有為転変(蜘蛛ケー。ケータくんがとても成長する描写+妖怪のシャドサ描写があります。オロチくんがちょっと不憫)
土蜘蛛の屋敷にやって来たケータがまずしたのは、彼の姿を探し当てることだった。大将としての仕事に日頃から忙殺される彼は、朝から執務室に篭っていることが多い。しかし今日は休日である。こうなるとそのしかめ面を拝むのにも一筋縄ではいかない。ちり一つ落ちてはいない整然とした彼の私室、庭の盆栽棚の前、立派な倉の中——あちこち覗いて歩く。「いつまで探すニャンか」「えんらえんらパイセンに呼んできて頂いた方が早いでうぃす」とジバニャンとウィスパーがぶうぶう言うのを無視して探し回り、ようやく空き部屋のひとつに彼の姿を見つけた。
部屋の中は大量の本と、本が詰まった木箱で足の踏み場もない。物を溜め込む癖のある彼だから、大方増えすぎた本を整理するように周りからせっつかれたのだろう。傍らにはオロチが控えている。彼は土蜘蛛に忠誠を誓う妖怪のひとりだ。自分から手伝うって言ったんだろうな——元祖軍とは長い付き合いのケータには容易に想像がつくのだった。
土蜘蛛はこちらが声をかけるよりも前に、手元の本へと落としていた視線をを上げた。「来たのか」と言う声が嬉しそうに聞こえたのはきっと気のせいではないだろう。ケータはにやつきそうになる口元を何とか抑えて部屋へ足を踏み入れた。
おや、と土蜘蛛が声を上げた。ケータの姿を金色の瞳が上から下まで眺める。
「それは……もしや新しい上着ではないか?」
ぱっとケータは破顔した。「わかる?」と言って、隅々まで見えるようにその場で回って見せた。
ケータの着るものを買って来てくれるのは、他でもない母だった。自分はお願いする立場だから、こういう服を買ってきてほしいと細かく指定はできない。幸いにも母はセンスの良い人で、買って来てくれるものに不満を抱いたことはないけれど、たまには自分で選んだものを着てみたいと常日頃から思っていたのだ。そのためなら「ケータもお年頃かしらねえ」と母にからかわれるのも何のそのであった。
そういうわけで、この上着は店へ同行して自分で選んだ、まさしく念願の一着なのである。週明けにクラスメイトに見せるより前に恋人へ披露したいと、休日の朝にも関わらず早くに起き出してここへやって来たのだ。すぐに気が付いてもらえたケータは有頂天であった。
「オレが自分で選んだんだよ! どうかな、似合う?」
ケータのはしゃぎぶりに釣られたような様子で土蜘蛛が目を細める。
「ああ、相変わらずお主の目利きに狂いはないのう。実に愛らしいな」
——それを聞いた途端、ケータのテンションは急激に下降の一途を辿った。微笑ましげに見守っていた土蜘蛛にも伝わったのだろう。「どうかしたのか」と困惑の声色が言う。
愛らしい、はケータの欲しい言葉ではなかった。自分と土蜘蛛は歳が大きく離れている。そのために、彼がこちらへ抱く感想は「可愛い」が圧倒的に多い。もしも自分が少女だったならそれで満足しただろう。生憎そうはならなかった。何度も何度も「可愛いはやめてよね」と伝えているというのに、彼が改めてくれる気配はないのだった。
ケータはひとまず土蜘蛛を放っておくことにした。「オロチはどう思う?」と矛先を変える。元祖の副将はすっかり油断していたらしい。手元の本へ落としていた目線を弾かれたように上げた。
「あ、ああ、そうだな……普段よりも大人びて見えると思う」
オロチが戸惑いつつ返す言葉に、ケータは満足して頷いた。まさしくこれが欲しかったのだ。嬉しく思ったのと同時に、鈍感な恋人に当てつけるような言葉が口をついて出た。
「さっすがオロチ! オレのいいところちゃんとわかってるよねー」
——ケータもうやめてくれ、私を巻き込むな! 突然オロチの悲痛な叫びが頭の中に響いた。ケータが反応するよりも先に「オロチよ」と普段よりも低い声色で土蜘蛛が言った。元祖の副将が弾かれたように背筋を伸ばす。畳へと落ちた彼の影が不自然に揺れた。
土蜘蛛の金色の瞳が鋭さを湛えてオロチを映す。その手の中の本がばたんと大きな音を立てて閉じられた。
「随分と口が上手いのう。お主まさか、吾妹に粉をかけようというのではあるまいな」
「滅相もございません……」
オロチが小柄な身をさらに縮めて頭を下げる。彼の首に巻かれた双頭の竜がきゅうきゅうと怯えたような声で鳴いて項垂れた。粉をかける、の意味がケータにはわからなかったけれど、土蜘蛛の激しい嫉妬心を過剰に煽ってしまったことは様子を見て理解できた。
「ケータのせいニャン」
「早く何とかしてあげた方がいいでぃすよ」
そうやって親友と執事に両脇から小突かれる。巻き込んでしまったともだちを救うため、ケータは怒れる大妖怪の前へ慌てて割り込んだのだった。
*
「あー……そういえばあったなあ、そんなこと」
「あったなあ、じゃないだろう。あれからオレが土蜘蛛殿にどれほど責められたか……」
オロチの金色の瞳にじろりと睨まれて、ケータは弁解の笑みを浮かべながら肩を竦めた。自分にとっては子供時代の多愛ないエピソードのひとつだけれど、オロチにとっては理不尽に上司から叱責された記憶なのだ。温度差があって当然だろう。「ごめんごめん」と深刻過ぎない謝罪を述べた。
