丹花のあと(女郎蜘蛛さん視点の蜘蛛ケー)
人間の子供の肌ほどお化粧遊びに適したものはない。女郎蜘蛛は常からそう考えている。
妖怪の子供ではいけない。いくらよちよち歩きの幼子に見えたとしても、遊びのつもりで妖術を撃ち合う生活をしているために、細かい傷がいたるところにあるのが普通だからだ。その点人間の子供はいい。特に親から大事にされている子供なら尚更だ。派手な喧嘩もせず、両親に蝶よ花よと大事に育てられているから、男の子であっても張りのある若い肌を保っている。化粧というのは土台が良ければ良いほど映えるものであった。
とはいえ。ここは浮世から隠された妖怪の住まう屋敷である。人間の子供などそうそう迷い込むはずもない。女郎蜘蛛のキャンバスは枯渇しているのが常であった。
できることなら子供らの肌の一部をちょっぴり拝借して、培養し、何枚もの人皮を精製できたら良いのに。そうしたら思う存分手持ちの化粧品の具合を試すことができるのに……。そこまで語ったところで、目の前の少年の顔がからかうように笑みの形を作った。
「なんかその言い方、ちょっと悪い妖怪みたいだよ。女郎蜘蛛」
「あら嫌だ、口に気をつけないと。ケータとおともだちに退治されちゃうわ」
少年の唇が尖る。「ともだち妖怪にそんなことするわけないじゃん」と言う声が不満げだ。単なる冗談を本気で捉えるのが愉快である。女郎蜘蛛は笑いながら少年の頬に白粉をはたいた。
ケータはこの家に唯一寄りつく人間の子供である。普段ならこの子の番を主張して止まない屋敷の主が独り占めしてしまうのだけれど、今日の彼は気の毒にも執務室に缶詰となっていた。この好機を見逃す己ではない。どうしても頼みたいことがあるのと縋るように言えば、この子が断らないことはよくよく承知しているのだった。
引き出しから新品の紅を取り出す。ケータが目敏く見つけて嫌そうな顔をした。
「それも塗るの? やだな、ぺたぺたするじゃん」
「そんなこと言わないでちょうだいよ。すぐ落としていいから、ねっ」
宥めながら筆に紅を取る。ケータは観念したように唇をこちらへ向けた。幼いそれに紅を引く。「さあ出来た」と言いながらケータに手鏡を握らせた。
「やっぱり、この白粉と紅の組み合わせは間違ってなかったわ。ケータもそう思うでしょう」
「えー……ううん、オレにはちょっとよくわかんないかな……」
鏡の中の少年は化粧の施された顔を困ったように歪めた。反して女郎蜘蛛は満足しきりである。やはり化粧品は人の肌で試して初めて良し悪しがわかる。今度お出かけする時はこれを使おう。そう考えながら上機嫌で道具を片付けた。
ケータが湯呑を取って喉を潤した。唇が離れる瞬間、ぱ、とかすかな音を立てる。途端に彼の眉が寄る。「このくっつく感じがさあ……」とぶつぶつ言いながら立ち上がった。
「ちゃんとお化粧落としを使うのよ。洗面所の引き出しに入ってるからね」
女郎蜘蛛の助言に、はあいと気の抜けた返事がなされる。板張りの廊下を足音が遠ざかって行った。
*
それから暫く待ってもケータは戻らなかった。
彼はこの家の構造については熟知しているはずだから、今更どこかで迷っているわけはない。子供らに捕まって遊ぼうとせがまれているのかもしれない。しかしそうならば女郎蜘蛛に何か一言かけに来るはずである。
一体どうしたのかしら——女郎蜘蛛は首を傾げながら立ち上がった。洗面所へと歩を進める。わざとたんたんと足音を立てた。普段ならこうやって喧しく歩くことはしないけれど、急に背後より近付いたらケータを驚かせてしまうだろうから。
「ケータ? どうしたの、大丈夫……」
洗面所の暖簾を分けて覗き込む。そこに立つ思いも寄らぬ姿に思わず言葉尻が萎んだ。「女郎蜘蛛か」と言う声が静かである。この屋敷で己に敬称を付けず呼ぶ者はひとりしかいない。
「土蜘蛛ちゃん、お疲れ様。お仕事終わったの?」
うむと短く返す、己と見てくれが瓜二つの妖怪——この屋敷の主たる土蜘蛛そのひとである。洗面台に向かって身を屈めたまま横目でこちらを見ている。その横顔に「ケータを見なかった? 顔を洗いに来たはずなのだけど」と尋ねた。
「いや、見ておらぬな。知っているだろう。吾輩は一日中執務室に篭っておったのだぞ。顔を合わせるはずがなかろう。他を探したらどうだ」
怒涛の弁舌に女郎蜘蛛は呆気に取られた。ややもせず、何かおかしいわと親類へ疑いの目を向けた。
本来この土蜘蛛という男は口数の少ない妖怪であった。騒がしい宴の席でだって、周囲とお喋りに花を咲かせる姿を見たことがない。じっと腕を組んで相手の話を聞き、核心を突く意見を二、三返す。そういう男なのである。唯一の例外といえば何か隠し事をしている時だ。必要以上に多弁になる。おやかた様には隠し事は向かないな、と側近たちに噂されているのも無理からぬことである。
不審な点はもう一つある。土蜘蛛は最初とまったく同じ洗面台に向き合った姿勢を保っていた。マジメでカタブツ。妖魔界一礼儀にうるさいこの男が、話す相手の顔を真正面から見ないとは。普段ならありえないはずの行為である。これを怪しいと思わず何とする。
土蜘蛛は己に向けられた胡乱げな目線には気が付かないようだった。
「そろそろ八つ時ではないか。おおかた、料理番から菓子でも与えられておるのだろう。お主も居間で相伴に預かると良い。吾輩も用事が済んだらすぐに——」
不意を突いて土蜘蛛の陣羽織の肩に手をかけた。反応する間を与えずに引き寄せる。彼のしかめ面が真正面から女郎蜘蛛に向き直った。
勇ましく隈取を施した男前の頬に、絵に描いたような口紅のキスマークがついている。その紅色には見覚えがあった。己で施したものを忘れるはずもない。女郎蜘蛛は吹き出すのを堪えきれなかった。
「土蜘蛛ちゃん、やっぱりあなたには隠し事は似合わないわ」
たちまち大妖怪の眦が吊り上がった。とはいえ、可愛らしいキスマークのおかげで普段の迫力は殆ど無い。抜かせ、と吐かれた悪態が羞恥で震えていることも拍車をかけているのは明白であった。