夜はやさし 真夜中に話すことなんて、カップに入れたら忽ち融けてしまう、退屈なシュガーみたいなものでいい。白けた気分になりたくないし、古傷に触れる趣味はお互いにないのだし。なのに、どうしてそんな話をしてしまったのだか。
「ガキの頃さ、墓のうえで踊っているやつをみたことがあるよ」
汗をかいたグラスのなかで、融けた氷がおとをたてた。向かいに座るファウストが顔をあげる。卓上にともされた蝋燭の火が、彼の頬を嘗めるように照らした。いつも陶器みたいに青ざめた頬は、今は仄かなばら色だ。伏せた睫毛の色が濃い。普段より所作が緩慢にみえるのは、先生も大概に酔っているからだろう。そういう自分も、さっきからずっと、頭の芯に甘やかな痺れがある。みずうみで小舟に揺られるほどの、心地よい酩酊。あるいはシャイロックのバーに置かれた籐の揺り椅子や、栄光の街をめぐるゴンドラ(リケ達にせがまれて一度だけ乗った)、回転木馬、は、流石にまだ乗ったことがないのだけれど。
「それは、幽霊とかそういう類のこと?」
しばらくして、ファウストがそんなふうにいった。いいや、と首をふる。
「ちゃんと生きてたよ。それも、ごく普通の人間」
「ただの人間が、どうしてまた」
「その土地の風習だったらしくてさ。満月の夜は死者が厄災に怯えないように、そいつの墓のうえで踊ってやるんだと。死んだ奴が寂しくないように」
そのとき俺が会ったのは、二十歳は過ぎただろうかという年若い青年だった。ほっそりとした手と繊細そうな面差しをしていて、とても墓のうえで踊り狂ったりしそうにはみえなかった。それが、血も凍る真冬の墓地でステップなんか踏んでいたものだから、つい、声をかけたのだ。北にはそういう奴がよくいたから。つまり……、厳しすぎる寒さに耐えかねて、気のおかしくなった人間が。だけれど、そいつは違った。
――ここにいるのは、僕の弟なんだ。
踊っていたせいか、かすかに汗ばんだ頬を緩めて彼はいった。凍った睫毛のさきから、ひかる淡雪をこぼしながら。
――もう、うんと小さい頃に死んでしまってね、きっと僕のことなど覚えていやしないけれど……。土のしたは暗くてさみしいから、少しでも慰めになればいいとおもってさ。
「……僕なら、死んでまで騒がしくされるのは我慢ならないけど」
「はは、違いないや」
俺だって、自分の墓のうえで誰かが踊ったり酒盛りなんぞはじめたりしたら、とおもうとぞっとする。とはいえ、俺たちは魔法使いだ。死んでも石になる俺たちは、死体なんか残らない。そうおもえば、随分気楽な気もするし、少しだけ虚しい気もする。
「だけどさ、先生は結構好きだろ?そういうの」
「そういうのって?」
「だから……、歌ったり踊ったりするの」
空いたグラスに果実酒を注ぎながら、俺はいった。ファウストがむっとした顔をする。
「別に好きじゃない」
「そ?この前ルチルが「シャイロックさんのバーでお会いしたとき、ダンスをご一緒したんですよ!とっても素敵でした」って話してたけど?」
「……」
わざと声音を真似てみたなら、ファウストは居心地がわるそうに押し黙った。ルチルの名前がでた手前、無下にするのもわるいとおもったのだろう。そういう律儀なところ、ちっとも呪い屋らしくない。残ったキッシュの皿を引き寄せて、俺はこっそりと笑う。ファウストのこういう所、つまり、摘んだ花を最後まで決して枯らさないでいるようなところを、微笑ましいとおもうし、後ろめたくもおもう。まっさらな毛並みの猫に、泥だらけの手で触れている気がして。
「百歩譲って」
と、こちらはデザートのガレットに手をのばしながら、ファウストがいった。
「仮にそうだとしても、死体のうえで踊るのはごめんだ」
「まあ、そりゃそうだ」
蜂蜜漬けの檸檬とクリームチーズをあわせたガレットは、先生の手でちいさく切り分けられて、口もとに運ばれる。初めて一緒に飲んだときは小鳥の餌くらいしか食べられなかったのに、今ではデザートまで綺麗に平らげてくれる。たったそれだけのことに、俺はいつも、馬鹿みたいに満ち足りてしまう。満月みたいな空っぽの皿をみるのが楽しみだなんていったら、ファウストは呆れるだろうか。それとも、笑うだろうか。
「君は?」
「え?」
「墓のうえで踊ってやりたいやつがいるの」
それはどういう意味で?とは、流石に訊けなかった。それこそ墓穴を掘ってしまいそうで。一瞬、うんざりするほど見慣れた男の顔が脳裏に浮かんで、けれどもすぐにうち消した。バターの香るキッシュから、砂を噛むような味がする。馬鹿だな。あいつが人間だったとして、いいや、そうなら尚のこと。骨が残るような死に方なんかする筈がない。わかっている。嫌になるくらい、わかりきったことだ。
「そうだなあ、」
グラスの酒を飲み干して、へらり、と眉を下げる。
