのかとおもった」
ショールに包んできた右腕を受け取りながら、ネロはそういって可笑しそうに笑う。そうしてそれを、慣れた手つきで自分の肩に戻した。するともう、昨夜の痕跡はどこにもなくなって、彼の片腕と過ごしたことが、なにか遠いゆめのように感じられてしまう。
入口のドアベルがいっせいに音をたて、その後ふいに静かになった。
「いっておくけど、次はないよ」
僕の言葉に、彼は拗ねたように唇を尖らせる。
「先生、ガード硬いんだもんなあ」
「ネロ」
「……はあい」
渋々、といった声に苦笑する。まったく、こんなときばかり素直なのだから。蒸らしたポットから紅茶を注ぎ、輪切りのレモンをいれる。青磁のカップにいれたレモンが、飴色の底にゆっくりと沈んでゆく。ふと、ポットの翳に置かれた文庫本に眼をやった。先月出したばかりの自分の新刊だ。
僕の視線に気づいたのか、ネロが顔を赤らめて本を仕舞う。
「なんだよ、俺があんたの本読んでちゃいけない?」
「いや……、ただ意外だなとおもって」
「だって、恋ってそういうもんだろ」
僕はおもわず眼をみはった。包みを開いた角砂糖が、指先からこぼれる。恋というものの瑞々しさ、破れかぶれの歪さ、青い稲妻のような烈しさ。僕にはそういうものはわからない。ただ、彼が自分のなかにある孤独や寂しさを流星にして、まっすぐ僕に投げかけてくれたことはわかる。それがどれほど、得がたいことかということも。
「君はすごいな」
「……それって褒めてる?」
「勿論」
だから僕は、出来るだけおだやかに答えた。
「恋については、僕にはわからないけど」
「……」
「別に猫にならなくたって、きみの好きなときに来たらいい。鍵はいつだって開けておくから」
ネロは一瞬驚いたように眼をまるくして、それからかすかに顔を歪めてみせた。煙のような苦味と甘やかな痛み。瞬きをするあいま、金色の眸にいくつもの感情が浮かんでは消える。
「あーあ、先生ん家の子になり損なっちゃった」
テーブルにごろりと突っ伏して、ネロがため息を吐く。彼の背後に置かれたパキラの鉢植えが、はずみでおおきな葉を揺らした。
「こら、行儀悪いよ」
「先生、アシスタントとか募集してない?」
「生憎薄給なものでね。そんな余裕はないよ」
それに、とゆめのことを思い出し、僕は答えた。
「君、アシスタントより料理人のほうが向いてるんじゃないか」
ネロは不思議そうにこちらをみていった。
「俺、料理なんかしたことないけど」
「ならしてみるといい。案外楽しいかも知れないよ」
そういうと、彼はますます不思議そうな顔をした。カーテンの隙間からさす日差しが、ゆるく結んだみずいろの髪に、レースの繊細な模様をおとしている。胡蝶蘭の甘い香りと、部屋中にたなびく煙草の煙。リノリウムの床にひびく靴音、雑多な話し声。見慣れた風景のなかでそのうつくしい翳だけが、やけに鮮やかにみえる。
「なにそれ、予言?」
眩しさに眼を伏せて、僕はいった。
「まあ、そんなものかな」
ラジオから、ムーンリバーが聞こえる。