甘い告白「牧さんこっち」
手を引いて、目の前のドアを開ける。開けた途端、コーヒーの香ばしい香りがして、心がワクワクした。「いらっしゃいませ」という声と少し驚いた店員さんの顔。「まだいけますか?」と聞けば「大丈夫ですよ」と返ってきた。こういう所にでかい男が二人で来ることが珍しいんだろう。少し迷ってあまり一目に晒されない奥の席に案内された。こじんまりとしたテーブルは、牧さんと顔を合わせてヒソヒソ話をするには、丁度いい空間だった。ここは駅から牧さんの家に行く途中にある、俺が前から気になってたカフェテリア。本当は今日ここに来る予定は全然なかった。牧さんは大学四回生になり、就活を始めた。プロの道に行くかと思ったが、発情期の事を気にして、プロに行くのをやめた。俺はそんな事を気にせずにやればいいと思ったけど、真面目な牧さんはチームに迷惑がかかる事を良しとしなかった。でもそのお陰で、バスケに左右される事なく、こうやって約束してなくても会える時間が増えた。今日は俺の予定が流れて時間が空きダメもとで誘ってみたら、牧さんの予定も丁度終わったところで誘いに乗ってくれて、閉店ギリギリの時間にここに来る事ができた。俺がここに来たかったのは、牧さんの家に行く道すがら、ここの看板のメニューを見ていたから。だから、俺はメニューを見なくても頼む物は決まってる。だけど席に座ると自然とメニューに手がいってしまう。テーブルの横に立てかけてあったノート型のメニューを取り、中を見ると、手書き風な文字で書かれていて、如何にもカフェといった感じだ。やっぱり、男二人が入るには些か不自然な場所だった。
「俺にも見せてくれ」
牧さんには飲ませたい物があるからと誘ってここに連れて来た。だから、飲み物は俺が頼むと分かってる。
「何か食べたいもんあります?」
「せっかくだしな。なんか少し腹に入れてもいいだろ。飲ませたいのってなんだ?」
「ラテですよ」
「ラテ、…なんか、洒落てるもん飲ませようとしてんな。じゃあ、甘いもんが合うか」
牧さんが試合の後に甘いものを飲んでるのは、俺が見つけた最初の秘密。帝王と呼ばれてる人が人気のない場所でホットチョコを飲んでる姿を見た時はあまりの意外さに可愛さが溢れて堪らなくなった。それから幾度のなく、牧さんの甘いものを口に入れた時のほころぶ顔を見れている。何を頼もうかと嬉しそうに写真付きのメニューを見てるだけで、こっちまでほころんでくる。
「すいません」
牧さんは何にするか決まったのか、店員を呼んだ。
「えーっと。これと、これ」
さっき案内してくれた店員さんが来ると、その人にメニューが見えるように見せ、指をさしている。
「ベリータートとザッハトルテですね」
店員さんが読み上げると、「飲み物はお前の担当だろ?」とでもいうように、今度はメニューを俺に渡してきた。
「あと、このカフェラテ、二つで」
俺も写真をさして注文する。今から牧さんの反応を想像してわくわくする。相変わらず、わくわくなんて思いをさせてくれる牧さんって凄いなと思いつつ、きょろきょろと店内を見回す牧さんの顔を楽しそうに見つめた。
「こういうとこ、来たことねぇな」
「まあ、女の子同士かカップルですよね、普通。牧さんは特にこねーでしょ、周り男ばっかだから」
「安くていっぱい食えるファミレスぐらいだった」
高校時代はずっと部活の仲間に守られて、大学になると、オメガのせいで体調の変化が著しくなって検査ばかりだし、何より狙われる側になった事でいろんな制約がかかってしまい、人との交流はかなり減った。それは俺にとって嬉しい事ではあるけど、牧さんのやりたい事が制限されるのは牧さんのいろんな才能を殺してしまってるようで、なんだか複雑な気持ちになる。
「俺は姉に無理矢理連れてかれます」
唐突に出た“姉”という言葉に、牧さんは少しだけ唇をむすんでしまう。オメガは思ってる以上に繊細という事も、牧さんがオメガになって初めて知った。それを分かってるのに、余計な事を口に出したせいで過去の記憶を呼び起こしてしまい、今度は俺が牧さんを複雑な気分にさせてしまった。
「仲、いいんだな」
それでも、気にしてないかのように会話を続けてくれる。そんなところが牧さんの魅力。
「弟の番いに夢中なだけですよ」
実際会えば、姉の口からは牧さんの事だけだ。俺の家族は皆んなオメガに心酔しきった研究員で、俺が牧さんを番いにしてからは、それはもう毎日がお祭り騒ぎかのように連絡が来る。身内にオメガがいる場合は、正当な判断ができないという事で、担当者になる事はない。だから唯一接点が持てるのは、俺といる時だけ。でも、まだ番になる二年前、姉の一言で牧さんに誤解を生んでしまって、俺との仲が危ぶまれる程不安にさせてしまった。今はもう誤解は解けたが、こうやって突拍子もなく会話に出てくると、姉の存在は今でも牧さんの心を一瞬曇らせる。