「いる、っていったら、先生、一緒に踊ってくれる?」
「は?嫌だけど」
「ひでえなあ、可愛い生徒の頼みじゃんか」
「自分でいう?だいたい、誰の墓で踊れって?」
別に、深い意味はなかった。死後の安らぎを祈るのも呪うのも俺には重すぎるし、そんなのを引きずって生きるなんてごめんだ。ただそんなことを訊くファウストがなんだか憎らしくて、ほんの少しでいい、俺のために困って欲しい。そう、おもってしまった。俺の子供じみた我儘に困って、呆れて、だけどどうか頷いて欲しいって。ならさっさとそう、いってしまえば良かったのに。俺をみるファウストが、おもいのほか真剣な眼をしていたものだから、咄嗟に種を明かせなかった。
「例えば……」
アルコールで重たい目蓋を持ちあげて、窓のそとをみる。カーテンの隙間から、蜜のような月光が部屋に流れこんだ。夜が、ひどく明るい。
――ああ、
「厄災、とか」
ファウストは一瞬眼を丸くして、それから珍しく、声をあげて笑った。手にしたフォークがかちゃりと音をたてる。
「そんなに笑う?」
「いや、だって君……まるでムルみたいなことをいうから」
眼鏡をはずした指が、眼じりに浮かんだ涙を拭った。そこにも月光の名残が溜まっている。それがやけに眩しくて、痛くて、だけど眼が離せない。ファウストはひとしきり笑った後、息を吐いて顔をあげた。濡れたようなすみれ色の眸に、間の抜けた自分の顔が映っている。
それから、
「いいよ」
ファウストがいう。洗いたてのシーツみたいな声で、けれども少し可笑しそうに。
「いいの?」
「うちのシェフに貸しを作っておくのも悪くないだろう」
貸し、ねぇ。
「ンなもん作らなくても、先生のリクエストならいつでも聞くけど?」
「そう?なら、君がパンを焼くときの鼻歌を聞かせてくれたら、踊ってもいいよ」
「ええ……それこそ勘弁してよ……」
おもわず情けない声をあげたなら、ファウストは眸の色をいっそう明るくして俺のほうをみた。まるでそこに、一等眩しいものがあるみたいに。だから俺は、ほんの一瞬、すべて打ちあけてしまいたくて堪らなくなる。飢えに耐えながら過ごす夜が、どんなに惨めだったか。寄るべのない自分がどんなに醜く、空しくおもえたか。初めて食べた石の、冷たく、寂しかったこと。
ねえ先生、俺はあの夜、ほんとうは、あの子の墓を暴くつもりでいたんだよ。明日パンを買う金が欲しくて。
そんな、ずるい告白を、してしまいたくなる。
そういうことを何もかも知って、それでもあんたはそんな眼で俺をみてくれる?雨にうたれたような、やさしい眼で。
「本当にいいの?俺不作法だからさ、先生の足踏んじまうかも知れないよ」
空になったグラスの縁を拭う。こんな軽口ですらなにかを確かめずにはいられない臆病な俺を、ファウストは問い詰めなかった。代わりに、仕方ないな、といいたげに眼を細めて、
「その時は、僕が君を呪ってあげるよ」
下手な冗談だ、それこそ。
***
その夜、ゆめをみた。
白白とあかるい場所に俺はたっていた。辺りはみわたす限りなだらかな丘で、バター色の地面が淡いひかりを放っている。空はインクを流したように暗く、けれども不思議にすみきってみえた。流星の落ちてゆく場所に、みなれた魔法舎の塔がある。
「ネロ」
少しさきを歩いていたファウストが、ふりかえって俺の名前を呼んだ。手袋をはめた手を差し出す。そうして、思いがけない強さで引き寄せられた。されるが儘、出鱈目に足を踏み出す。礼儀作法もなにもあったものじゃない、いい加減で滅茶苦茶なダンス。ファウストのつま先を踏まないように、必死でリズムを取る。
「君が踊ろうっていった癖に」
細い足で地面を蹴って笑う。
「いや、そうなんだけど」
「だけど?」
「柄じゃねぇだろ、こんなの」
「そんなの、僕だって柄じゃないさ」
そうはいうけれど、月面で踊るファウストは自由で、のびやかで、満ち足りてさえみえた。本当は、こちらの方が本来の彼らしいのかも知れない。そう思うほどに。
この下に、あんたはいったい誰を埋めてるの。誰の死体のうえで踊ってるの。いいかけて、けれど口を噤む。胸をひらいて、やさしくなぞって、手で触れて、それだけで慰められれような、綺麗な傷跡じゃない筈だ、俺もあんたも。秘密をうちあけるより、知らない死体のうえで共犯になりたい。そういうのが、いい。触れないことは愛さないことじゃない筈だって、そう、思っていたい。我儘かな。
「悪いね先生、夢の中までつきあわせて」
冗談まじりにそういったら、ファウストはちいさく首をふってみせた。
「構わないよ。これはきっと、僕の夢だろうから」
「そうなの?」
「多分ね」
だから、と耳もとに顔を寄せて、
「僕と共犯になって、ネロ」
そういったファウストの眸が酷くやさしかったから、俺は、どうしたってまた、救われてしまうのだ。