Sweet Child O'Mine 朝おきたら、右眼が石になっていた。目蓋のおくがやけに腫れぼったくて重たく感じる。瞬きをすると睫毛が冷たい。新雪に触れたようだ。さすがに面食らって談話室へ降りていくと、おはよう、といったクロエの耳が綺麗な真珠貝になっていた。彼の隣で紅茶を淹れながら、ラスティカが真珠と海の歌をくちずさんでいる。白磁のティカップに触れた小指は、よくみれば青ざめたサファイアだ。どうやらムルの悪戯が原因らしい。
「あの野良猫には後できつくいって聞かせますので」
シャイロックはそう微笑んで、ゆったりとした仕草で煙管をひとくち飲んだ。美しい彫り物のされたそこを、ルビーの爪先が撫ぜる。言葉とは裏腹に、彼はこの状況を楽しんでさえいるようだった。相変わらず、西の魔法使いたちは不可解だ。これからお茶会だという彼らに丁重に断りをいれ、部屋にこもる算段をはじめる。呪いの類でないなら僕の専門外だし、なにより、あのムルが仕掛けたものに手をだすほど馬鹿じゃない。火花に手を突っこむようなものだ。それなら自室で嵐が過ぎるのを待つほうがいい。
「うわ。どしたの、その眼」
軽食とバスケットを借りに厨房へ行くと、ネロが僕をみて驚いた顔をした。コンロの火を止めて、こちらに駆け寄ってくる。よく使いこまれた鉄製の鍋からはくつくつとスープの煮える音がした。あれは昼食に出されるスープだろうか、それとも夕食の?一瞬、今の状況を忘れて、そんなことを考える。
「ムルがまた何かやらかしたらしい。君はなんともない?」
「俺?俺は全然」
「そう」
だとしたら、今回は偶々僕が「あたり」をひいてしまったということだろう。
「災難だったね、先生」
ネロは呆れと労りの混じった表情を浮かべてみせた。それから、僕の顔をそっと覗きこむ。
「こっちの眼ってみえてんの?」
右眼には、乳白色の淡いもやがかかっている。完全にみえないわけではないけれど、酷く曖昧だ。食卓の木目や床の模様がぼんやりと滲んでいる。ミルクの底を覗くのに似ているかも知れない。さすがに眼鏡をかけている気にはなれなくて、外套に仕舞う。……仕舞おうとして、失敗した。手が滑って、眼鏡が床に落ちる。
「おっと」
足もとに転がったそれを、ネロが拾って手渡す。
「すまない」
「片眼ってやっぱみえづらいよなあ」
「みえてないわけではないんだが……」
みえない、というより、むしろ隠されている、というのが近い。やわらかい布で、やさしく目蓋を覆われているような。距離感がつかめなくて動きにくいし、なにより疲れる。おもわず息を吐くと、ネロがかすかに眼を細めてこちらをみるのがわかった。それから、
「みがいてやろうか」
ふとおもいついたように、そんなことをいう。
「食器なんかと一緒でさ、手を入れないと曇ってくるだろ。みがけば少しはましになるんじゃねえの」
僕は食器とおなじか、とおもうと少し可笑しい。けれども、悪い気分はしなかった。ネロが本心からいってくれているのがわかったし、何より、いつも彼の手でみがかれている美しい銀食器たちのことを、僕はちゃんと知っていたので。
下瞼から指をおしこむと、右眼は呆気なく外れててのひらに収まった。石は濃いすみれ色をして、奥のほうまで透きとおっている。おうとつはなく、表面は硝子のように滑らかだ。痛みや違和感もない。これが自分の眼窩におさまっていたのかとおもえば、なにやら不思議な心地もする。
ネロはリネン室からおろしたての亜麻布を持ってきた。手近な椅子をひいて、座るよう促される。石を手渡すと、彼は酷く丁寧な手つきでそれをリネンのうえに乗せた。
「これがそう?」
「ああ」
「ふうん、本当に石になっちまったんだな」