「研究員からすれば、牧さんは神のような存在みたいっすよ」
「神って、…なんだそれ。意味が分からん。…来年から一緒に働くのに」
「えっ!?」
「就職が決まった、研究所に」
「そんな事、一度も…」
「まぁ、…こうなった瞬間から、バスケはできないと思ってたからな」
残酷な一言が返ってきた。やっぱり牧さんはオメガになった事で、いろいろな事を諦めてしまってる。
「そんな顔すんな。俺は好きでそうしただけだ。自分の事が知りたいと思ったから、それがわかる唯一の場所に就職したってだけだ」
テーブルの上に乗せてた俺の腕をちょんと指でつつく。俺の落ちてしまった気分を上げるのに、こんな可愛い事をしてくる。
「お前は、プロ目指すだろ?」
ん?と、確認するように首を傾げる仕草は最高に可愛かった。
「牧さんは?俺がバスケしてる姿、ずっと見てたい?」
俺の腕で遊ぶ牧さんの手を握って、今度は俺が牧さんの指で遊ぶ。このでかい指が、本当はバスケの世界で活躍するのを見たかった。
「当たり前だ。お前が代表でキャプテンになるまでやってもらう」
「はは、俺がキャプテンになんの?絶対ムリだと思うけど」
「そんな事は分かってる。俺がお前の精神を鍛え上げてキャプテンにさせるんだ」
なんなの、この人…。
それって、ずっと俺の側にいるってことだろ。
既に番いにはなっている。でもそれはお互い惹かれ合う運命で成り立った関係で、牧さんの中では好きという感情から成り立ったわけじゃない。心の底ではどう思ってるのか分からない。正直、本質の気持ちの部分は未だ計り知れなかった。だから、こうやって牧さんから放たれる何気ない言葉が、俺の心を震わせる。
「それに、お前がプロになったら、そっちに一緒に着いていけるらしい」
「着いていくって、…一緒に住むって事?」
「そうだ」
「移籍して場所変わっても?」
「そうだ。まぁ、要はずっとお前と一緒にいれるって事だ。そんな仕事先、ここ以外ないだろ」
研究所からしたら俺のそばにいる事が最善で、俺にはメリットしかない。でもそれは必然的に牧さんの行動を制限する事になる。それなのに、牧さんはそれをいい事のように言う。牧さんが無理を言えば、プロにだってなれたはず。プロにならなくても、したい事を仕事にできた。なのに牧さんは俺と一緒にいたいと。俺と一緒にいれるから、研究所を選んだ。
どうしよう…
頭が沸騰しそうだ。
「嫌、だったか?」
ん?と不安気に覗き込む顔。
「そんなわけないでしょ。そうじゃなくて、…嬉し過ぎて、言葉が出なかっただけ」
こんなにも俺との事を考えてくれてるなんて。
将来を見据えて、語ってくれるなんて。
俺は遊んでいた牧さんの手を握りキスをする。牧さんは人のいる場所でした事にびっくりして、それでもその手を払うことはなく、俺の好きにさせてくれる。何も喋らず、ただ手と戯れてるだけ。それでも牧さんの体温を感じられて凄く心地いい。牧さんと俺の間で流れる優しい空気が堪らない。最高に幸せな瞬間。ずっとずっとこの空間にいたい。暫く二人の世界に浸って戯れていたけど、その時間も終わりを告げて、ふとその手が離れていった。
「お待たせしました、カフェラテです」
運ばれてきたコーヒーの匂いに空気が包まれる。俺の後ろで気配を感じて離されてしまった手が寂しい。それでも、ゆっくりと置かれた器に思わずふっと笑ってしまう。
「おっ、凄いな」
目の前のカップの中は、泡で描かれたハートの絵。牧さんの驚いた声で俺の心は満たされる。この声が聞きたくて、今日はここに連れてきたから。
「こんなことできんのか」
「凄いでしょ。俺もこれ見た時すげーって思った」
「…飲むの、勿体ねぇ」
ハートを見つめる瞳がキラキラと輝きを増す。
「これ、俺の気持ちね」
そう言った瞬間、ばっと顔が向けられて、目と目がぶつかる。今日この日が、どういう意味を持ってるのか、これを見れば一目瞭然。どうしても気持ちを伝えたくて、俺はここに牧さんを連れてきた。それはちゃんと伝わったようで、嬉しそうに柔らかく微笑む。
「いい香りだ」
両手でカップを持って、こくっと飲む姿はめちゃくちゃ可愛いかった。
「お待たせしました。ベリータートとザッハトルテです」
歩く音で近づいてきたのが分かっていたけど、どうしても牧さんの顔を見ると嬉しさで顔がにやけてしまう。その嬉しさのまま、ケーキを置いた店員さんに「ありがとうございます」と伝えれば、満面の笑みで「ごゆっくり」と言って去っていった。余りの笑顔に面食らって、ケーキの方に目をやれば、運ばれてきたケーキに今度は俺が驚いた。メニューをめくっていた時に見た写真と違い、そこにはハートのチョコが乗っていた。
