すみれと花とパンケーキ「もういい」
と、栞もはさまずファウストが本を閉じたので、俺は慌てて顔をあげた。
いつも几帳面な先生らしからぬ行動。ご立腹だ、間違いなく。洋卓にひろげていた分厚い古書の隙間から、いつの間にか転がっていたペンを探り当てる。キッチンの長窓から射す春の日差しが、手もとの水差しに反射して眩しくひかった。雪の透かし模様がはいった、硝子の水差し。そこに飾ったすみれは、今朝リケが摘んできたものだった。ミチルと二人でうんと早起きをして、どうやら湖のほうへ行ってきたらしい。
朝から少し遠出をするから、グリーンフラワーと厚焼き卵のサンドイッチを作ってくれませんか。
二人にそういわれて、いいよと引き受けたのは自分なのだけれど……。外の陽気があまりに心地よいのもあって、つい、目蓋が重くなってしまう。だからといって、ただでさえ不真面目な生徒にうわの空で補修をうけられたら、まあ、いい気はしないだろう。それくらいは、いくら俺でもわかる。
「悪い、先生。怒った?」
顔のまえで手をあわせると、先生は不機嫌そうにこちらを睨んだ。それから、ため息を吐く。
「別に、怒ってるわけじゃないよ」
「……本当に?」
「怒って欲しいの?」
「滅相もない」
慌てた声に、ファウストは少し眼もとをゆるめてみせた。伏せた睫毛のさきにひかりが当たって、薄く透きとおっている。飴細工みたい、なんていったら、それこそ呆れるだろうか。
「きみ、今朝リケ達に弁当を持たせてやっただろう。寝不足で無理をしたって身につかないのだし、補修は日を改めてにしよう」
「んー……、別に無理してるわけじゃないんだけど」
「そういう積み重ねがいつか身を滅ぼすぞ。君もそんなに若くないんだから」
「……それ、先生にいわれるとかなり傷つくな」
「どういう意味?」
ファウストは席を立って、食器棚から茶葉とマグカップを取り出した。どうやら本当に、これ以上授業をするつもりはないらしい。くみたての水をコンロにかけて、それからこちらをみる。
「これを飲んだら、少し寝なさい。必要なら、ちゃんと起こしてあげるから」
茶葉の缶は臙脂色で、彼が市場で買ってきたものだった。蓋のところに金の縁どりがしてあって、パッケージに毛糸と遊ぶ黒猫が描かれている。月光があかるすぎる夜や、手足の冷える寒い日に、ファウストは決まってこのハーブティーを淹れた。俺も何度かご馳走になったことがある。真昼のひかりをそのまま飲んだような、雨後の野はらの匂いを嗅いだような、なんとも素朴で不思議な味がした。あれを飲んだ夜は、なぜだか夢もみない。おもいだしただけで寝入ってしまいそうだ。とろりとした眠気が、指先からみずのように染みいってゆく。
テーブルにだらしなく頬杖をついて、彼の背中を眺める。
「……」
こんなことをいうと、それこそファウストに叱られるだろうけれど――……、彼に怒られるのは、そんなに嫌いじゃない。というより、もっとずっと、はっきりと――……そうして欲しいと、おもってしまうときがある。始末のわるいことに。(ついでに、趣味のわるいことに)
俺を叱るファウストの、少し尖った眼差しや、低くなった声や、そういうものがなにもかも、青い火のように透きとおってみえて、恐ろしいような、ずっと眺めていたいような、そんな気持ちになる。怒るときでさえ、ファウストは歪まない。そのことに、たまにどうしようもなく、打ちのめされたくなってしまう。いや、甘やかされたい、のだろうか。分からない。わかるのは、俺がどうしようもない奴だってことだけ。火にかけた小鍋に水をそそぎ続けて、どこまでやれば吹きこぼれるのかみきわめている。どこまで煮詰めたらジャムになるのか、どこまで砂糖をくべていいのか――……、どこまでやれば許されるのか。祈るように、試している。
「――……先生は俺のこと、もっと軽蔑してもいいのに」
「なにかいった?」
ふり向いたファウストに手を振って、いいや、と笑う。
「それよりさ、お腹減らない?先生がお茶淹れてくれんなら、パンケーキでも焼こうかな」
「……君、僕の話をちゃんと聞いていたのか?」
「聞いてたって。けど、そんなすぐ寝つけないしさ。ちょっとだけ付きあってよ、先生」
椅子にかけっぱなしにしていたエプロンを結んで、彼の隣に立つ。日に透けるほど青白い横顔のなかで、眼もとの翳ばかりが濃い。自分だってこんな隈こしらえて、うまく眠れない癖に。そういったら、この人どんな顔するんだろうな。おもうだけで、くちには出せない。
「まったく」
やがて先生は、呆れたように肩を竦めてみせた。やわらかい鳶色の髪が、目蓋にかかる。
「君が僕を甘やかして、どうするんだか」
「……それって、俺のこと甘やかしてくれるつもりだった?」
「……一応は」
「一応って」
俺はおもわず吹き出したけれど、ファウストは至極真面目な顔でいった。
「僕が友人を甘やかしたいとおもってはいけない?」
「……」
「それなのに、きみは僕のいうことをまるで聞きやしないし」
「そうかな」
「そうだよ」
本当に、仕様のない生徒だ。そういったファウストの声は、言葉とは裏腹に酷くやさしい。眼鏡ごしにみるすみれ色の眸が、夜明け前の淡い波間のよう。それがなんだか懐かしいようで、くすぐったいようで、だから俺はもう、笑うしかなかった。
「怒んないで、先生」
許して。どんなにジャムを煮詰めても、鍋のみずがあふれても、先生を怒らせる駄目な俺を、何度でも叱って、そうして許して欲しい。仕方ないなと笑って欲しい。許されるたびに不安になる癖に、そんなことを考える。まるで甘ったれた子供だ。だけどそんな俺だって、この人はきっと傷つけないから。弱くてもずるくてもいいんだって、そう、おもってしまう。あんたも、そうなんだろうか。俺ならあんたを傷つけないって、そうおもったりする?ほんのわずかでも。
だとしたら、少しだけ怖くて――……でも、きっと、うれしい。
そうしたら、ファウストは茶葉を開けた手で、俺の肩を軽くこづいてみせた。
それから、みたこともないくらい甘い眸をして笑う。
それから。
「嘘ばっかり」
すみれの花が、やわらかに匂う。