かさついた指のはらが、石の表面をそうっと滑る。水仕事をするせいか、ネロの手は少し荒れていて、でもその感じが、なぜだかとても、よかった。寝しなに洗いたての髪を梳いてもらうような、くすぐったい心地がする。あるいは、雨あがりの草はらに立って、その匂いを胸にすいこむような。
「痛くない?」
ああ、と答えた僕の声は、ずいぶん気が抜けて聞こえただろう。俯いたネロが肩を揺らして笑った。テーブルを挟んだすぐ向かいに、彼の半月のような横顔がある。長窓からさしこむ日差しと、庭に咲くクロッカスの清潔な匂い。どこからか、ラスティカのチェンバロが聞こえる。
「なんだか」
「うん?」
「きみの食器になったような心地がする」
手もとの石に眼を落としたまま、ネロがええ?とおどけた声をあげる。
「呪い屋先生をテーブルに並べるなんて、そんな恐れ多い。ヒースが卒倒しちまうよ」
「そんなことはないとおもうけど」
「いやあるって。それにほら、俺はつかうより使われるほうが性にあってるしさ」
「……へえ、僕がいつきみを使ったって?」
「はは、いや、言葉のあやってやつ」
睨みつけたつもりだったけれど、声が笑ってしまった。
軽口を楽しいと感じるのなんて、いったいどれくらいぶりだろう。この男と一緒にいると、ときどき、そういうことがある。もう二度と戻らないとおもっていた眩しいもの達に胸を掴まれて、ふいに立ち尽くしてしまうことがある。ネロといると、呼吸をするのが楽だ。一緒にいても傷つかないし、いなくても苦しまない。そこにいることも、いないことも、ありの儘の自然だとおもえる。嵐の谷で眠る猫たちや、朝つゆにきらめく新緑の森をみるときとおなじように。それが怠惰なのか弱さなのかはよくわからない。わからないけれど、きっとそう悪いものでもない、のだと、おもう。
「あれ」
そうしたら、ネロがふと声をあげて、
「ファウスト、いま笑った?石の色が濃くなってる」
その瞬間、眼のまえが突然鮮やかになった。
暗い海の向こうから朝焼けがやって来るみたいに、なにもかもがはっきりとして、開かれていて、窓辺のひかりが眩しくて、そのただなかでネロが笑っている。僕はおもわずあっと声をあげた。五月雨の髪から覗く耳朶のかたち、少し厚みのあるくちびるがほころぶ様、眼もとにできたさみしさのような翳。こちらをみた彼の眸が、僕を映してゆっくりと瞬いた。その、滴る蜜のような甘やかさといったら。その手で磨いているものが、世界でたったひとつ、掛け値のない宝石だというみたいに。なんて顔をしているのだろう。僕が、そうさせているのか。この、臆病でやさしい男に、ほかでもない僕が。
胸をうったのは、ほとんど稲妻のようなものだった。今、この瞬間ばかりは、オズの雷鳴だって恐ろしいとは感じなかっただろう。それほどの衝撃だった。僕は狼狽え、俯き、足もとに眼をおとした。よく磨かれたタイル張りの床に、つま先の細いネロの靴がみえる。それにまた、どうしようもなく動揺した。だってそうだろう、あんな顔、まるで、
「先生?」
僕の異変に気づいたのか、ネロが心配そうに声をあげた。
「どうかした?やっぱ痛む?」
テーブルごしに身を乗り出して、手をのばす。磨かれて艶をもった石が、テーブルのうえですみれから深い紫陽花に色を変えていた。それに気づいたら、もう、駄目だった。
ネロの手が眼もとに触れるよりさきに、僕は耐えきれず立ちあがった。椅子の倒れる音がする。
「ファウスト?」
名前を呼ぶ。僕をみるネロの眸は、やはり蜜のようなひかりを湛えている。
「か、」
「か?」
馬鹿みたいに情けない声で、僕はいった。
「雷が」
これ以上うたれたら、僕はすっかり石になって砕けてしまう。