「これは、俺の気持ちだ」
今度は俺が視線を上げれば、してやったりな顔が楽しそうに俺を見ていた。心臓が一気に跳ねて、がらにもなく顔が赤くなる。まさか、牧さんからこんなふうに気持ちを表現されるなんて思ってもみなかった。
「ほら、…」
牧さんは上に乗っているハートのチョコを手で取ると、俺の口元に近づける。これは疑う余地なく、“あーん”という意味で、俺は導かれるまま自然と口を開けて、牧さんからの愛を受け入れる。側から見れば、気持ち悪いバカップルにしか見えないだろうけど、牧さんが人がいる所でこんな事をしてくれるなんて、奇跡としか言いようがなくて、俺は喜んで馬鹿になる。口に広がる甘いチョコにハート柄のラテを一口飲めば、コーヒーの苦味が相まってさらに美味しさを引き立てた。
「ほら、これも」
苺の乗ったケーキのチョコにはクリームがついていて、チョコの苦味とクリームの甘さが絡み合っていく。
「っ、…ばかっ、こんなところで…」
逃げないように牧さんの手を掴み、口の中で溶けたチョコを牧さんの指に絡ませて、舌で優しく愛撫する。俺の舌の動きにぴくんと指が反応して、引こうとするのを力を入れて逃さない。赤くなった顔は俺の舌の動きで徐々に別の熱へと変化する。わざと目を合わせて見せつけるように舌を出せば、眉が下がり眉間に皺がよった。少しだけ荒くなった息と、潤った瞳が僅かに揺らぐ。それでも俺から目を離さない。引こうとする手はもう既に力を失って、されるがままになった。散々舐めた後ゆっくりと指の先っぽを吸い、最後にひと舐めする。もう一度、ちゅっとキスをしてやっと解放すれば、うるうると煌めく瞳が俺を見つめて、ちろりと上唇を舐めている。自分の元に手を戻し、俺が触れていた部分を今度は牧さんの唇が触れていき、ぺろっと舌で縁をなぞる。牧さんは早く俺に食べられたくて、こうやって無意識に俺を誘惑する。牧さんから放たれる匂いが熱を帯びて、今ここで一番甘いのは牧さんになった。こんなに美味しそうな牧さんを見ていたら、今すぐ家に帰りたくなる。それでも、俺は我慢する。我慢すればするだけ、牧さんを味わう時は痺れるような快感が味わえるから。それにもう少し、この柔らかい牧さんを堪能して、甘い雰囲気を味わいたい。
どうやって家に誘おうか…
お互い明日も大学だ。番ってるとは言え、まだ学生の俺達は、日々の時間に制限され、オメガと言っても日本に二人しかいない特殊なオメガの牧さんは、常に守られた環境でしか過ごすことができない。だから牧さんは休みの時しか俺の家に来ないし、牧さんが家に来るとなると周りがそれに対応する為にいろいろと動く。でもこんなにも幸せにさせられたら、そのまま家に返すなんてできるわけがない。
「ちょっとお母さんに電話しますね」
「お、まえ…」
もう牧さんは俺が何を言うのか察してる。
「分かってると思うけど、今日は返す気ないですから」
「なっ…」
それでも、直接的な言葉に顔を真っ赤にするのがほんとに可愛い。
「牧さんは帰ろうなんて考えないで、黙ってケーキを堪能してて下さい」
俺の断言にどうこう言うのを諦めたのか、仕方なくフォークを持つ。俺はいざっていう時の為に研究所から渡されていた携帯を出す。世間一般で扱われている物とは違い、色んな機能が搭載されたこの携帯に、牧さんの興味は既にその電話にいってて「それすげーよな」なんて、呑気に話してる。牧さんの腕に嵌められてる機械の方が俺の携帯よりよっぽど凄くて、牧さんの変化に随時反応してデータを送信し、電話もできるし、位置も分かってしまう代物なのに、機械に疎そうな牧さんはそんな事考えもしない。そういうところもすごく可愛い。そんな可愛い牧さんは、今は美味しそうにケーキを頬張っている。
可愛い、すごく可愛い。
「後で牧さん食べさせてね」
食べさせてね、という意味をどういうふうに捉えたのか。ぴたりと動きが止まり「こんな所で何言ってんだ」と、今にも文句を言いそうな唇を一瞬にして塞ぐ。
「つまみ食い」
ちょっと動けば直ぐにキスができる程の距離。それでもされるなんて思ってなかったんだろう。呆気に取られ放心状態の牧さんの熱く火照った頬を撫でる。今の牧さんは既に熱にうなされて少しづつ溶けていきそうだ。早く、早く、食べてしまいたい。言葉を発する余裕がないのをいい事に、その魅力的な甘い唇にもう一度キスをして、まずはお母さんの許可をもらう為に、牧さんの家の番号を押した。