休日の買い物帰りの夕方だった。本当なら恋人に付き合ってもらうはずだったのだけれど、彼に突然仕事の予定が入ってしまったのである。謂わばオロチは代わりに呼び出された立場だった。
恋人との予定が潰れてしまったのは、もちろんケータにとって残念なことである。しかし一方で子供時代からのともだちとの街歩きが楽しいのも事実だった。
立ち寄った公園にはもう既に子供たちの姿は見られなかった。ケータはショッピングバッグをベンチへ置いた。自販機で飲み物を二つ買う。一つをともだちへと差し出した。
「はい、オロチのぶん」
「遠慮する。ジュースは苦手だと知っているだろ」
「水だから大丈夫だよ。ほら、投げるぞ!」
ケータが放ったペットボトルを、オロチの手は難なく受け止めた。「ナイスキャッチ!」と囃すのに対して少し照れくさそうな笑みを浮かべる。年月が経って外見は変わったものの、ふとした瞬間のこうした表情はいつまでもあの頃のままなのだった。
手袋を嵌めた手がペットボトルの蓋を捻るのを見届けて、ケータも自分の分の水を開けた。ジュースが苦手な妖怪たちは、お汁粉をはじめとする汁物を缶に詰めたものでさえジュースと見なして忌避する。ともだちが水を飲んでいるのに自分だけジュースというわけにはいかないから、こうして妖怪たちと出かけた時の飲み物は専ら水である。子供の頃はそれを不満に思うこともあったのが事実だ。けれど加齢により年々脂肪がつきやすくなっている自分に対して「少し肥えておった方が愛らしいぞ」などと耳元で甘言を囁く悪魔を恋人に持っている身としては、むしろジュースの糖分を回避できる今の状況が有り難いのだった。
そうしてオロチとベンチで雑談に興じているうちに、ふと街灯の落とすケータの影が揺らめいた。影の中から人の形に似た輪郭がずるりと立ち上がる。ややもせず見慣れた妖怪に姿を変えた。
「お疲れ様、土蜘蛛。時間ぴったりだなあ、さすがだよ」
ケータは腕時計に視線を落として恋人へ声をかけた。彼の仕事の終わる頃に待ち合わせて夕食を取る計画だったのである。用事が長引いたりだとか、集まりが終わっても他の妖怪に呼び止められたりして少し遅れて来るかもしれないと思っていたのだけれど——土蜘蛛の生真面目は決して遅刻を良しとしないのだった。
土蜘蛛は口を開くよりも前に、鋭い瞳でケータの隣を睨んだ。「オロチよ」と昔よりも少し低くなった声色が言う。
「随分と親しく話をしておったようだが、まさか吾妹に粉をかけようというのではあるまいな」
「滅相もございません」
オロチはすぐさま顔の前で手を振って否定した。それでも土蜘蛛が続け様に言葉を重ねようとしたところへ、ケータは慌てて割り込んだ。
「またそんなこと言って……やめなって、土蜘蛛の代わりに来てくれたんじゃないか」
「……そうだな。年甲斐のない振る舞いをした」
ケータが宥めてようやく土蜘蛛の溜飲は下がったようだった。彼の眉間に深く刻まれた皺の数が減る。彼はオロチに向き直るなり「よう務めを果たしてくれたな」と労いの言葉をかけた。
「勿体無いお言葉です。それでは、そろそろ失礼いたします」
「オロチ、今日はありがとうな!」
彼の去り際に慌ててケータは声をかけた。前髪で隠れた横顔に浮かぶ表情が和らいだのがわかる。片手を上げる別れの挨拶を残して、瞬く間にオロチの姿は夜闇へと紛れた。
土蜘蛛がベンチの上の袋を取り上げた。アパレルショップのロゴが入った紙袋は、彼が手に持つだけで何故かファッショナブルに見えるから不思議だ。ケータは恋人の姿を惚れ惚れと眺めたのち、こちらへ伸ばされた手を受け止めて彼に寄り添った。
「……うん? お主、着るものが朝と変わっておるな」
土蜘蛛がふいに呟いた言葉は容易くケータの心を持ち上げた。「わかる?」と言いながら襟の位置を弄る。あまりに気に入ったシャツだったから、今すぐ着たいと試着したその場で店員にタグを切ってもらったのである。
「ぼくにはちょっと若いかなって思ったんだけど……どうかな、似合う?」
少し照れ臭く思いながらも恋人の反応を伺う。土蜘蛛は顔にふっと微笑を浮かべた。何十年経っても変わらない、ケータにだけ見せてくれる表情だった。
「ああ、よう似合っておるぞ。溌剌として良いではないか。実に愛らしいな」
——それを聞いたケータの気分はまさしく有頂天である。子供の頃は可愛いだなんて言われたって不名誉でしかなかったし、相手が土蜘蛛であってもそれは同じだった。他人から言われることが全くなくなった今この時だからこそ、ずっと変わらない恋人の『可愛い』が嬉しくてならないのだった。
「……のう、以前にもこのような会話をしたことが無かったか? あの時のお主は随分と臍を曲げたものだが」
「やめてって、もう忘れてくれよ。ぼくだってまだ子供だったんだからさ……」
笑い合いながら夕闇の中を歩き出す。地面に落ちる自分の影の大きさは土蜘蛛とほとんど変わらない。子供の頃は彼の肩のあたりに頭の天辺がやっと届くぐらいだったというのに……。ケータは自分と恋人との間に流れた時間に思いを馳せつつ、軽い足取りで歩を進めたのだった。